重い雲が空を覆い、海は灰色に凍えている、

そんな風景を、はじめて見たとウエイターのひとりが言って、

雪っていうの、見たことないんですよね、俺、と続けるのを

サンジは椅子に深く腰掛けながら聞いた。

飾り物のはずだった暖炉には、薪がくべられて赤々と炎は生き物のようにうねる。

「ばーか、ここを一歩出て行けば、一年中雪っていう国だってあるんだよ」

サンジの声にまた別のウエイターが振り向く。

「一年中?」

想像すら出来ない、という表情をしている。

この海はいつだって穏やかで青く、遠くまで空は澄んでいるのだ、

彼の驚きもわからないではない。

今日のような光景は珍しいというよりも天変地異の類に等しい。

火は燃える。

パチ、と音がする。

その様子に見とれながら、サンジは雪に閉ざされた国の、

白い世界と、白い世界に飲みこまれる途中に見た男の背中の話をした。

それから、そこで出会った小さな医者の話を。

話終えると、外は先ほどよりも暗さを増し、

ぽっかりと灯る灯台の明かりに照らされる凍えた海に、

雪の最初のひとひらが舞うのが見えた。

「なあ、雪」

声をかけると雪を見たことのない彼等は、

はじめてのそれに興奮したように、すごいすごいすごいすごいと叫びながら外へと飛び出して行く。

すべて中途半端に残された仕事に苦笑いをしながら、

サンジはそこで、ふと思い出したように、顔を上げた。

そういえば、今日はあの小さなトナカイの誕生日ではなかっただろうか。

 

 

 

とどめをハデにくれ

 

 

 

最後の夜を覚えている。

こういうことを言うのはたぶん卑怯だっておめえは思うんだろうけど、

と彼が、真っ暗な海と空の交じり合うあたりを見つめて言ったのだ。

月は薄っぺらく、冷たそうに空に浮かび、

クルーは寝入ってしまったのか、見張り台から見下ろした甲板に人影はなく、

彼は最後の夜食を、もったいなさそうに小さく開けた口で、

普段ならば三口のところを百口くらいで食べているとこで、

サンジはタバコの火が風でなかなかつかないのに焦れている最中だった。

「おめえのアホ面が見れなくておまけに飯が食えないってのはけっこうかなり、きついかもしれねえ」

火のついていないタバコを噛みながら、餌付けしておいて良かった、と思った。

惜しまれない別れなんてそんなもの悲しすぎる。

彼はいたって真面目な顔をしていたし、回りは暗すぎて

波の音だけがそこにあって、だから隣りに座る彼のぬくもりが、

きっとこの先忘れてしまうことなんかないくらいに確かすぎて、

この海がずっと夢だったんだ、と、夢だったんだ、夢だったんだよ、

と二百回くらい繰り返さなければ泣いてしまいそうだった。

青い海に置き去りにされるような気分だった。

夢の場所だったのに、あれほど恋焦がれた場所だったのに。

くだんねえよ。

そういうバカヤロウなセリフはおととい言いやがれ。

いくつの島を越えて、いくつの海を渡ったと思ってんだよ、ゾロ。

「飯が食いたくなったら、来いよ、これ、やるから」

差し出された紙切れに彼は不思議そうな顔をして、

それをランプにかざし、ごはんけんむきげんゆうこう、と

ミミズの這ったような文字を読み上げた。

「なんだこれ」

「フリーパスだよ」

「おまえ字、ほんっと下手だな、しかも切れ端」

隣りのその体温が、笑い動く度に、ほわほわと夜に散って行った。

それからはずっと思い出話ばかりだった。

楽しかった思い出を、共有していることがなにより嬉しかった。

けれど、笑いながらも次の瞬間にはすぐに、

真面目な顔になってしまうような、そんな夜だった。

そして、最後に、手が、髪を撫ぜて去った。

 

 

 

