い つ か

 

 

 

 

 

飛びたいなあ、と腕を広げてナミが言う。

この青い空はまるでサンジくんみたい、かなしそうな顔で腕を広げる。

あんたは馬鹿ね、バレンタインがきゃはは、と笑う。

少しは男らしいところ見せたらどうなのよ、情けないったらないわ。

向こうから機関車がやって来て、転がる俺の真上を通り過ぎる。

背中に当たる固い線路の感触。押しつぶされるような圧迫感と、錯覚。

ゾロ、とサンジが呼ぶ。

ゾロ、好きなんだ。好きだよ、ゾロ。

遠い場所でサンジが泣く。

夢なのだと思った。

だって、サンジは泣いたりしない。

 

 

 

「ゾロー。ゾロー。ゾーーローー。」

声に呼ばれて目を覚ました。

「あ、やっと起きた。死んでるのかと思って

ちょっと怖かったんだから、もっと早く目覚ましてよ。」

おでこの上にはいつのまにか冷えピタシートが貼ってあり、

俺の顔を覗き込むナミは言葉とうらはらに、少しだけ心配そうな表情をしていた。

声が出ない。カーテンの隙間から西日が弱く差し込んでいる。

がさがさ、と音を立ててコンビニの袋からポカリを取り出して、

布団の端に座り込むナミが、はい、とでかいペットボトルのまま目の前に差し出した。

こうして気が利かないところがナミのすごいところだ、と思う。

病人のためにコップに注いでやるという気はないらしい。

力の入らない手で受けとって、ボトルから直接それを飲み込んだ。

「薬も買って来ようと思ったんだけど、症状聞いてからのほうがいいと思って。

熱あるのよね、頭痛い?喉痛い?咳は出る?」

声が出ないので答えようがなく、コクコクと馬鹿みたいに頭を振った。

「ご飯も食べるでしょ?うどんくらいなら入るわよね。

いまサンジくんがコンビニ行ってるから、帰って来たら交代で薬局行って薬買ってくるわ。」

ポカリが喉もとをすいっと流れ込み、サンジが、というナミの言葉にさっきまでの夢を思い出した。

好きだと言って泣くサンジ。手を伸ばせたなら良かったのに。たとえそれが、夢のなかであったとしても。

「馬鹿は風邪はひかないっていうけど、それってウソだったわね。

身を持って証明してくれちゃって、夏風邪って馬鹿がひくってのは当たりみたいだけど。」

「ナミさん、そりゃひでえよ、愛がねえ。」

いつの間に部屋へ入ってきたのかサンジが襖から顔を覗かせてそう言った。

片手にコンビニの袋、泣いた顔など見せたことのない憎たらしい笑顔。

「愛ならあるのよ。もう、両手では抱えきれないほどに。ねえ、ゾロ。」

ナミが言って、笑いかける。

声が出ない、返事が出来ないことをわかっててそういうことを言うのだ。

どうだか、という顔をしてやると、わかってないわねえ、と起き上がったせいでずれた

冷えピタの位置を直してナミがまた笑う。

「まあ、愛ならいいんだけど。おまえさ、ゾロ、冷蔵庫やべえよ、あれ。

知ってるか?風水的にな、冷蔵庫汚れてると

病気になりやすいんだってコパが言ってたけどあれホントウだな。

身を持って証明しやがって。馬鹿だなおまえ、ほんと。」

「ひどーい。サンジくんこそ愛がないわ。」

「愛なんかあるわけないじゃん、ゾロだぜ、ナミさん。

あ、ナミさんにならもう、溢れるほどにあるけどね。」

そうだ。サンジはナミが好きなのだ。だからあれはやはり夢だったと、

熱で重い頭でぼんやりその白いシャツを見ながら思う。

部屋のなかがぐにゃぐにゃして見えた。

