宇宙で最も複雑怪奇な交尾の儀式

 

 

 

 

ゾロは自分にキスをしてくるときのサンジの顔が好きだ。

だからいつもその間中はずっと、目を閉じていることが出来ない。

伏せられた睫毛やほんの少しだけ首をかしげる様子とその表情は

はじめてふたりがキスをしたあのときといつも変わらない。

正確に言ってしまえばあれはキスではなかったのかもしれない、とゾロは思う。

唇の上の柔らかいところについたビールの泡をサンジがふつうの顔をして

ふつうのことのように舐め取ったからだ。

すべてがあまりにもふつうだったので自分がなにをされたのかということを、

ゾロはたっぷりと2分の間、酒のせいですこしだけ重くなった頭で考えなければならなかった。

そして2分の後にこくり、と一口目のビールを喉に流し込んだのとおなじように

唾液を呑み込んだゾロの一連の行動をサンジがずっとふつうの顔をして眺めていたことまで

はっきりと覚えている。

 

恋はするものではなくて落ちるものだ、とコック共に語っていた自分の言葉を

思い出しては突然のように笑い出すサンジを昼間よくキッチンへと顔を出す

ナミやチョッパーは気味が悪いと言って嫌がる。

そうやって笑いつづけているとそのうちゆっくりと自分の口のなかに

ビールの味が広がって行くのを感じるので、

ふたりに嫌がられるのを知っていてもサンジは笑う。

そういった、他人にしてみれば馬鹿馬鹿しく気味が悪がられてしまうようなことこそ

自分がゾロを想う気持ちのあらわれだと思っているからだ。

恋をすると人は正常ではいられるはずがないというのも、彼の持論だった。

 

そんなふうにふたりは恋をしていた。

それでもふたりきりになったそのときに相手の耳元で低く、

または熱に浮かされながらうわごとのように、

恋や愛を囁くつもりがすこしもないことについてもふたりはおなじだった。

 

サンジは自分の他人より温度の低い体がゾロの体温によって温まってゆくのがとても好きだ。

けれど自分が男の下で足を開くことをいまだどこかで嫌がっているのも事実で

意識がどこかへ行ってしまうような熱に取り込まれる瞬間までどこか冷めた頭の奥のほうで

これはきっとおかしなこと、これはきっと馬鹿げたこと、呪文のように繰り返す。

自分が相手を想うこの気持ちはたしかに恋だったけれど、その感情に挑むように

していなければ負けてしまう、と思っているのだ。

負けてしまったらおしまいだった。

おしまいだとは思うが、なにに負けるのか、ということに思い当たると

それ以上のことが思いつかない。自分はなにに負けてしまうのだろう。

サンジは自分の彼のそれを異物としてしかとらえることのないアナのことを思う。

けれど異物であるのはきっとそれだけではない。

お互いがお互いにとって異物であるようにサンジは思うのだ。

けして繋がれることのない、かわいそうなふたり。

 

行為のはじまりにサンジはいつも盲目のようになってゾロの顔のいたるところを

その白い指先で触れる。

やさしいような、もどかしいような、その手つきは内蔵のもっと深いところを

握り込むので、ゾロはたまらずに名前を呼んでしまうようになる。

そうやってサンジを呼ぶ自分の声は熱を帯び、また、どうしようもないほどに掠れていて嫌になる。

掠れた声を出す自分はサンジのそのしっとりと汗ばみ吸いつく肌が

本当によく出来た自分のためだけのもののような錯覚さえ起こしてしまうのだ。

それからサンジの指の先からはいつも染みついてしまったような煙草の匂いがする。

その匂いが自分では触れることの出来ない体のどこかにおなじように染みついてしまっている

ような気がして、そんなふうに思う自分をふたたび嫌になる。

そんなことばかりを考えて、もうだめだ、とゾロは思う。

けれど思ってからすぐになにがだめなのかわからなくなってしまうので

そこから先はもうなにも考えずに熱に素直に負けることを自分に許す。

 

