彼らについて









となりのサンジくんは11歳のとき、おかしな男に連れ去られ、
3年間その人の家でそれはもう、可笑しく楽しく、エロの限りを尽くし、暮らしていた。
すごい話だ。
14歳、再会した彼は、それはもう、もやしのように白く、笑みを作る口元が
思わず目を逸らしてしまいたくなるほどに、いやらしかった。
子供のくせにだ。
そういう経歴だったので、サンジくんに近寄る人間は私以外、誰もいなかった。
皆遠巻きにして、ひそひそ、あるいは目の前で、彼を蔑んだ。
3年間の放蕩の末に保護されたその子供に、戻るべき場所はどこにも用意されていなかった。
だからサンジくんにとって学校というのは11年間通った小学校だけになる。
中学も高校も数学も化学も古典もぜんぶ、サンジくんの世界には存在しない。



先週、町に一軒だけの、古ぼけた百貨店が、
ようやく新しく綺麗に生まれ変わるために、大々的な工事が行われることになった。
カフェテリア(というのをわたしたちは見たことがなかったけれど、
きっといいものに違いないとベルメールさんは言った)が2つと、
ノジコやわたしの憧れの大きな本屋さん(読みたい本はすべて
注文しなきゃならなかった。2ヶ月も3ヶ月も待つのにはもううんざりだ)、
綺麗な包み紙の舌が蕩けるようなチョコレートを売るお店、
大きな大きな多目的ホール(サーカスや合奏団だって呼べるかもしれない!)
屋上にはなんと観覧車(!)が出来て、それに乗れば町中、いや、
ずっと先の海の向こうまでだって見渡せるっていう話だ。
船着場の倉庫以外に町の人々は大きな建物を見たことがない。
都会に連れ去られ、そこで暮らしていたはずの、サンジくん以外には。



その男は緑色の髪をしていた。
百貨店の改装のために、都会からやって来た大工で、
町の奥様方はすぐにも彼に夢中になった。
まるで彫刻みたいな体をしているのよ。
あっちのほうも、すごく強そう。
旦那なんか目じゃないよ、ああいう人って、実際いるもんなんだねえ。
都会にいけばああいう男ばかりなんだろうか。
いやいや彼は特別だよ。
奥様方は、毎日、回り道をしては百貨店の工事現場を覗き、働く彼の姿に身もだえした。
サンジくんが彼に出会ったのは、サンジくんのお父さんが亡くなって、
彼ひとりできりもりするようになった、彼の食堂だった。
営む食堂にやってくるのは水兵や商人、
ようするに町の外からやって来る輩ばかりで、
だからそこは、廃れた扉ががたがたの、酷いありさまだった。
がたがたの扉を開けて、開口一番彼はこう言った。
「ひでえ扉だな」
厨房のなかのサンジくんは、その言葉に笑って答えた。
「それでも雨や海風を防いでくれるんだ、労ってやってくれ」
町の人々はサンジくんを見なれていたので、彼が他人にどういった
影響を与えるのか、ということを知らなかった。
男はきっかり30秒ほど、彼の顔を、穴の開くほど眺めてから、
きまりが悪そうな表情で、席に着いた。
そして、皿を運ぶサンジくんに言った。
「なあ、あんたの名前は、なんていうんだ」



熱烈な想いのこもったクッキーやサンドイッチを、飯を食えるところを
見付けたらからと、男が拒むようになった後の、奥様方の荒れ様といったらなかった。
あの淫売がさ、たらしこんだらしよ、やっぱりあいつはそういうやつだったよ。
年端もいかない時分から男を咥え込んでいたやつは違うよね。
毒牙にかかっちまったんだよ。
わたしも金髪に染めてみようかね。
やめなよあんたには似合わないよ。
ああ嫌だ嫌だ。
あんな男のなにがいいっていうんだろうね。
ふたりの間に、本当にそういうことがあったのか、知らないけれど、
男の視線にははっきりと熱が篭っていて、わたしを少し、どぎまぎとさせた。
ナミさんナミさんと子供のようにじゃれついてくる彼が、
そういう存在であるのだと、男の視線がわたしに教えるのだ。
百貨店をわたしは呪った。
そのときすでに、素敵な魔法の箱のようだったあの百貨店は、
男を町へと送り込んだ、わたしにとっての、悪魔の使者にほかならず、そう成り果てていた。