「そういえばさっきさー、バレンタインの花屋のまえ通ったら、

お見舞いって花もらったぜ、向日葵、でも花瓶なんかねえよなー、どうしよう。」

バレンタインはサンジのいとこだ。

おなじような顔をしていて、おなじように性格の悪い女。

昔からの友人でガキのころよく鼻くそを飛ばして遊んでいた

ハナクソ、というあだなの男と付き合っている。

ハナクソによればバレンタインはこの世で1番素敵な女らしい。

恋は盲目だ、と思う。あんな女が素敵に見えるほどなのだ。

あんな女、と馬鹿にしていた俺もハナクソを笑えない。

いまじゃあ似たような奴に片思いしている始末だ。

しかも俺の相手は男だ。ハナクソ以上に笑えない。

「しょうがねえからボールにでもつけておくか。ま、それはそうとして、おまえ、うどん食えるか?」

ぐにゃぐにゃの部屋のなかでひとりだけ輪郭がくっきりとして見えるサンジが言って、俺を見る。

友人としての視線で。それ以上でもそれ以下でもない瞳で。

こくり、と頷くと満足したような顔をして、じゃあ待ってろ、と台所へ消えて行った。

そしてとつぜんにピピ、と電子音が鳴る。

音に気付いたナミが俺の脇の下から体温計を取り出し、うわー、やだあ、と言って顔をしかめた。

「39度8分だって。これってもしかしてやばいんじゃないかしら。」

ポカリを飲み干して、わかんねえけど、という顔で首を傾げると、

あんたそういう仕草似合わないからやめてくれる、としかめっつらのままで言われた。

いったいどうしろというのだ。冷えピタがまたずれてナミが丁寧にそれをもとに戻し、

そのまま戻した冷えピタの上からぴしゃぴしゃデコを叩いて、薬局行ってくるわ、と立ち上がる。

風邪を引いてるそのせいか、みょうに人恋しい。離れて行ってしまったその姿を視線で追った。

「捨て猫みたいな目で見ないでよ。そういうのも似合わないって、わかって欲しいわ。

台所にサンジくんがいるんだから、大丈夫よ。」

うどんの汁の匂いがする。西日が薄らいで行き、救急車のサイレンが聞こえる夕暮れ。

「てんぷらとかって食えねえよな、卵は食えるか、つーか食え、ねぎも入れといたから。

ねぎってなあ、風邪に効くんだぞ、ってさっきバレンタインが言ってた。もうちょい待てよ、すぐだから。」

起き上がっているのがしんどくて布団のなかで関節の痛みを堪えていたらサンジの声がした。

関節の痛みはすっきりとしなくてぼやけている。

痛みの原因がどこにあるのかわからなくて、どこを摩れば楽になるのかもわからない。

まるでこの想いの抱える痛みに似ている。楽にならない、にぶい痛み。

布団から顔だけだした俺を覗き込んでサンジが、辛いか、と母親みたいな口調で言う。

曖昧に唸って、ポカリ、と目で指した。

「あれ?コップねえの?」

頷くと、サンジは台所から水色のグラスを取ってきて、これさ、修学旅行で買ったやつじゃねえ、

おまえ物持ちいいな、と笑ってそれに注いだポカリを差出した。

水色はサンジの目の色だ。そう思って買った。けれどそんなことを目の前の男は知ることもない。

こいつは物持ちがいいなんて勝手に解釈して笑うような、ただの友人。

ざすざすとした喉を水分が流れて行き、

玄関からナミの声がして、とたんサンジはもうそちらに気を取られてしまう。

「おかえり、ナミさん。」

自分を見るのとまるで違うその視線。

こんなふうに嫌なことばかり考えてしまうのは、病気のそのせいだと思いたかった。

 

 

