隣人28号。

 

 

 

 

 

彼は、レストランの副料理長で、22歳。

そして、あたしの部屋の隣に住んでいる。

彼とはじめて口を聞いたのは寒い冬の夜で、

彼は自分の部屋のドアのまえに捨て犬のような風情で座り込んでいた。

こんばんは、冷えますね。

はじめに彼はそう言った。

足元にはたくさんの煙草の吸殻が落ちていて、こんばんは、冷えますね、

そう言ったときにもその唇には真新しい煙草が挟まれていた。

彼はニコチン中毒でもある。

どうせ喧嘩でもして女に部屋を追い出されたのだろう、と思ったので無視をした。

彼のところには女が日変わりでやってくる。

髪の短い女や長い女、痩せた女、若い女、それから少しだけ年を取ったような、美人やそうでないのもいる。

節操もなく、いろんなタイプが、毎日のように彼の部屋の戸を叩く。

それから、ひとりの男。

鍵を忘れちゃって、と彼は笑った。

警戒心を取り去る笑顔で、綺麗に。

ほんとうに冷える夜だった。

時刻は2時を少し回ったところで、あたしはひどくくたびれていて早く眠ってしまいたかった。

ソファーを提供するわ、お礼は倍返しよ。

ほんとうは見捨ててしまえばよかったのだ。

マンションで犬は飼えない。

だから捨て犬は見捨ててしまうに限る。

ありがとう、犬のように尻尾を振って彼は部屋へと着いてきた。

それが、あたしと彼の出会いだった。

倍返し、と彼はロールキャベツの入った鍋とワインを持って次の日もあたしの部屋へやって来た。

30分ほど前から、隣の部屋からトマトのあまりにいい匂いがしていたので

あたしはトマトとチーズを使ったリゾットが食べたくなっていたところだった。

そしてその夜からあたしたちは本格的な知り合いとなった。

ようするにあたしは餌付けされてしまったのだ。

捨て犬に、餌付けを。

まるで出鱈目だ。

 

「いまからナミさんの部屋行ってもいい?

バイオハザードやりたいんだけど、一人じゃ怖い、たぶん眠れなくなる。」

ベランダ越しに彼が言う。

星を眺めて彼が、あいつの体に七つの傷がないのが不思議なくらいだ、と言って笑っていたのを思い出す。

七つの傷、北斗七星。

彼の話には脈絡がない。

「あたしが行くわ。夜食をなにか食べさせてくれるならね。」

1度だけ、「あいつ」を見たことがある。

緑色の髪の、目付きのするどい男。

 

「ねえ、電気消してもいい?そのほうが気分盛り上がるから。」

と彼が言って、部屋はあっというまにテレビの明かりだけになる。

テレビに向かっておそろしく真剣な顔をした彼のななめ横に座り、彼の運んできたスープを飲んだ。

彼の匂いのする毛布に包まり、湯気を立てるカップを抱えてエアコンの音を聞く。

音があると余計に怖い、と彼は本当にゾンビと戦っているかのように、

殺されてしまうことを本気で恐れているように、音のしない画面を凝視する。

まばたきの数が、とても少ない。

画面にはおどろおどろしい死体がたくさん映っていて彼は怖え、怖え、と言いながら

コントローラーを打ち、ナミさんこういうの平気?と画面を見据えたままで聞いてくる。

こういうのとはどういうことを言うのだろう。

夜中に部屋に上がり込まれること、おいしい料理で夢中にさせること、秘密を共有させること、

それとも、この恐ろしいゲームのことを言うのだろうか。

「平気よ。」

どれもこれも、あたし、ちっとも怖くなんかないわ。

ゾンビは次々に現れては魍魎のように襲い来る。

「俺、怖い。眠れなくなりそう。ねえ、そしたら手繋いで眠ってくれる?」

「お礼は、倍返しよ。」

にっこりと笑ってそう言った。

彼には彼がいる。

どうしてあんなふうに女と付き合うの?