「料理長、すごいっすよ、雪がばあーって、灯台の明かりにばあーって、すっげえんスよ!」

鼻の頭を赤くしてひとりのウエイターが戻ってきた。

「イブに雪なんて、ロマンティックですよね、俺彼女と見たかったなあ」

テーブルクロスを畳みながら、ウエイターは夢見るように言う。

クリスマスの彩りはレストランのどこにも見当たらない。

料理長、ツリーとかどおーんと飾らないんですか、クリスマスなんだし、と

言ったのもこの彼だったことを思い出し、サンジは少しほほえましい気持ちになった。

それでも、どんなにほほえましい気持ちになったとしても、ここへツリーが飾られることはない。

クリスマスはいつも仕事に追われていたサンジがはじめてクリスマスを味わったのは、あの船に乗っていたときだけだ。

だから、だ、と思う。

だから嫌なのだ。

幸せそうな飾り付けを見ただけで、また自分は弱虫のようになってしまう。

頭を撫ぜたあの手を思い出してしまい、もみの木の下で泣いてしまうだろう。

「彼女、いねえの?」

「いませんよお、料理長こそ、どうなんですか」

「いねえよ」

「またまたあ」

「ううん、いねえ。ずっといねえよ」

銀のスプーンは磨かれて暖炉の火を映す。

雪は一晩中降り続き、明日の朝にはきっと、世界を白く染めるのだろう。

 

 

「ハッピーバースデイ、チョッパー」

暗闇に暖炉の火だけが明るい。

グラスを揺すって小さなトナカイに祝いの言葉を呟いた。

数年前ならば、船長が飽きもせず、肉、と腰にまとわり付いてきただろうに、ここはこんなに静かだ。

あの場所では、うるさいほどに笑い声が響き、肉もっと、肉、と騒ぐ声がして、

もう、あんた食べすぎよ、そのお腹、みっともない、とオレンジの髪の彼女は笑うのだ。

「ナミさあーん、逢いたいよーう」

独り言は薪の崩れる音にかき消され、沈黙に埋もれる。

去年の春にも新しく世界の頂点へと立った男のために、こうしてひとり酒を飲んだ。

蝋燭の明かりを彼に見たてて、話しかけた。

よう、大剣豪、そこからの眺めはどうだ、

腹に穴、開けてねえか、腕、なくしてないかよ、

腹、減らしてねえのか、こんにゃろう。

なあ、ゾロ。

いますぐここへ現れろ。

そして食え。

俺の飯を食え。

喉を鳴らし、むさぼり食え。

そうしたら、ゆっくりと、おまえにどめを刺してやる。

夢は見た。思い残すことなんかありもしない。

とどめを深く。

深く、深く、深く。

答えるように蝋燭の火は震え、時折体を細めては、笑うような仕草をした。

瞬きを忘れその火に見とれていたために、目を閉じたとたん、乾き過ぎたそこからは、潤す水が流れた。

くだんねえこと思い出しちまったじゃねえか、クソトナカイ。

ロマンティックな日に生まれて来てんじゃねえよ。

「ハッピバースデイチョッパーハッピーバースデイディア・・・」

諦めて、サンジはコートを羽織り、外へ出た。

息は白く、思わず魂がそこから抜けて行くような、錯覚を起こす。

ぼたぼたと、モチのような雪は、あてどもなく黒い海へと飲まれて行く。

灯台の脇の崖に立ち、海を見つめた。

暗くてなにもわからない、その暗闇に歌を歌う。

「もおーろーびとーこぞおーりーてーむかーえまーつれえーひさあしいくううーまちいいにいしいい

しゅっはーきっまーせぇりーしゅうはっきまっせえりーしゅうはあーしゅーうはあきまーせーりー」

もろびとって誰だよ、こぞるってなんだ、そう思いながらも、喉が掠れそうな声を上げて歌った。

月さえも見えない暗闇に、歌は染み込んで行くように消えて行く。

届け、メリー号に、などと思わないではなかったが、それほどロマンティストなわけでもない。

ただ、大きな声を出して、叫ぶようにしていなければ、おぞましい言葉さえ口に出してしまいそうだった。

さみしいと、言ってしまいそうだった。

死んだ白い子猫の死体のように雪は、力なく地上へと落下し続けた。

 

 

 

