それは、すぐそこ

 

A面



月が出るといつもだ。
月が出るとコックは機嫌が大変よろしくなる。
月はまるくてでかくて黄色くて、
そして低く浮かんでいなければいけない。
そういう夜にコックはゾロを呼ぶ。ゾロ、と呼ぶのだ。
それはいつものコックの声とは違う様子をしていて、
だからゾロは、月の晩が憂鬱で仕方がない。
仕方がないのだが、狭い船の中では
逃げ場もないのだから、ほんとうに仕方がない。
ゾロ、と呼ぶときのコックの声が好きだ、
と思ってもそれを彼に知られてしまてはいけない。
呼ばれれば、疼く。
疼くのはたぶん、心だとゾロは思う。
だが、心など、そういう曖昧な体の部分については
詳しく知らないので、もしかすると、
疼いているのは他の場所かも知れなかったが、疼くことにはかわりがない。
疼いて、たまらなくなる。
だからといって、自分になにが出来るのかといえば、なにもない。
コックに声がいい、とか、もっと名を呼べ、だとか、
そんな寝言を言えば一笑に伏されることは目に見えているし、
それはコックに負けを認めることになるような気がしているので、
やはりゾロにはなにもするべきことがない。
ただ見張り台の上でコックの足音が聞こえてくるのを待つしかない。
かちゃりとドアが開いて、コックの足音がすると、
自分の身が緊張して一瞬だけ強張るのを自覚してはいるが、
自覚なんて出来ないほうが良かった、とつくづくゾロは思う。
それはすなわちコックがここへとやって来るのを
待ちかねていることを、体が先に知っているようではないか、と思うからだ。
見張り台の上から低い月は手に掴むことさえ可能に見える。
すぐそこにあるように思えるそれは、ほんとうは遥か彼方に浮かんでいる。
あるけれど、ない。手にすることが出来なければないのと一緒だ。
月みたいなコックの髪は煙草の匂いが染み付いてしまっていて、
そのうえ日に焼けてところどころ痛んでしまっていたりする。
それは手の届かない月も、実際はクレーターだらけなのと似ていた。
手触りはどうなのだろう。
ゾロはコックのあの黄色の髪がきしんでいればいい、と思う。
痛んできしんでしまっていたら、いいと思う。
手のひらだって、荒れてかさついていればいいと思う。
だって、月面は荒涼としていて岩ばかりなのだから。
月みたいに光って、月みたいにざらついていればいいと思う。
そのかさついたものたちが、自分の頬を撫でるのを、うっとりと想像した。
実現されることのない、想像。すぐそこにあってなお遠い、存在。
かちゃり、とドアが開く音がした。そして、足音。
コックのあの声の真似をして、見張り台の上で
こっそりとゾロは、彼の名を呼んだ。
梯子の軋む音がする。

 

オートリバース



月の明かりははっきりと影を足元へと伸ばし、
コックの体が動く度にそれも移動する。
コックの声が自分を呼ぶのを心地よく耳に受けとめながら、
コックの影を見つめながら、ゾロはスープをすすった。
空腹をおぼえた腹にそれはほっこりとたまっていく。
美味い、と思いながら横顔を盗み見た。
美味いと言えばコックが笑顔になるのを知っていた。
だからコックの笑顔を見たければその言葉を言えばいいのを知っていたし、
他には言うべきことがない―正確に言えば自分は彼にかけるべき
それ以外の言葉を知らなかった―ので、コックの吐き出す煙が
月の明かりにゆらゆらしているのを見て、
それから、思わず口をついて出たとでも見えるように口を開くことにした。
「美味いな。」
それはすばらしいさりげなさをもって成功する。
コックはゆっくりと顔をこちらへ向けて、そして笑う。
指先に挟まれた煙草をもう1度唇へと戻す。ゾロはそれを見る。
昼間の陽の光にはその煙は違う様子で消えて、溶ける。
いまは夜だ。コックの好きな、月の晩だ。
鼻歌でも歌い出しそうな機嫌のコックは、だろう、と言いたげに目を細めて、
あの声でゾロを呼んだ。ちくり、とする。
「ゾロ。」
コックは月が出るといつも、普段は呼ばない名前でゾロを呼ぶ。
呼ぶが、呼んでなにかをしたいわけではないらしく、名前を呼んで、それだけだ。
それだけのことに自分が憂鬱になってしまうのは平等ではない気がする。
「ゾロ、おまえ、うさぎって好きか。」
「うさぎ?」
「うん、うさぎ。」
「月、見て、」
「そう、月、見た。」
「それで、うさぎ。」
「それで、うさぎだよ。」
コックの髪が月に照らされる。コックの髪は、風に揺れる。
流される髪を追うように、煙がゆらゆらとする。
うさぎ、とゾロは呟いて、頭上のでかく低く、丸い月を仰いだ。
「な、ゾロ、うさぎって踊ると思う?」
コックがふたたび名前を呼ぶので、つられるように、顔を向けた。
ダンス、とコックは言って、ゾロ、ダンス、だよ、と言い聞かせるように、目をじっと見る。
「さあ、」
「するよ。」
そうコックは、だって、見たから、雪山で、と月を見る。
月に照らされて、コックは青い色をしている。
青い色のコックが体を揺らし、海賊だって、踊る、と笑う。
「うさぎだって踊るんだから、海賊だって、ダンスくらいするんだ。」
海賊のダンスは波のリズムに乗る。
「ゾロ。」
体を揺らし、コックは青い色をしている。
ゾロがコックのことを思うとき、イメージされるのは青い色で、
それはコックの目が青い色をしているからではない。
少なくともゾロにとってはそうだ。
コックの青いシャツが、そうさせるのだと思っていた。
もしくは、甲板で眠るゾロを起こすコックが、いつも青空を背負っているせいだと。
コックの目が青いなんて知らなかったのだ。
波のリズムに乗って、コックは、名を呼ぶ。
「ゾロ。」
聞いていないふりで月を見た。コックの目がこちらを見ている気配がする。
カップのなかのスープはとっくになくなってしまった。
「ゾロ。」
コックの声が憂鬱さを運んでくる。波のずっと遠くから、踊るコックは、それを運ぶ。
朝が来たら、とコックが月の夜の声で言う。
青い色のコックが、月の夜の声で、踊りながら、言うのだ。
「朝が来たら、ゾロ、太陽のダンスをしよう。」

