かじかむ手のひら

 

 

 

 

 

晴れの日の少ないこの街は冬ともなればなおさらだ。

もう一週間も太陽を見ていない。

「サンジくん、これの作り方教えてよ、今度。」

オレンジのソースのかかった魚料理。

ソースをパンに絡めて言った。

「いいよ。」

食後のコーヒーを持ってきた彼は、いつものように返事をする。

ソーサーを持つ手は太陽がめったに顔を出さないこの季節、青白いほどに、薄い色だ。

「じゃあ日曜。日曜日は?暇?」

「暇。ゾロはアレだし、暇。」

「またなの?」

「そう、またみたい。」

長く、煙草の煙が吐き出される。ため息みたいに。

「さっいあく。」

彼はあたしがいつもランチを食べに行くレストランのコックで、男と暮らしてる。

男といっても友達、じゃなくて、恋人だ。

緑色の髪をして、がたいのいい、ゾロという名前の男。

そして、最近、ゾロは女に夢中だ。

「あの人のこと、知ってるわ。男と住んでる。この先のアパートメントよ、あの高そうな、ドアマンのいる。」

「うん、そうみたいだね。」

「物分りのいいヤツなんて、軽く見られるだけよ。」

「だろうね。」

「なんでそうなの?」

「なんでって言われてもねえ。」

そう言って彼は汚れた皿と共にテーブルを去る。

エプロンの後姿が好きだと思う。

たまに一本だけはねてる後ろ髪だとか、けなげなかんじのするうなじだとか、

あいつはそういうのを見てばっかやろう、って気持ちにならないのかしら。

なんておまえは馬鹿なんだ、って、

愛をこれっきりってくらいに込めた声で、言ってやりたく、ならないのかしら。

それとも、あきれるほどに、昔はそう思っていたのかしら。

「コーヒーにクリープを混ぜる奴は死刑よね。」

カウンターの奥へ声を掛けた。

あたしのほかに客はいない。

本当ならばディナーの準備をする時間。

店は準備中の札をドアに下げる。

「クリープ自体死刑決定だよね。」

「こんなに入れたらカフェオレになっちゃうかしら。」

「カフェオレ飲みたかったら今度からそうオーダーしてよ、ちゃんと淹れるから。」

「んんん、いいの、コーヒーでいいわ。」

「もうすぐ、雪が降るよ。そろそろ帰らないと、大変だ。」

彼の特技は天気読み。

雪が降る前の空気の張り詰めかたとか、雨が降る前の緩んだかんじとか、感じて、準備をする。

雨を、雪を、見るための心の準備をする。

雨も、雪も、降り出せば一晩中やむことがない。

ひとりきりの部屋で、それらはきっと、圧し掛かるように、心に入り込む。

 

 

日曜日、どんよりと曇った厚い雲の空の下を彼の部屋まで走る。

鼻の頭は赤くなって、張り詰めた空気に吐き出す息は白く、けぶっているみたいに見える。

上を見上げると、窓から顔を出していた彼が、笑った。

金色の髪は太陽の出ないこんな天気には、その変わりをするために、揺れる。

「ナミさん、そんなに走ると転んで怪我するよ。」

窓から彼の声。朝の空気によく通る。

「スチームはちゃんと温まってる?寒くてしかたないわ。」

「早く上がっておいでよ、大丈夫、ここはとても温かいよ。」

金色の髪が、太陽だと思うのは馬鹿げたことだろうか。

だって、かわいそうじゃない。

彼はあんなにあいつが好きなのに。

てんでわかってないあいつに振りまわされて、かわいそうじゃない。

ひとりくらい、味方がいたっていい。

あたしの胸は、きっと、彼が子供みたいに泣く、そのために作られた。

 

 