翌日は朝から考え事などする暇もないほどの忙しさだった。

着飾った人々がテーブルを囲み、賑わいは途切れることがなかった。

客に呼ばれれば、クリスマスの話題も喜んでした。

ボウズ、プレゼントはなにを貰ったんだよ、そう声をかければ、

目を輝かせてツリーの下へ置いてあった、贈り物の話を興奮したように語り出す子供と、

温かな目で見守る親の、幸福のクリスマスの光景が見れた。

晴れた窓の外は、降り積もった真っ白で光りを跳ね返す雪に、目も開けていられないほどだった。

「ねえ、オーナー、とても美味しかったわ、これ、私のための特別メニューなのでしょう?」

分厚い唇にこってりと赤い色をのせた年増がサンジの腕を撫でるようにして見上げながら微笑む。

レストランをはじめてすぐの頃、サンジはこのミシュランの女記者と寝た。

男芸者だと蔑まれようとも、商売にはそういうことだって必要なのだ。

客が来なければレストランはその価値を持たない。

結果、三ツ星を授かったここは、あらゆる海から客を呼ぶことになった。

「気に入って頂けましたか、マドモアゼル?」

「いやだわ、名前で呼んでって言ってるじゃない」

軽く頷いて、彼女の名前を囁き、

他のお客様が三ツ星シェフの料理を待っている、ごめんね、と、

毒々しい色に胸焼けがしてサンジは赤い唇から目を逸らす。

赤い色も、贅沢なドレスも、なにひとつ身につけていない彼の、

真っ直ぐに立つ背中のほうが、よっぽど美しいのを知っていた。

 

 

 

賑わいの引いた厨房の隅で、カードを開く。

昼間に、配達の、凍えるカモメがやって来て言った。

「今年も来たよ」

いいね、僕もそういうカードを貰ってみたいよ。

寂しそうなカモメに、来年は俺が書いてやるよ、と

彼の好物であるあぶったししゃもを新聞紙に包んで持たせてやった。

「ありがとう、メリークリスマス、サンジ」

「ああ、メリークリスマス」

風の唸る音が海から吹いてくる。

「メリークリスマスサンジくん」

ゆっくりと美しい文字を読み上げた。

メリークリスマス、レストランは相変わらず忙しいみたいね、星を落とさないなんてすごいじゃない。

ところで、プレゼントは到着したかしら。

念のため、一ヶ月前には出しておいたけれど、

間に合っていないかもしれないわね、グランドラインは広いから。

リボンはかけていないけれど、とてもいいものよ。

笑顔で受けとってよね、泣いたらだめよ。

男の子なんだから。

広い海の片隅から、いつもあなたの幸せを願ってる。

メリークリスマスアンドハッピーニューイヤー、ナミ。

「プレゼント?」

毎年この時期になると届く、あの船からの荷物が、そういえば今年はまだ届いていない。

開くと潮の匂いがふいに香るようなあの包みが届いていないだろうかと、

事務所のほうを覗いてみたり、あることがないのを知っていながらベッドの下や

クローゼットの中まで探したり、カモメ便の支店へと連絡を取ってみたが、

そういう荷物は一切預かっていないと、素気無く返された。

「もう一回調べてくれよ、ゴーイングメリー号からの荷物なんだ」

「何度も調べたよ、でも、そういうのは残念だけど、見ていない」

カモメ便の事務所のヒツジが、僕だってもう家に帰ってターキーを食べたいよ、

今日はもうくたくたなんだ、カモメは寒いから飛びたくないなんて言うしさ、

ねえ、わかってくれるだろう?明日になれば届くかもしれない、

それに君も今日はくたくたのはずだ、だから今日はもう眠ってしまえばいいよ、

と、もそもそと草食動物特有の声で言う。

「てめえ今度うちに顔だしてみろ、職務怠慢のヒツジなんか、極上のラムチョップにしてやる」

でんでん虫を叩き付け、サンジは、書類や灰皿で汚く汚れた事務所の机に突っ伏した。

「くそう、役に立たねえクソカモメの野郎もだ、たっぷり出汁とって、ガラスープにしてやる」

懐かしいあの香りが、今夜はおあずけになってしまった。

「もおーろびとーこぞおーりぃてぇ・・・・」

力ない声は、掠れて、がらんどうの建物に響く。

 

 

 

