うたたね

 

 

 

 

 

ドアがきい、と開いて、かち、っと計測器を押す。

0026、と数字が並んだ。

午後の日差しがほんの少し、小さな窓から入り込む。

ここは青山の小さなビルの2階にある、ちょっと有名なアートギャラリー。

俺はここで受付にぼうっと座っているだけの猿でも出来るような簡単なアルバイトをしている。

3ヶ月前梅雨の季節に、骨董通りをひとりで傘を差しながらぼんやり歩いていたら、

綺麗なおねえさんに、ねえ、バイト、探してない、変な勧誘みたいに声をかけられた。

黒ブチ眼鏡でスパイラルパーマの髪をひとつに束ねた、エキゾチックな顔に厚い唇が印象的な

妙に色っぽいおねえさんだった。

そういうの興味ない、と言ったら、変な勧誘だと思ってるんでしょう、と笑われて、

答えに詰まると、そんなんじゃないんだけどな、と残念そうに、でも無理強いは趣味じゃないから、

写真に興味があったら、来て、いま売出し中の素敵な写真家の作品を展示しているから、

とチラシを寄越して、またね、と友達みたいに手を振って紀伊国屋のほうへと歩いて行ってしまった。

渡されたチラシには「うたたね」と題した写真展の案内と2・3枚の、作品が印刷されていた。

なにもないただの丘と、海に面した絶壁に上を向いて立っている墓石の、強烈で、さみしい風景の、

色の薄い、そんな写真だった。

ここを、知っている、と思った。

そう思って強くこの写真を見たい、と思った。

けれども時計を見ると針は八時半を指していて、チラシに印刷された13:00〜20:00、

という時刻をとっくに過ぎてしてしまっていた。

おまけに13:00〜20:00の文字の下には月曜定休日、とあって、思いきり落胆した。

いまは日曜の夜で、ということは俺は火曜日の昼まで待たなきゃいけないことになる。

気もそぞろに地下鉄と電車を乗り継いで、家に帰り、ぼう、っとソファーに座り込み、もう一度写真を見た。

風が、とてつもなく冷たい風が、吹いているようだ。

きっと冬には雪がたくさん降るだろう。

蒔きを割って、暖炉にくべて暖をとる。

ああ、ここは、きっと。

確かめたい、と思った。

月曜日もずっとその写真のことを考えていた。

考え過ぎて何度も人にぶつかったり電車を乗り過ごして吉祥寺まで行ってしまったりした。

そんなふうにして俺は、じりじりと火曜日の13:00を待った。

大学はサボることにした。

 

 

ギャラリーのドアを開けると、小さな机に座っていたあのおねえさんがドアの音に顔を上げ、

俺の顔を見て、あら、来てくれたのね、ありがとう、笑顔になった。

あいまいに返事をして、壁に飾られたいくつかの写真を眺めた。

じっくりと一枚づつ真剣に、近づいたり、離れたりしながら、ゆっくりと。

すべて見終えると、おねえさんが、ずいぶん気に入ってくれたのね、嬉しいわ、と微笑んで

奥のほうから運んできたアートなカップとソーサーのコーヒーと、

高そうで座り心地の良さそうなソファーを勧めてくれた。

コーヒーをひとくち飲んで、ここに住んでいたことがあるんです、小さい頃、と言うと、

そういえばあなたの瞳は色が薄いのね、素敵ね、もしかしてあなたは外国人なのかしら、

と聞くのでハーフです、そう返事をしたら、まあ、素敵ね、あなたは北の国の血を受け継いでいるのね、

ロマンチックだわ、やっぱりあなたにここでバイトをして欲しいわ、あなたここがとても似合っているわ、

話題が、けっきょくそこへ行ってしまった。

バイトは間に合ってるんですけど、と言うと時給1500円出すわ、

それに入れる日だけ入ってくれればかまわないわ、

座って入って来たお客様の数を数えて、それだけでいいわ、

ポストカードなんかがちょっとあるけれど、レジも打たないし、簡単よすごく、

もし作品を欲しいと言われたら電話をしてくれればあたしが対応するわ、

あたしはいつもこのビルの上で仕事をしているの、

最初は暇つぶしのつもりだったんだけどだんだん有名になってきてしまって、

でも気に入らない人は雇いたくないし、あなたあたしの思っていたイメージにぴったりなのよ、

綺麗で色っぽいおねえさんにそんなふうに言われたらなんだか断れなくなってしまって、

じじいのレストランでのバイトのほかに、俺は時給1500円交通費別途でここで働くことになった。

働く、といってもなにもとくにすることはなかったのだけれど。

 