「ゾロ、こぼしてる。」

「おまえさー、口はでかく開けろよ。」

うどんを食う様子をテーブル越しに見つめられ、なんとなく所在がない。

口の端から垂れた汁を手で拭う。

「あーおまえ、手で拭うな、ほら、ティッシュ。」

「あんたもしかして鼻水も袖で拭うタイプなんじゃない?サイアク。」

「ひでえな、ナミさん、相手は病人だぜ。」

「ごめんね、ゾロ、怒った?」

「大丈夫だ、ナミさん。こいつがキレたりなんかしたら俺がやっつけてやる。」

「まあ、頼もしいわ。素敵よ、サンジくん。」

好き勝手な会話をしながらもうどんを食う俺を見つめるふたりに困り果てた。

文句を言いたくても声が出ない。風邪はなんてやっかいだ。

「イチゴってさ、レモンよりずっとビタミンCが豊富なんだ、やべえ、俺ってば物知り。」

アホなことを言うサンジにへたを取り小さく切ったイチゴを次々に口に押し込まれる。

口に入れるたびに指先が唇に触れる。熱を持った体と正反対なひんやりとした白い指先。

「ヒナ鳥みたいだわ。」

「はは、ヒナ鳥、似合わねえ。つーか、おまえが大人しいってのも気持ち悪いな。」

水色の瞳が笑い、蛍光灯のしらじらしい明かりが照らす、狭く空気のこもった畳みの部屋。

口を聞けない俺はヒナ鳥のように、赤いその実を与えられ続ける。

関節が痛み、部屋はぐにゃりぐにゃりとゼリーのようだ。

「よし。ビタミン摂取終了。ユンケル飲んで、ナミさんの買ってきてくれた薬飲んで、寝ろ。」

サンジが白い指先をティッシュでふき取りそれはほんのり赤い色に染まる。

「じゃああたしもう帰るね。」

そう言ってナミがたち上がり慌ててサンジが後を追った。

「俺送ってくよ。」

「いいわよ、まだ早いし。それよりサンジくん今日泊まってあげてよ。」

「えー、男の部屋なんか泊まりたくねえ。」

「だってね、ゾロめずらしく人恋しいみたいで、捨てられた子猫みたいな目するのよ、

気持ち悪いけど、やっぱりかわいそうじゃない。」

ユンケルの変な味を舌で感じながら黙ったままに勝手な会話を聞く。

「じゃあさ、ナミさん泊まってけば。」

「それはダメよ。」

真剣な顔のナミにサンジが、なんで、と真剣なそぶりで訊きかえした。

「ゾロはね、風邪引いてようがなんだろうが、すぐにさかりがついちゃうの。

それはまるで血に飢えた魔獣のようだと、近所でも評判なのよ。」

口を聞けないのをいいことにナミがとんでもないことをおそろしく真剣に、本当みたいに言う。

信じんだろ、そいつ馬鹿だから、だいたいどこの近所の話だよ、

と言いてえことも言えない病気の俺はなんて弱い。

「そりゃあダメだ。紳士的じゃねえ。」

もっともらしく頷いてしっかり誤解をしたままサンジが、おまえサイアク、という目で俺を見る。

サイアクなのはそっちの女だ、むしろ俺はかわいそうだ、と言ってやりたかったが、喉が痛かった。

「でしょう?それに感染りたくないもの。」

「そりゃ大変だ。ナミさんにもしものことがあっちゃいけねえ。俺が泊まってく。」

「うん、そうして。じゃあね、ゾロ。お大事に。

薬ちゃんと飲んでね、それから汗掻いたらちゃんと着替えるのよ。」

世話好きの母親みたいに言って、好き放題のナミが帰って行く。

「おまえ、愛されてるな、魔獣のくせに。」

タバコ吸ってくる、と玄関を抜けて行くその背中をぼんやりと目で追った。

用があるのはタバコか、ナミか、いったいどっちだよ。

けれど声が出てくることはなかった。ざらついた喉は器官としての役割を果たすことがない。

心細いのは、嫌なことばかり心をよぎるのは、ほんとうに病気のそのせいだろうか。

 

 

 

