港のマリー

     

     

     

     

誕生日だ、そう言うとその女はおごりだと、とっておきだという酒を出してくれた。

いい男だからサービスするわ、とも女は言って俺は浮かれた。

隣に男がいるにも関わらず、だ。

けれどもそんなことはいまにはじまったことではないのを隣の男は知っているはずだった。

そして自分の行動を病気だと諦めているのを俺も知っている。

女に男達がひっきりなしに声をかける。

今夜は俺と付き合えよ、マリー。

いや、俺にしときな、俺のほうがずっといい。

マリー、彼女の名前。港で帰らぬ男を待つ女。

あの人はね、とマリーは言う。

なにも言わずに出ていってしまった。夢を追って。

そう言いながらマリーは男を想うのだ。いとおしそうに、恋をするその眼差しで。

あの人はもう忘れてしまったのかしら、とマリーは俺に語りかける。

だって言ったのよ、ベットのなかで。

もしかしたらあれはただの睦言だったのかしら。

マリーの茶色の髪がその華奢でたよりのない肩のところで波を打っている。

いいえ、あの人はたしかに言ったのよ。

マリーの指先には細い煙草。

迎えに来てくれるって言ったのよ、そう約束したの、だからあたしは待つの。

でもそろそろ来てくれないとあたしおばあちゃんになっちゃうわ、そうしたら

あの人はあたしのことがわからなくなってしまう。それは嫌ね。

マリーはそう言って笑う。

彼女はまだ若く、年老いることなど関係のないような美しさでけれど物憂げに微笑む。

ほんとうに愛した人のことはね、とマリーはなおも続ける。

憎めないのよ、けして。なにも言わずひどい人だとあなたはあの人を思うでしょうね。

でもあたしにはね、最高の人よ。最高に愛した、そう、そんな人を最愛の人と、そう呼ぶのよ。

マリーの指先が俺の咥えた煙草の先に火をつける。


水仕事で荒れたその指に哀れな女だと、そう思えばよかったかもしれない。

けれどそんなふうには思えなかった。

男達の誘いに見向きもせずにたったひとりの男を待つ女。

いつか俺は彼女のように隣に座るこの男を待つことがあるかもしれない、と考えてしまったからだ。

そしてそれはとても現実に近い想像だ。

捨てられ置き去りにされ、それでも愛するのはただひとり。

みじめだろうか。哀れだろうか。もしくは、不幸にみえるだろうか。

誕生日なのに。こんな話を聞かせてしまってごめんなさいね。

生まれてきたただそれだけで尊いことだわ。

おめでとう。あなたの未来が明るく輝きますように。

チン、とマリーと俺のグラスが鳴った。

     

     

「なあ、おまえ、ああいう話嫌い?」

「あの女か。」

「そうだ。彼女が不幸だと思うか?馬鹿だって、哀れだって、そう思うか?」

港町の安宿のベッドに座り込んで、男に尋ねる。

隣のベッドにおなじように座り込み男はいまだ酒を飲む。

流し込まれるその液体、血や肉になる、そんなもの。

俺はそういうものに、なりたい。おまえのそういうものになりたい。

けれど、きっと、それはかなわないこと。

「そんなふうには思わない。信じているやつを馬鹿にすることは、しない。」

「模範回答だな。」

「本音だ。」

窓の外の闇、薄く浮かぶ月、それを背景にベットに座る男。

おなじ、男。

バカと呼んでいいのはそれを決めた本人だけ、そう思っている男。

あのときのあのセリフに心底馬鹿だと思えた、ただそれだけだった

自分は一体どこへ行ってしまったのだろう、いつのまにか見失われてしまっていた。

そしていま自分とこの男の間にあるものは酔狂だとか、禁忌だとか、そう呼ばれるたぐいの、そういうものだ。

近くにいても変わらない、ひとりぼっちなふたり。

この男がいつか遠くに行ってしまっても、それでもそれは変わらない。

ひとりぼっちなまま、ほんとうにひとり取り残されるだけだ。

「俺、誕生日だからさ、くれよ。」

「なにを。」

「おまえ。」

そうだ。ほんとうに欲しいものはいつだってひとつだ。

そしてそれは、手に入れることなどけして出来ないものだった。

それがわかっていても欲する心は押さえきれずにこうやって言葉にまで出てきてしまう。

ひどい失態。後悔すら、わいてこない。

「おまえが欲しい。抱いて欲しいっていうんじゃねえぞ、そんなんでごまかしやがったら蹴り殺すからな。」

「どうしろっていうんだよ。」

「それくらいてめえで考えろよ。その頭は飾りか?振れば鈴が鳴るってのかよ。」

男の頭を掴んでチリンチリン、と声で言った。

俺のその手を掴んで、酔っ払ってんのかてめえ、と呆れたような声がする。

声、その手のひら、そのひとつひとつにだめにされてゆく心。

「そうやって呆れろよ、そしてずっと覚えてろ、あんなに呆れた男はいなかったって、覚えてろよ。

おまえがよこさねえっていうんだったら俺がやる。全部見せてやるよ、なんだって。

馬鹿馬鹿しいこともなんだって、全部だ、そして脳みそに刻みつけてやる。

絶対振りほどけないように。しつこいくらい、呆れるくらい、飽きるくらいに、死ぬまで覚えてるように。」

理由のない怒りとともに、つぎつぎと言葉は奇妙なほど滑らかに口をついて出て、男が驚いたように

目を見開くのにも気づかないふりをした。

酔っ払っていると思いたいならそれでよかった。

それに、そう思われているほうがよっぽど楽だ。

掴まれているままの手が熱い。そこから痺れてゆくようだと思う。

それならば、と男の声が下から聞こえ、視線をやるとその目は凪の海のような色を湛えて澄んでいた。

澄んだ色に混じる、熱。眩暈のするような。

男の腕が俺の身体をベッドに放り投げ、そして覆い被さる。

酸欠の金魚みたいになりそうなキスのあとに男が言った。

「じゃあてめえも覚えとけ、忘れんな、誰とヤろうとも俺のやりかたばかり思い出すようにしてやるよ。

刻み付けてやる、忘れられねえように、しつこいくらい、脳みそでモノなんか考えられねえくらいに、

呆れるくらい、飽きるくらい、馬鹿馬鹿しいほどヤってやる、腰立てねえって泣き言言っても知ったこっちゃねえ。

そうやって刻み付けてやる、てめえが死んじまうまで、足りねえ脳みそでも覚えてられるようにだ。覚悟しとけ、アホコック。」

唇の形だけで笑って男のいう言葉に反論を、けれど、さきほどまであんなによく回っていたはずの舌は痺れ、

言葉をうまく告ぐことが出来ない、それでもきっとかまいやしないと安宿の明かりに思った。

窓から入り込んだ蛾がその裸電球のまわりを飛びまわる。

男の手が胸をまさぐり、そこから熱は下へと伝ってゆく。

ハッピーバースデー、そんな言葉などいらない。必要がない。

ただこうやって刻み付ければいい。

呆れるくらい飽きるくらいに。

そして何年も。

ひとりぼっちになったそのときにも覚えてられるように、もっと、何度も。

     

     

FIN.