深夜にふたたび降りはじめた雪は、溶けきらない白い絨毯の上に、柔らかく舞い落ちた。

三ツ星も、この海も、手に入れて、けれど欲しかったものは

手をすり抜けて逃げて行った、と夢の中でサンジは思う。

欲しいものはなんだ、と誰かが問うた。

「決まってるじゃねえか」

白い雪についた足跡を見せて、誰かは諭すように言う。

「ごらんなさい、足跡が、あなたの家まで続いている」

足跡は曲がったりくねったりしながら、レストランへと届いていた。

雪は音もなくそれを消し去ろうと空からやって来る。

「急がないと、ほら、すぐに見えなくなってしまう」

雪が降る。

足跡を辿ることを放棄して、サンジは地べたに頬を寄せた。

ひんやりと、柔らかに、それはとても心地が良い。

もっと降れ、そう空に向かって念じた。

天変地異だってなんだっていい、もっともっともっと降れ。

果てしなく世界に白を塗り付け、あの背中をもう一度見せろ。

傷ひとつなく、孤独に、尊厳に満ちて立つ、あの背中を見せてくれ。

ただの、白い幻でも、かまわない。

 

 

 

 

どおん、どおん、と不審な物音を聞いたのは朝方のことだった。

建物が不審な物音とともに揺れている。

「なんだってんだ、うちには嬰児なんかいねえぞ、オイ」

その儀式なら、昨夜に終わったはずではなかったか。

目を擦り、ガウンを着込む。

かけ時計は四時を示していた。

昨日の残りのコンソメスープがあったはずだ。それからパンも。

あれを温めて出してやるか、と思いながら廊下へ出た。

冷気があたりを包み、どおんどおん、と音が続いている。

非常識このうえない大きな音に、朝方のノックは、もっと静かにするものだ、と舌を打つ。

階段の途中から覗き見ると、ドアが開いているのか雪が吹き込んでいた。

「馬小屋も開いてねえぞー」

どおん、どおん、と音は止まない。

ひゅう、と風が吹いて、ガウンを羽織っただけの体に震えを起こす。

「おいおい、建物を壊すのはやめてくれ、腹が減ってるなら、大人しくそこのテーブルにでも座りやがれ」

おう、と誰かが返事をした。

腹減ってんだ、とも言った。

「え?」

喉が引き攣り、発した言葉は滑稽な様子で、朝もやに浮いた。

開け放たれたドアの前にはぼろぼろの身なりをした男が、肩に雪を乗せて立っていて、

手にはその服装よりも酷くくたびれた紙切れを握っている。

「むきげんゆうこうだろうが」

拗ねたような声で言う男の体には、ジャングルにでも迷いこんだような

奇妙な草花があちこちに張り付いていた。

けれど腹に穴も開いておらず、腕も、きちんと二つ、身につけていた。

二本足で立つ男は、確かに彼で、幽霊でもなかった。

「そんで、これ」

男が顎で指したドアのところには、不恰好に引っ掛かっている巨大なもみの木がある。

「ツリーの下で眠っとこうと思ったんだけど、入らなくてよ」

常識で考えろよ、そんな木が家んなか入ると思うかよ、とか、

クリスマスはとうに終わってんだぞ、だからその木も用なしだ、とか、

だいたいなんでドアが真っ二つなんだ、これじゃ仕事になんねえだろうが、とか、

くそやろうとか、ばかやろうとか、このやろうとか、

ずっとずっとずっとふかくふかくふかく海の底にいたみたいだったとか、

すべて言いたいことを飲み込んで、その変わりに、笑った。

くそむかつくてめえに、やっとやっとやっととどめを刺せる。

黒刀を背負うあの男ではなく、おまえとどめを刺すのはこの俺なんだ。

心臓に一発、派手にぶち込んでやりたかった、ずっと。

そう思いながら笑った。

拍子に、嗚咽のような声が出た。

頬が熱い。

戸惑う腕が、伸びてくる。

ああ、もう、どうしようもない。

とどめを刺されてしまいそうだ。

カードに書かれた彼女の綺麗な文字を思い出し、そっと彼女に呟いた。

ごめん、ナミさん、なんか、俺、もうだめみたい。

「笑うのか泣くのかどっちかにしとけよ、アホコック」

雪の塊が頬に当たって溶ける。

遅れてやって来たそのプレゼントの肩からは、胸の痛むほど、懐かしい潮の匂いがした。

 

 

終わり