 

B面

 

朝がまた来る。
月の出ている夜が続けばよかったのに。
伸びをしながら、太陽に照らされてゾロは思う。
隣にはコックが眠っていた。
涎が垂れていて、短いまつげが不揃いに並ぶ。
遠くまではっきりと見渡せるここは、見張り台の上だ。
朝食の準備やなにやらをしなければならないコックを起こすべきか考えたが、
不揃いのまつげがゾロに、このままにしておいてやりたい気を起こさせる。
月の下でコックが自分の名を呼ぶのを何度も聞いた。
呼ばれるたびに、憂鬱になって、そしてたまらなくなった。
コックの手は思ったよりもずっと滑らかで、そして温度が低かった。
温度の低い手が、頬を撫でるのが気持ち良かった。
コックの白い指が、ゾロのまつげをつまんで、案外長い、と笑ったのを思い出し、
彼の不揃いのまつげに触れてみた。それはなんともそっけない手触りをしている。
今度は黄色の髪に触れてみる。
こっそりイタズラをしているみたいだ、と思いながら、
日に焼けて痛んでしまった髪を撫でた。
おまえがあんな声で自分を呼ぶのだから仕方がないのだ、とコックに言った。
コックは笑っていただろうか、驚いていただろうか、
あのとき雲で隠れた月のせいで表情が見えなかった。
脱ぎ捨てられた彼の上着から煙草を取る。
コックはいまだ眠り続け、その横でゾロは
マッチを擦り、何年かぶりの煙を吸い込んだ。
糸みたいに煙は風のない空へと上り、消える途中で奇妙な模様を描く。
じっとそれを見つめた。コックがいつも、昼間自分に見せる、模様。
コックの愛撫は泣いてしまいそうに、やさしかった。
探るように、確かめるように、コックの手はゾロの体のあらゆるところを撫ぜ、
あらゆるところを撫ぜたので、その手はおなじやさしさで心までを撫ぜることになった。
月の上でも、うさぎはダンスをするかな、コックがやさしい手で撫ぜながら言った。
雪山でも踊るのだから、月の上だってきっとそうだろう、と言ってやると満足したように微笑んだ。
コックは受け入れることがはじめてではないようだった。
それらのことが切れ切れの映像となって、
目の前の朝の景色を横切るので憂鬱になる。
憂鬱であって、そうではない。
捉え切れない気持ちを持て余し煙草の煙を深く、
肺に染みついてしまえばいい、とばかりに吸い込んだ。
コックがとまどった顔をしたのは、あれ1度きりだった。
ゾロにやさしく教えるように先を促し、
そのときの自分の反応に、コックはとまどった顔をした。
もしかするとコックは困っていたのかもしれない。
朝の光がコックの髪を明るく揺らす。いますぐ月が彼を、照らせばいいのに。
サンジィー、とルフィの声がした。
咥え煙草で下を覗くと、自分に気がつき、サンジは、と言う。
「寝てるよ。」
大きな声で、コックが目を覚ましたかもしれない。
それでもまだ背後の気配は動かない。
目を覚まして欲しくなかった。
そして誰もここへ近づいて欲しくなかった。
憂鬱であって、そうではない気分で、そう思う。
「飯は?」
「すぐだろ。」
「だって寝てるんだろ。」
「ああ、寝てる。」
「おまえはそこでなにやってんだ?」
「寝てた。」
「ふうん。ふたりで?」
「ふたりで。」
「ずっと?」
「ずっと。」
「夜からずっと?」
「ああ。」
「じゃあさ、月、綺麗だっただろ。」
見張り台から見ると、近いかんじがして好きだ、とルフィが歯を見せる。
次の月夜も、ここで、月を見よう、とコックに言ったのを思い出した。
自分は情けない声をしていただろう。きっと情けない顔をしていただろう。
ゾロの言葉に、うさぎは、ダンスするよな、とコックは笑い、けれど
青く彼を照らしていた月の光は自分の体とよぎった雲にさえぎられ、
青い目も、黄色の髪も、暗い色をしていた。
笑っていると知ったのは彼のその気配によってであって、見ることは叶わなかった。
「じゃあ海賊だって踊る。」
月の夜のその声はやはりゾロの心を疼かせて、たまらなくさせた。
「求愛のダンスを月夜の晩に。」
コックの言うことは、いつだって歯の浮きそうな寝言ばかりだ。
けれどそんなものだって、この際はよしとしよう。
下のルフィが、飯、と歌うような調子で続ける。
煙草は長さを縮め、糸のような煙は朝の空気に消えてなくなる。
目を覚ませば、コックは、太陽のリズムで踊るだろう。




おわり