「雪がすごいわ。」

「一晩中振り続いていたからね。」

「あとで、スノーマンを作りましょう。」

彼の部屋を開けるとすぐ、そこには青い色のソファーがあり、

壁の色はオレンジで、じゅうたんは落ちついた赤い色をしている。

たまに、あいつがソファーで寝ているときがある。

もうずっと、一緒に眠らないんだ、と彼がさみしそうな顔をするのを、あたしは放っておくことが出来ない。

「・・・泊まりなの?」

「そのうち帰ってくるよ。」

「朝帰りなんて、最低だわ。」

「あいつが最低なのは、部屋に入ったとたん、

俺と目が合ったりすると申し訳なさそうな顔をするところ、くらいなもんだ。」

「それだめよ、それでなにも言えなくしてるんじゃない。」

「ナミさん、落ちついて。とりあえずコートを脱いでコーヒーでも、どうかな。」

「今日はカフェオレをお願い。」

「オーケー。」

「窓から見ると、銀色だわ。なんにもないみたい。」

「人がいないみたいに見えるだろ。」

「誰もいないなんて、素敵。すぐにでも王様になれるわ。」

「雪も、雨も、降り続いて、窓の景色を変えるとさ、

今日こそ帰って来ないんじゃないかって気分になって嫌だよ。それってすごく、最低な気分だ。」

「そういうときはあたしを呼んでよ。」

「だめだよ。雪や雨の真夜中になんて、出来ないだろ。」

「呼んで。友達じゃないの。それに、あたしが、必要でしょう?」

「嬉しいよ、すごく。ありがとう。」

太陽が出てしまったら、そうしたら、雪も雨もすぐに止んでしまうだろう。

そんなのはだめだ。

そんなことは許されない。

誰のためでもなく、ただ、あたしのために。

曇りの日が続けばいい。

だって太陽は、彼の金色の丸い頭、それだけで充分なのだから。

 

 

 

白い粉雪は、ちっとも固まらなくて、スノーマンはあきらめることにした。

曇り空を見上げる彼の背中に向かって、スノーボールを投げる。

仕返しに彼が、足元の雪を蹴り上げるので、

それは細かく舞いながら飛び散って、あたしの視界を一瞬、雪の色にした。

「ひどいわ、女の子になにするの。」

「ナミさんこそ、このコート、この間買ったばっかりなのに。」

「みんななにやってるのかしら、部屋からちっとも出て来ない。」

「きっと、2度寝の真っ最中だ。」

「雪がこんなに綺麗なのに。」

「見なれてるだろ。」

「綺麗よ。もっとみんな知らなきゃいけないことがたくさんあるのに。

部屋のなかに閉じこもったきりじゃ、なんにもわからないじゃない。」

そうよ、もっと知らなきゃいけないの。

彼がどんなにかなしいのか、彼の夜はどんなに長いのか、それを。

もっとわかってあげないと、彼はいつかあんたの場所から逃げて行ってしまうかもしれないのよ。

あんたの場所から、この街から、あの部屋から。

繋ぎとめられるのはあんただけなのに。

「かじかむ手の冷たさとか、肺が痛いくらいの空気とか、知らなきゃだめよ。」

「頬も痛い。」

「ソリに乗りたいな。」

「スケートもしたい。」

「もうすぐクリスマスね。」

「ターキーを焼くからおいでよ。」

「ゾロは?」

「わからない。」

「サンジくんのターキーは世界一よ。誰にも負けないわ。」

「ありがとう。」

「あいつは馬鹿よ。」

「そうかもしれない。」

「馬鹿なんだわ。」

「手のさきにもう、感覚がないよ。手袋を持ってくればよかった。」

道の先にゾロが立っているのが見えた。

戸惑った表情で、雪と遊ぶあたしたちを見ている。

彼が気付いて、なんともいえない顔をした。

泣き出す寸前みたいな、笑いを堪えているような、走り出してしまいそうな衝動を耐えているような。

「ゾロ!」

彼の声はきれいにあいつのところまで届く。

「おまえ、季節感なく、頭、青々とさせてんじゃねえよ。」

ばーか、と言って彼はスノーボールを投げる。

ぱすん、と音がして、それはあいつの胸を打つ。

「なにすんだ。」

「冬はその草、枯らしとけ、ばーか。」

ぽすん、ぽすん、ぽすん、ぽすんぽすん。

だんだんと、ゾロはスノーマンのようになる。

「サンジくん、コントロールが絶妙だわ。」

「今度遊園地に行こう、ナミさん。俺は射撃も上手いんだ。」

息を切らして、サンジくんはスノーボールを道の向こうへと投げる。

避けることもせず、ゾロはこちらへまっすぐに向かってくる。

「痛えだろ、アホコック。」

「コックは俺の名前じゃねえ。」

彼の指の先は赤く、きっともう感覚なんてないに違いない。

「馬鹿よ、ふたりとも。」

はずむ息は、色のない唇から白く吐き出される。

「しもやけになっちゃうわよ。」

冬の朝、白い世界、なにもない世界。

静かに呼吸を繰り返すあたしの胸は、冷たい空気に、つきり、と痛み、

雪まみれのあいつは、無抵抗に彼の投げるスノーボールを受けとめる。

金色の彼の髪は曇りの日の太陽。

その手は鮮やかに赤く染まる。

きっと、もう、痛みすら感じていないのだろう。

 

 

END.