芝生の上に寝転がって、サンジがこれっておまえみたいだ、と笑う。

気持ちいい、まるでおまえに抱かれているみたいだ。

高い空には雲ひとつなく、スプリンクラーが回り虹を作り出す。

芝の匂い、夏の匂い、太陽の、日向の匂い、午後の日差しは完璧な形で俺達を照らす。

ゆるやかに穏やかに吹いてくる風。しんと静かな切り取られた空間。

いつかの夏。完璧な温度を保ち続ける、思い出の夏。

これはそうだ。高校の、中庭だ。

昼休みの終わった後、授業をサボってこうして過ごした。

ちくちくする、と芝生に顔をつけたサンジが言って、俺の髪に指を入れる。

ゾロ。

サンジが名前を呼ぶ。

これは夢かな。

現実だ、と言ってやりたいのに声が出ない。喉はひゅう、と音を立てるだけだ。

遠くで誰かの呼ぶ声がする。

ヤバイ、見つかった、サンジが笑う。

目を覚ますと布団の隅に膝を抱えて丸まっているサンジがいた。

夜明け前の青い時間、どこかで犬の鳴く声がする。

関節が痛み、口を開くとガラガラの声が出た。こっちが現実だ、その声で呟いた。

寝入り際、40度まで上がった熱にサンジは、もしかしてこれって救急車か、俺乗ったことない、

呼んでいい、と訊き、首を振ると残念そうに、でもいま金ないからな、

呼んでも無理だな、とタクシーかなんかと勘違いした発言をして風呂上がりの髪を拭いた。

もう乾いてしまったその髪に鼻先を押し付ける。シャンプーの匂いと、サンジの匂い。

青い部屋のなかにボールにつけられた向日葵の黄色が浮かぶ。サンジの頭のような夏の花。

誰のために咲いたの、夜中にサンジが小さく唄うのを聞いた。

まわりまわる向日葵の花。恋の花。関節がにぶい痛みを訴える。

 

 

ふたたび目を覚ますとその顔が真上にあって、

現実の朝に、夢の中で見た幸福そうな顔でサンジが言った。

「なあ、俺さ、朝方すっげえキレイな夢みた。

記憶のなかのすべての夏から1番完璧な形で取り出したみたいな、夏の夢。

光と風の具合とか、温度とか、色とか、スプリンクラーの虹とか、すべてパーフェクト。

思わず泣くかと思った。遠いよな、さっき思い出したんだけど、あれ高校ときの夢だ。

あの頃ってあんなにがっこ嫌いだったのにさ、いまになるとむしょうに帰りたいな、あの空間に。

でも繋がってるんだよな、続いてるんだ、あのときからの時間がこうして。お、俺いま良いこと言った?」

とつぜんに夢の温度が蘇り、腹の底に重く温かいなにかがやって来て涙を誘い、

いまならすべてを、なにもかもを許されるような気がしてひゅうと鳴る喉で、サンジ、と呼んだ。

「あ、声。酷いけど、出るようになったな、良かったな。」

ポカリを入れた水色のカップを手渡してサンジが、飲めよ喉乾くだろ、と言う。

水色の、サンジの瞳をしたグラス。ほんとうに欲しかったのはそれじゃない。

けれど手を伸ばせなかった。ずっと、あのときからずっと、こんな近くにいたのに。

サンジ、もう1度枯れた喉から声を押し出して、

こっちが現実だ、こっちが現実だろか、祈るように思いながらその名を呼んだ。

「なに?」

「みた。」

「おまえ、寝ぼけてんの?熱で頭やられた?」

「夢、みた。」

いったいなにを言えばいいのかわからなかった。

なにを言ってもそれは嘘になるような気がした。

あの空間にいてあんなに幸せだったこと、それはおまえじゃなきゃ叶わないことだと、

そういうことを伝えたいのに、言葉はそれをしてくれない。ひどくもどかしい。

「ふうん、なんの?」

「芝生の、夏の、スプリンクラーの、空の」

「おお、すげえ。おまえ、エスパー?」

「現実はこっちだ。」

ガラガラの声で言って、体温の低い身体を抱き寄せた。夢の温度に似た、その体温。

「おまえさ、喋りすぎると辛いんじゃねえの。」

腕のなかのサンジが鼻声で言う。

夢じゃねえぞ、これ、自分に言い聞かせるように、唸った。

夢じゃねえぞ、現実だ、ガラガラの声はやがて鼻水混じりになる。

「わかったからさ、もう喋んなよ。それにポカリも零れそうなんだけど。」

身体を離して、水色のカップを目の前に差し出し、

第一おまえが1番夢っぽいんだよな、涙目でサンジがそう言った。

鼻水が垂れて思わずパジャマの裾で拭う。

うわ、やっぱりおまえ裾で拭うタイプだな、サイアク、

水色の瞳の笑う形がせつなくて、おなじ色のグラスから一気にポカリを飲み込むと、

ちゃんと口開けて飲まないからだろ、口の端から垂れてしまったポカリを、唇を、白い指先が拭って笑った。

「なんかめちゃくちゃ現実っぽいな。がさがさだ。」

 

 

終わり