 

絵も、写真も、ときには彫刻も、なんでもここには並んだ。

有名な人もいたし、無名でけれど魅力的な作品もあった。

そして、バイト1ヶ月目にしてなんとなく、わかるようになった。

展示される作品のどれにも、共通するイメージ。

うたたね。

ごつごつだったりやわらかだったり、暗かったり明るかったり、いろいろな作品があったけれど、

それらはすべて、まどろむ午後の日差しのようにやさしい風合いをしていた。

そしてそれらのものたちは、ここで、この場所でしか存在することが出来ない。

赤ん坊の目玉のなかの景色みたいに、綺麗で、あてどもなく涙が出てくる。

だけどもまわりに馴染むことが、けしてすることが出来ない。

妙な浮遊感。

そのことが少しのカナシミを生む。

あなたの故郷の写真なら、とあの写真を撮った人が最終日に尋ねてきて、俺に言った。

あなたの故郷の写真ならば、気に入ったものをプレゼントするわ、好きでいてくれる人に

眺めてもらったほうが作品も幸せだもの。どれでも好きなものを選んでちょうだい。

そう言われて俺は、海岸にうち捨てられたような、風に波にさらされたボロボロの廃屋の作品を選んだ。

それはニコラス・ケイジが恋人の死を哀しんでいたあの海岸にあったような小屋で、

「ピアノレッスン」の浜辺のように寒さが厳しく、剥き出しで、さみしい。

それを部屋の壁にピンで留めた。

ゾロが、なんだよこれ、と不思議そうにそして眉間に皺を刻みながら眺めていた。

貰った、それだけを言った。

 

 

それは原風景、心の風景だ。

うたたねの、記憶。

 

 