責めるあたしに、だって、と彼は言った。

あいつの手が触れるたび、自分が自分じゃないみたいになる。

細胞がひとつずつ変わって行くんだ。

わかるんだ、もう、怖いくらいに、すごいスピードで、死んで、生まれるんだよ。

ベランダで、夜で、星が綺麗だった。

「あいつ」は彼の気狂いのような行動を知らない。

「あいつ」はまだ学生で、なにもわかっていない子供だった。

彼のレストランが休みの日―それは決まって月曜だった―の昼間に

やって来て、彼の手料理を食べて、そして、それから彼を抱く。

自分の行動や想いが彼になにをさせているか、「あいつ」は知らない。

「もう、ダメ。耐えらんない。」

「もう終り?」

今日は日曜だ。

明日には「あいつ」が彼の部屋の戸を叩く。

「だって夢のなかまで追いかけてきそうだよ、こいつら。もう、ビデオ見よう。ビデオ。怖いやつ。」

「いまから?」

「うん、いまから。怖くて眠れなくなっても今日はナミさん、手繋いでくれるんでしょ?」

 

彼の水色の小さな車で夜の道を走る。

駅前の、明るい、音楽のうるさいところまで。

彼はどんなビデオを借りるのか、ひとりでぶつぶつと考案している。

怖いのはだめだ、でも怖いのが見たい。

そんなふうに言う彼の心をなんとなくだけれど、あたしはわかる。

囚われてしまっている悪夢よりもっと恐ろしいものを見たいのだ。

それを消してしまうために。そこから逃れるために。

街灯のオレンジの光がびゅんびゅん遠ざかって行き、眼鏡をかけた彼の横顔をぼんやりと眺めた。

「ルパンみたい。」

「うん、だからこの車にした。憧れたんだ、泥棒。」

「恋泥棒になれば?心を盗むの。すばしこく、鮮やかに。」

「どうかこの泥棒めに盗まれてやってはくれませんか、ってやつ?

だめだな、俺は盗まれちゃってるよ、あっというまに、鮮やかにさ。」

まるで手品みたいだ、と笑って煙草に火をつけた。

狭い車のなかはすぐに煙で埋まってしまう。

眼鏡をかけたいつもとすこし雰囲気の違う彼は、なんだか知らない人みたいだった。

「盗んだ心返せー」

「そう、それ。」

なつかしい、笑いながら一緒に歌った。

好きよ 好きよ こんなに好きよ もうあなたなしでいられないほどよ

からっぽよ心は うつろよ何もないわ あの日あなたが盗んだのよ

 

 

夜は静かで、時間はゆっくりと過ぎてゆく。

ふたたび、彼の部屋。

ローズマリーが妊娠をして、彼はしきりにミア・ファーローをかわいいと言う。

そしておでこに数字の書かれた悪魔の子供の話をする。

彼はいつも金色の髪で左目を隠している。

「隠された左目の謎」

それはあたしの手帳に書かれた秘密の文字。

知り合って3日目の日記だ。

ふと、その髪をかきあげたら、そこには数字が浮かんでいるかもしれない、と思う。

おでこに書かれたみっつの数字。

「サンジくん、」

名前を呼んで、髪をそっとかきあげようとして、その手に止められてしまった。

「ごめんね、見せたくないんだ。」

あいつ以外に、と言う彼の顔はかなしい。

ローズマリーに赤ちゃんが生まれた。

彼には出来ないことのひとつ。

止められた手はまだ彼の手のひらのなかにある。

短く切りそろえられた爪、骨ばった、甲。

その手のひらは大きくて、そして冷たい。

「ごめんなさい、ねえ、ごめんなさいね。だから、ねえ、手を繋いで眠りましょう。」

そうすればきっと、悪い夢は見ないわ。

 

あたしの部屋に遊びに来た姉が、ベランダからの夜景を見て言った。

目が悪いと、街灯やテールランプが。

あれは彼と知り合うよりたいぶ昔のことだ。

街灯やテールランプが分裂して、まるで花火みたいに見えるのよ。

彼の左の目はきっと、たったひとりを映すだけのもの。

その目で見たならば、すべてがもっと綺麗な花火になって見えるかもしれないのに。

 

彼の匂いのする毛布に、ふたりで子供みたいに、双子みたいにまあるくなって眠った。

彼は寝息も立てずに美しく埋葬された死体のようになって目を閉じている。

心臓の音だけがシーツ越しに聞こえる。

それから静かにエアコンの音も。

流れた髪が彼の閉じられた左の目を露にして、あたしは、

左目で見るその景色のような夢を見たいと思いながら、繋いだ手をぎゅうっと握り締めた。

きっと美しく、泣けそうなほどに、からっぽの、夢。

眠る彼の手は暖かく骨ばって、けれどもやわらかで、あたしはなぜかたまらなく幸福だった。

 

 

 

 

FIN.