百貨店の工事は順調に行われていた。
男は毎日変わらず仕事をし、昼には彼の食堂を訪れ、夜には彼の部屋を訪れた。
観覧車は赤い色で、遠くの海も、船も、そして都会の彼方までも見渡せるのだと言う。
サンジくんはうっとりと彼の話を聞く。
都会の喧騒、バーでのいさかい、街中で鳴らされる音楽、
美しい女優の主演する映画をオールナイトで上映する映画館のこと、
色とりどりに飾られるデパートのショーウインドウ。
サンジくんがうっとりとするたびに、わたしは秋には獲れるだろう山のきのこや
秋刀魚や美しく肥えたブタや牛の話をする。
けれども、それらは、彼をとどめておく役目を、けして果たすことはなかったのだ。



船が遠く、見渡せるその丘は、わたしとサンジくんの秘密の場所だった。
ねえナミさん、あいつをあそこに連れて行ってやってもいいかな。
あのときのわたしの気持ちを、想像出来るだろうか。
誰からも嫌われて、膝を抱えて海を見つめるだけの子供を、
あそこに誘ってあげたのはわたしなのに、誰にも教えたことのない
秘密だったのに、どうしてあんたは、それをあの男に教えるの?
口にすることが出来なかった想いを、わたしはいま、観覧車のてっぺんから、叫ぶのだ。



もしかするとサンジくんはずっと帰りたかったのだろうか。
幼い頃に魅せられた都会に。
誰も意地悪なことを言ったりしたり、しない場所に。
連れ去る手を、待っていたのだろうか。
わたしと一緒に、海を眺めるふりをしながら。



その日は雨で工事が休みだった。
わたしは男と一緒に、サンジくんの家に居た。
オムレツを食べる男を見つめながら、サンジくんは、
もう、幸せで堪らないような声で言ったのだ。
「俺、ゾロのなら、ケツの中に入れてもいいくらい、ゾロが好きだ」
そう言って、満足そうに、ひとりで頷く。
あまりな言葉に、わたしは顔を赤くして、フォークを持ったまま、固まった。
幼かったサンジくんに、そういうことを、いけないことだと教えてやる人は誰もいなかった。
過疎の進んだ町には、神父様だっていなかったのだから。
だからそれを愛の行為だと、いまだにサンジくんは信じ切っているのだ。
わたしを好きなふりをしてもそれを愛に結び付けないのは
歪められた知識故であるのをわたしは知っていたし、だから
いつかきっと、正しい行為をわたしが教えてやらなければと思っていたのに、
彼は、男に、そう言った。
オムレツを頬張っていた男が動かしていたフォークを止め、
てめえ、本当はアホだろ。死ぬほど、そう言って、金色の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
サンジくんは分母とか分子のこともよく知らない。
原子も梃子の応用だってわからない。
けれどオムレツはきれいな黄色に焼くことが出来るし、幸せな顔で笑うことだって出来る。
見ないふりをして、聞いていないふりをして、わたしは止まっていたフォークをふたたび動かした。
アホだろ、と言われて彼は、幸せそうに、笑った。
百貨店はもうすぐ出来上がろうとしていた。



夢のような味のチョコレートは、舌の上で溶けた。
おいしいね、と彼は笑った。
百貨店の開店日、町長が赤いテープを切って、赤い観覧車には、30分もの行列が出来た。
船は5時に埠頭から出航する。
都会に行ってしまったら、彼の魅力なんか半減するに違いない。
こういう土地にあってこそ、サンジくんはあんなふうに笑えるのだ。
それを知らない男は馬鹿だ。
「いつでも帰っておいで」
母親のようにわたしは言って、彼の金色の頭を撫でた。
「ナミさんも、いつでもおいで」
赤い観覧車から、眺めた海の向こうは、果てしなく遠く、月より遠く、感じられた。



きっとすぐに捨てられるにきまってるさ。
奥様方は言った。
けれどいまだに彼は帰って来ない。
真新しかった百貨店も、いまは劣化が激しい。
赤い観覧車は、ペンキがところどころ剥げてしまっている。



おわり