ゆるやかな午後にあたしたちは甲板でお茶を飲む。 大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出すこと。 「波って、あのざざーんていう波って、どこからくるのかな。」 甲板に出したテーブルの上にだらしなく両手を伸ばしてサンジが言う。 海上の生活に慣れてしまったせいで波音は注意していないと耳にほとんど入ってはこない。 その音に思い出したように耳を傾けナミがぬるくなった紅茶のカップを持ち上げながら返事をする。 「うーん、波ねえ。」 「どこから来て、一体どこに帰るのかな。」 伸ばした両手の間に顔を伏せているそのせいでサンジの声はこもっていて聞き取りにくい。 「どうしてそんなことを知りたいの?」 風に煽られた髪が太陽に透けて金色の光へ溶けいるようだ。 あらわにされたうなじのところに歯型が付いていた。 「それを知ったら、わかることがあるような気がするんだ。」 くぐもった声で言うサンジは自分のそこにそんな痕があることを忘れてしまっている。 「くだんないのね。」 サンジは子供だ。 ナミはいつもそう思う。 くだらないことを考えてはひとりで悩む。 悩んでぐるぐると、ずっとそこで回っている。 だからときどき、母親が子供にするように、よしなさい、と背中を撫でてやらなければいけないのだ。 くだらないわ、そんなこと、とあたしが言ってあげなきゃずっとそうなんだわ、 ぐるぐる、ぐるぐるって、馬鹿みたいにずっと悩んでいるの。 昨日、爪に髪とおなじ色を塗った。 オレンジの、みかんの、色だ。 今朝は唇もおなじ色に塗ってみた。 あたしもきっと彼と変わりがない、とナミは爪のオレンジを見つめながら思う。 オレンジの、オレンジの、オレンジの、色。 「ねえ、そんなにわかりたいの?どうしてあいつを好きなのか、その理由を。」 冷めた紅茶のほんのすこしの苦味を感じてそれを消すようにナミは唾液を飲み込んだ。 「うん。知りたいよ。知ったら楽になれる気がする。だって、ものごとにはなんでも理由があるんだ。 それに理由を並び立てれば、ものごとは簡単に思える。」 ナミは歯型のついたうなじを撫でてからやんわりと言う。 「サンジくんの心はよほど複雑なのね。」 撫でられたうなじをさするようにして顔をあげ自分の言葉を揶揄されたように感じたのかサンジは、 そうでもないけど、とぼそりと言って拗ねたように海のほうへ目をやった。 「けど、なによ。」 海のほうへとやられた視線をとらえるように顔を覗き込み、ナミがオレンジ色の唇で微笑む。 「どこへゆくのかわからないのは嫌だ。」 心のことなんて、明日の明後日の、ずっとさきのことなんてもっと、 誰にだってわからないのよ、そんなこともわからないの、 心の中だけで思って流れる雲を見上げた。 ほら、この雲がどこへ行こうとしてるのかだって、わからないでしょう? それに、波の行き先と、心のさきは、違うわよ、諭すように言った。 「そうだね。でも知りたい。」 ナミの諭すような口ぶりに、風が何処かへ運んで行ってくれればいいのに、とサンジは呟く。 もっと見張り台から見えるよりも、遠くへ。 雲みたいに。 小さく呟かれるその声はナミに届くことなく風にさらわれる。 「ずっと終わらなければいいのに。繰り返す波みたいにずっと、そうだったらいいのに。」 「サンジくんの頭のなかは料理と、ゾロと、そればっかりみたいだわ。」 そんなこともない、とサンジはますますふてくされたように言う。 だってそればっかりな自分のことを好きではないのだから、とぼそぼそと言ってから、 食欲と、性欲と、幸福欲、だよ、と呟く。 「初めて聞いたわ、なに?」 「いま作った。人間の三大欲。」 「変なの。」 「シンプルでいいだろ。」 風が強く吹きナミの書きかけの海図をはたはたといわせて逃げる。 オレンジの髪が顔を塞ぎ、視界が全部オレンジだ、とうっとりとナミは思う。 こんなふうにいつも、世界を見ていられたならいいのに。 サンジはそんなナミのオレンジの髪の色を太陽の色だ、とぼんやり思って言う。 「君は僕の太陽だ。」 唐突なサンジの言葉にナミが、なあにそれ、と笑い、風で乱れた髪に手を入れる。 「本当に、そう、思うんだけど。」 「あなたのそれは生まれつきなの?」 ゆっくりとサンジの髪を梳きながらナミは、笑う。 「それ?」 「そういうのよ、生まれたときからそんなふうだったのかしら。」 「んー、そうかも。ナチュラルボーン王子様、だから。」 「馬鹿みたいね。」 「くせになっちゃったわ、とか言ってたくせに。」 「あれは冗談よ。」 「そうだったの?」 「冗談だけど、でも。」 金色のその髪を指に巻きつけて、あたしが太陽ならばあなたはお月様ね、サンジの耳元へ囁いた。 「髪の色の話でしょ、それ。」 「いいえ、あなたは満ちたり引いたりする月よ。」 「ふうん?」 「満ちたり引いたりしながら、影響を与えるの。 それにね、もとのかたちはいつも変わらず丸いのに、毎日形が違って見えるのよ。」 「さすが、物知りだね。素敵だナミさん。」 はぐらかされているのか、それともほんとうに彼はわかっていないのだろうか、とナミは思う。 けれど、彼はきっとわかっていないに違いない。 くるくると指に巻きつけた髪をほどくと柔らかな彼の髪はゆるいカーブを描いて元へと戻る。 その様子が気に入ったのか、サンジはナミの髪を長い指に巻きつけておなじようにした。 その白く長い指にナミは、サンジくんの手はいつも荒れていて かわいそう、とあの男に言ったときのことを思い起こす。 だからハンドクリームでも買ってあげようかな、と続けようとしたナミに あの男は、あの荒れてざらざらとした感触がサンジの手だというかんじがする、 すべすべと滑らかな手はなんだか想像がつかなくて気持ちが悪い、と言って笑った。 その白い手が、いまはナミの髪を梳かす。 器用に、やさしく。 そして幸福について思いながらふたりは、オレンジの色が水平線の向こうにあらわれるのを待つ。 オレンジに包まれるのを待つのだ。 甘く光る、幸福の色、とナミはオレンジの色を思う。 「ねえ。」 「なに?」 「息を、大きく吸い込んでみて。」 なんで、と言いながらもサンジは素直に言葉に従い、息を吸った。 「今度はゆっくりと吐くの。」 ゆっくり、ゆっくりと、空気は腹の底から吐き出される。 閉じられた瞼に透ける青く細い血管を凝視しながらナミは 大丈夫よ、と、出来るだけ正確に、気持ちと言葉をおなじだけの分量で発した。 「大丈夫。どこへだって行けるわ。」 FIN.