寝違えた、と言ってだるそうに頭をぐるぐると回しながらサンジがうらめしそうにゾロを見る。

おまえのせいだ、と言うようなその目付きに腕枕をしろと言ったのはてめえだろ、と

寝起きのよく働かない頭でゾロが言い返す。

ぜんぜん、治らねえ、ここんとこが引き攣ったみたいになって、

なんか気持ち悪い、と後ろを向いて、ここ、とサンジが自分の首を指す。

そこには昨夜の鬱血の痕が残ったままだ。

白い首筋に浮かぶそれがひどくいやらしく、もう一度そこに唇を押し当てて

もっと濃い色を付けてしまいたいような気になってゾロは少しだけ困る。

冷たい体が与える熱に素直に反応するあの様子を思い出してしまうのだ。

痛え、痛え、とまだぶつぶつと言いながらごろん、とゾロの腹の上に寝転んでサンジが口笛を吹く。

そしてなんフレーズかのあとに、いまの曲なんだ、と起きたばかりの少し鼻にかかった声が言った。

なんのことだよ、と言うゾロの声もぼやけたようにサンジの耳に届く。

わかんねえのかよ、口笛クイズだ、てめえにもわかるように

すげえ簡単な曲にしたのによ、じゃあ今度は当てろよ、そう言って

サンジはふたたび唇を尖らせてそこに曲を乗せる。

 

「わかった?」

「わかんねえ。」

「なんでだよ、簡単じゃん。」

「わかんねえもんはわかんねえんだよ。だいたいてめえの口笛は

余計な空気漏れてるんだ、そんな口笛でわかるかよ。」

「そりゃおまえ、無礼だぞ、ミスターブシドー。」

「そんなことより治ったのか、首。」

「あ?ああ、治んねえ。

ったく、腰も痛てえのに首まで痛えなんてやってらんねえよ、クソ。

ぜんぶ、てめえのせいだ。あー痛てえ、だりい、死ぬ。」

と言って、ゾロの腹の上に腕を立て、そこに顔を乗せながら唇を尖らすサンジのその表情は

まるでキスをせがんでいるようで、けれども唇はそのために使われることはなく

へんてこなメロディーがまた流れ出す。

「わかんねえよ。」

ため息をつきながらゾロはさっきとおなじことを言う。

だいたい、それは曲になってんのか、アホコック、そうあきれて思いながら

腹の上のサンジを見ると、にい、と笑って、

「クイズじゃねえよ、もう、ただの口笛。言ってみりゃいまの俺の気分てやつ?

ああ、せつねえなあ。こうやって口笛吹くだけで泣けてくる。」

笑いながら涙を滲ませる、という器用なことをやってみせた。

そんな彼の様子に、これはいくらなんでも涙腺弱すぎだろう、とゾロはこっそりと笑う。

「泣くようなタマかよ。」

「お、また無礼な発言だぞ、ミスターブシドー。」

「事実だろ。」

ゾロの言葉になんだよう、と頬を膨らませながらサンジはさっきの口笛の曲を思う。

海に浮かぶ狭い船の上ではどこへも行けない。ずっとそんな場所で生きてきた。

陸だったら、といつも思う。

陸の上ならば、どこへだって歩いて行ける。

どこへだって行くことの出来ないふたりでさえも、どこかへ。

「お、治ってきた。」

そう言って急に起きあがり首をコキコキ鳴らせながらもう一度、さっきとおなじ曲を吹く

サンジの口笛におもしろくなさそうなゾロの声が重なった。

「なんの歌だよ、それ。」

「てめえは知らなくてもいい曲だよ。つうか、用なし。」

へへへ、と続けてから、サンジはゾロの鼻をつまんでまた笑う。

「どれ、朝食の準備でもしますかね。」

そう言ってあっという間に服を着込み、んじゃな、とサンジは出て行ってしまった。

開けられたドアから朝日が入り込み、埃っぽいこの部屋に塵を浮かび上がらせると

この行為がひどく安っぽいもののような気がしてしまう。

ゾロはだからこの瞬間が一番嫌いだった。

 

うまくひとりに戻れるように慎重に注意深くサンジは包丁を動かす。

たんたん、とんとん、刻まれるリズムが自分をもどどおりにしてくれると信じているのだ。

下手な口笛を吹きながら朝食の準備をする彼は、このせつなく美しい曲が

自分にはひどく不似合いであることをわかってる。

それでも、とサンジは思う。

どこへも行けなくとも、行くところがなくとも。

鍋が沸騰して、野菜をそのなかへと放り込む。

色よく茹でられた野菜が皆の胃袋を満たすことを想像して少しだけ幸福な気持ちになった。

ルフィはいつも自分の作るものをこれまで食べたなによりもうまい、と言って口いっぱいに頬張る。

それは至極当然のことだ。どうしようもないほどの幸福で特別なスパイスが効いているのだから。

三文小説のような、愛情。

口のなかにビールの味が広がった。

 

FIN.