スパイラルパーマのひっつめ髪のおねえさんの名前はポーラといった。

ポーラの眼鏡は伊達眼鏡で、仕事が終わるとそれをはずす。

ほら、これを掛けると頭が良く見えるでしょう、出来る女みたいに、と笑った。

髪もおろしてでっかい頭で、スニーカーの靴もヒールに履き替えて、

仕事のあとのポーラはモデルみたいに歩く。

バイトをはじめて2週間目の夜に、ご飯をおごるわ、と連れて行かれたカフェで

たくさん飲んでへべれけになって、ポーラの家に泊まった。

外国のアパートメントみたいな、おしゃれで、そして部屋数の妙に多い、オレンジ色の壁の部屋だった。

酔ったポーラは、あたしもね、ほんの少しだけど踊り子の血が入ってるの、

と、セクシーでかっこいいダンスを見せてくれた。

かっこいいかっこいい、と酔っ払った俺は手を叩いて、あげくにポーラの眼鏡をかけて、

お礼に一曲弾きましょう、とリビングにあったでっかいピアノのまえに腰掛けた。

そうしたらなぜか玄関のカギが突然開いて毛皮のコートのがたいのでかい、

あきらかにソノスジっぽいおっさんが入って来た。

それがクロコダイルだ。

クロコダイルはワニに似ている。

クロコダイルを知ってる人はだからみんな彼をクロコダイルと呼ぶ。

ほんとうの名前は知らない。

金持ちで、ギャラリーに出資していて、暇を持て余していて、

けれどほんとうはなにをしているのか、誰も知らない。

毛皮のクロコダイルが入って来て、ポーラは、こんばんは、サー・クロコダイル、と微笑んで、

ワインでもいかが、そしてピアノを聴きましょう、サンジが弾いてくれるのよ、と言った。

黒ブチ眼鏡で、そんなわけのわからない状況で、それでも酔っ払っていた俺は、

リクエストはなにになさいますか、お客様、とバーのピアノ弾きみたいに、聞いた。

ピアノ曲なんてほんとうは数えるくらいしかわからない。

なんでもいい、と言うのでトルコ行進曲を激しく情熱的に、めちゃめちゃに、弾いた。

弾き終わるとクロコダイルは、素晴らしい、と手を叩いて、気に入った、

君の時給は明日から2000円にしてあげよう、と言って、わけのわからないまま俺は昇給した。

ポーラじゃなくてなんでこいつが昇給を決めるのかわからなかったけれど、ありがとうございます、と

礼を言って、それから千鳥足でふたりの座っているソファーに移動して眼鏡をはずしてポーラに掛けた。

ふむ、とクロコダイルが眼鏡を外した俺を見て言った。

部屋の中、だいいちそれは初夏だったのに、クロコダイルは毛皮を着たままだった。

君は、「ラ・マン」の主人公のあの子に似ているな。

ポーラもそれに同意した。

「ラ・マン」ってマルグリット・デュラスの、あれですか。

そうだ。

あれは主人公女の子ですよ。

やわらかいオレンジの壁と、赤いソファーと、紺の絨毯。

部屋にはクレーの絵画が飾ってあった。

ジェ―ン・マーチ、あの子の顔、うーん、顔も少し似ているが、

雰囲気だな、馴染めなくて、イライラしている、

そして、自分がどんなふうだろうかというのをまだわかっていない、そんなかんじだ。

ポーラもそれに頷いてワインを飲む。綺麗なクリスタルのグラスを傾けて。

そうよ、だからスカウトしたんだわ、ぴったりでしょう、あの場所に、

あの子が船の上で中国男に見つけられたように、

あたしが彼を見つけたのよ、骨董通りで、雨の日に。

眼鏡をかけて、髪を下ろした、どのポーラとも違う顔でそう言った。

 

 

