彼は白い、白い、手を持っている。

彼は赤い、赤い、舌を持っている。

彼は、月のように光る髪を持っていた。

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

月のゆるいカーヴ。

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

そのレストランを知ったのは偶然のことで

3つ星だとか、半年先まで予約がいっぱいだとか、

そういう類ではなかったけれど、あたしはすぐに気に入ってしまった。

そしてそのレストランでの3回目の夜に、厨房の裏で黒い髪の女が

金髪の男に抱かれているのを、見たのだ。

目が合うと、そらすことの出来ないあたしに向かって男はその女を抱いたまま

唇の形だけで笑ってみせた。

女の嬌声が薄汚い路地裏に響く中で男はあたしと目を合わせ、

うるさい女の口を笑顔を形作ったままの唇で塞いだ。

女の唇の赤い色が男の薄い唇を汚す。

薄い唇から赤い舌が顔を出し女もそれに答え始めると

あたしの存在などは忘れてしまったのだろう、

貪るようにキスを続けていたけれど、それはなんだか嘘のような気がした。

女の足を抱える手の女の足より白いのが、まるでふたりを軽蔑しているように思えたのだ。

ふたりの背後の窓からは湯気が吐き出され、ビルの谷間に薄い月が見えて、

目の前で繰り返される光景とのコントラストに、なんておかしな夜なのだろうと思った。

なにかがすこしずつずれて、そうして現れたような、迷い込んでしまったような、そんな夜だった。

そんなふうに奇妙に歪んだ夜にあたしはその男に出会った。

         

         

その夜に、夢をみた。

厨房の裏のあの路地であたしと男は並んで座っている。

男はこの間の休暇に行って来たのだという国の話をしていた。

飛行機のなかで小さなかわいい女の子と遭遇したこと、

偶然入ったレストランで食べた見たこともない料理がとてもおいしかったこと、

男がそんな話をするのをあたしはときおりあいづちを打ちながら聞いている。

夜で、雨が降ったあとのコンクリートが月に濡れて光っていた。

それでね、と男はまだ話を続ける。

子供のような顔になってふらりと立ち寄った美術館で見た

その絵がどんなに素晴らしかったかを夢中になって話す。

その絵を描いたという有名な画家の名前をあたしは知らなかった。

知らないわ、というともう一度名前を言って、そしてあたしの手のひらに

そのスペルを白い指でなぞって書いた。

覚えたでしょう、と男は言ったので忘れないわ、とあたしは答えた。

目を覚ますとレストランを出てからまだ2時間しかたっていないそんな時間で、

まだ夜のただなかに窓から月が見えた。

月はさえざえと明るく浮かび上がり、奇妙な夜に取りこまれてしまったまま

あたしは男の微笑む形の唇を思い出していた。

         

         

         
その男にもう一度会うことは簡単なことだった。

そのレストランでの5回目の夜に、

男はメインの鳩料理をあたしのテーブルまで運んで来たのだ。

4回目の夜に会えなかったことにほんの少しだけ落胆していた

あたしは男の顔を見て思わず声を上げてしまった。

「どうかなさいましたかお客様?」

彼はあの夜とおなじように唇の形だけの微笑みとともに

オキャクサマに対するウエイターの姿勢を崩さずにそう言った。

「ウエイターだったのね。」

「いいえ、お客様。わたくしはこのレストランの副料理長、本日は臨時のウエイターでございます。

なにか不都合がございましたでしょうか、なにぶん、慣れないもので・・」

「副料理長があんなふうだなんてずいぶんなレストランね。」

「・・・なかなかおっしゃいますね、レディ。けれどあなたもずいぶんと無粋だったのでは?

あいにく他人に覗かれて興奮するような趣味はございませんので。」

隣の席へまでは届いてしまわないように耳元で囁く低い声に思わず

あの夜の彼の様子を思い出し、慌ててワインを喉の奥へと流し込んだ。

「ところでお客様、今夜はおひとりなんですか。」

「いつもひとりよ。」

あたしはこのレストランの、ひとりでもゆったりとくつろげるところをとても気にいっていた。

「大変残念です、そうと知っていたなら、レディ、」

男の声は夢のなかよりももっと心地よくあたしの耳に馴染む。

「あなたの目の前のこの席を、」

と彼は大げさな身振りで言ってから本当にあたしの目の前の椅子を引き

そのまま座り込んで、言った。

「毎晩だって、予約したのに。」

         

         

車の通りの少なくなった通りを肩を並べて歩いた。

あたしたちの上にはあの夜よりも少しだけ膨らんだ月が浮かぶ。

まだ地下鉄のある時間だけど、もう少し歩こうよ、

石畳の舗道に靴音を響かせて少し先を行く彼が振り返ってあたしを見る。

今度は、あたしだけを、そう思って、笑いたくなった。

彼の仕事の終りを待つ間少しだけ考えたことがある。

彼の手についてだ。

白くて、そして、とても軽薄そうな彼の手。

「すぐそこに住んでるんだ、そうだ、おいでよ、

俺の淹れるコーヒーは世界一だって・・」

「誰が言ったのよそんなこと。」

「同居人が。」

その言葉を聞いた瞬間のあたしの表情を見逃さなかった彼が

「違うよ、男。」

と言ったので、なあんだ、そうなの、と続けようとしたけれど

その後に続いた彼の、でも、恋人、という言葉

それから笑顔にカツン、と靴音を鳴らして立ち止まってしまった。

 「だってあなた・・」

「うん、言いたいことはわかるよ、だから、言わなくてもいいよ。」

「それなのにあたしを誘うの?」

「食事はかわいい女の子としたほうが楽しいし、コーヒーを飲むのだってそうだろ?」

「理由になってないわよ。」

車はぜんぜん通らない。

明かりのついたままのショーウインドウに赤い靴が飾ってあるのに気づいて

少しも似合わないのにこんな靴を履いていた少女の頃の自分の姿を思いだし、

いまの自分はあのときとおなじくらいに滑稽かしら、と思う。

「ねえ、」

声に顔を上げると、挨拶みたいなキスをされた。

「本当に、世界一美味しいんだ。」

それからいい訳みたいな口調でそう言って、彼は困ったように笑った。

変な口説き文句だ。

こんなことで落ちると思っているのならば、救いがない。

「今朝焼いたばかりのスコーンもある。これもきっと、世界一おいしい。

世界一おいしいコーヒーと、スコーン。」

「クロテッドクリームと、ブルーベリージャムも、つけてくれる?

デザートを食べ損ねたのよ、あなたのせいで。」

もうすぐ、あたしたちは大通りへと出る。

「もちろん。」

「毎晩あたしのためにあの席を空けていてくれる?」

「もちろん。」

街灯の明かりとヘッドライトで明るく照らされた大通りまでもうすぐだ。

今夜もなんて奇妙な夜なのかしら、あの夜にもこうしてあたしたちを照らしていた

月を仰いで、そう思った。

「ねえ、あたしを好き?」

レストランの明るい照明の下では青い色をしていた彼の目が

いまはいくぶんかその色を落としてあの夜のように、にぶく光る。

「もちろん。」

「どんなふうに?」

こんなふうに、と彼は先ほどとは違う、深いキスをする。

キスの合間にこれは恋かしら、そう考えた。

けれどそんなことはすぐにどうだってよくなってしまう。

いつだって、そうだ。

         

FIN.