私は18歳で死んでしまった、とデュラスは書いた。

それならば俺はきっと、14のときに死んでしまっている。

インドシナの、あのうっそうとした湿ったような肌にまとわりつく、

そんな空気みたいな中でずっと、うたたねを続けているのだ。

14のときにはじめてキスをした。

夏で、遠くでセミが鳴いていた。

好きだ、と言ったのはゾロで、そう言ってゾロは泣いた。

小学生の剣道大会決勝戦で負けても涙ひとつこぼさずに唇を噛んで耐えていたゾロが、泣いた。

びっくりしたのと、ゾロのその言葉になぜか、小学校のときのプールの塩素の匂いとか、

スイカの味とか、電気をつけない昼間の薄暗い風呂場で入る水風呂の冷たい水の感触とか、

いままでの夏の記憶がすごい勢いで蘇ってきて、それからオレンジの夕焼けも思い出して、

スポーツ刈りの頭を見つめていたらなぜか泣けてしまっていた。

なんで泣いてるんだよ、と泣いたあいつが言って、もらい泣きだ、と俺はうそぶいた。

ゾロは雨上がりの芝生の匂いがする。

あまりに乙女チックなので本人にも誰にも言ったことはないけれど、そう思う。

すがすがしくて、楽しい気分がどこからかやって来るような、あんなかんじの匂いだ。

そして、芝生の上の空にはときどき、虹が出る。

1度、高校2年のとき、ゾロの部屋に辞書を借りに行って、そこで女の子と鉢合わせをした。

さんにんもようのぜったいぜつめい。

百恵ちゃんの歌がなぜか頭を流れた。

たぶん、ゾロはその子とヤったんだと思う。

聞いていないからわからないけど、ゾロに関することの直感には自信がある。

でも、責める気もなかったし、あやまられたくもないと思った。

だからなにも言わないまま、ずっとそのままでそれっきりだ。

ずっと変わらなくても、なんか別のところに行きたくなる気持ちはわかるし、

女の子に興味があるのもよくわかった。

傷つかなかった、と言えば嘘になるが、男としてそれくらいの甲斐性、と

よくわからないことを思って、4日後に、俺もクラスメイトの子とラブホテルに行った。

好き、好き、という女の子に、俺も、なんて言いながらやさしくキスをしたりなんかして、

俺ってもしかしてスケコマシの才能があるかもなんて考えて、

将来職に困ったらスケコマシをして生きていこう、とホテルのけばけばしいピンク色の明かりに誓った。

普通にヤれたし、むしろ才能があるかもしれない、そんな気もしたけれど、

やっぱりあいつとのほうが気持ちいいな、これって愛かも、

やばいこの年で悟っちゃったかもしれねえ、

まだ明るい夕方の道玄坂を女の子と一緒に歩きながら、そう思った。

ゾロは昔から無駄にモテたし、俺だってモテないわけじゃない。

ギャラリーのお客様に感想を書いてもらうノートには、作品の感想と一緒に

なぜか俺に対する感想まで書いてあったりする。

アート好きな人達の書くことなので、俺にはいまいち理解が出来ないような表現だけど、

それでもきっと誉め言葉だろうことが書いてあるのだ。

そうだ、モテないわけじゃ、けっしてない。

でもモテるとかモテないとかそんなことよりも、俺はゾロがよかったし、

自惚れている気もするけれど、きっとゾロも俺がいいんだろう、と思う。

よくわからないけれど。

 

 

内部進学で高校からそのまま上の大学に進んだ。

そこそこ頭のいい、そこそこ有名なほんとうにそこそこの私大だ。

ゾロは馬鹿そうな顔をしてそれでもけっこうな努力家なので、

家から電車で一個目の、けっこう頭のいい有名な大学に通っている。

渋谷から私鉄で10分程の、でっかい公園のある街に俺たちは、お隣同士で住んでいた。

あと2ヶ月もすれば、ゾロのハタチの誕生日がやってくる。

ハタチになったら家を出て、大学の傍に部屋を借りる、免許も取るし、と

ゾロはバイトで忙しく昼も夜も家にほどんどいない。

俺も似たようなものだ。

夜はじじいのレストランでウエイターや厨房の手伝い、昼はたいがいギャラリーでぼう、っとしている。

最近あまりゾロの顔を見ていない。

帰国子女枠で入学してきた英語が喋れるだけでアホな1年後輩のルフィが、最近よくギャラリーに顔を出す

ので、ここのところずっとルフィの顔ばかり見ているような気がする。

大学の中庭でサンドイッチを食べていた俺の目の前で涎を垂らしそうな顔でぐうううう、と腹を鳴らしたルフィ

にそれをやったのが俺たちの出会いだ。

ポーラがいつもケーキを差し入れてくれるんだ、という話をしたら、それ食いてえ、とルフィは

こんなところまでマメに通ってくるようになった。

階段をどんどんどん、とでっかい音を立てながら登ってきて、サンジ、ケーキ、とそれだけに用があるみたいに言って、

そしてポーラの差し入れてくれるケーキを食べつくして、帰る。

青山界隈の有名どころのケーキをきっとあいつはすべて制覇したに違いない。

ギャラリーにはポストカードの売上だとか、お客様に尋ねられたこととか、

印象的なお客様のことなんかを好きなように書く、業務日誌みたいなものがある。

ポーラのときは変なドラえもんとかが書いてあったりでめちゃくちゃだ。

その日誌がルフィが来た日にはルフィ日誌に変わる。

あまりに暇で、ルフィの食いっぷりをドキュメンタリータッチで書いてしまうのだ。

ルフィの食いっぷりはひとつの芸術だ。

ルフィの親父さんはギャラリーのすぐ近くにある、ブランドショップのチーフデザイナーをしている。

ギャラリーにひとりでふらりとやって来た派手な真っ赤な髪のその人に、息子が迷惑かけててすまないな、と

パリだけで扱っているというラインのスーツやなんかを、大量に貰った。

きっとサンジくんに似合うよ。

黒やカーキや灰色の、凝ったデザインのものばっかりだった。

なぜか靴まで貰ってしまった。

それをポーラに言うと、それもいいけれど、サンジにはシャツのほうが似合うわ、と

そのブランドのシャツをメインに扱っている―そこもギャラリーのすぐ近くにある―

に連れて行かれて沢山プレゼントされた。

クロコダイルも相変わらず毛皮で、その店にやって来た。

シャツを俺の体に当てて、素晴らしい、とトルコ行進曲を誉めたときとおなじように言った。

素晴らしい。

金はクロコダイルが払った。

当分着るものには困らない。

 

 

そんなふうに、今年に入ってから、俺の世界はすこし変わった。

ゾロと会わないそのかわりに、ルフィやポーラや、クロコダイルに会う。

クロコダイルはときどきギャラリーの終わる時間にやって来て、

クラッシックな外車に俺を乗せていろんなところに連れて行く。

この間は中華街に行った。

中華街で飯を食ってから、桜木町の観覧車を見た。

見ただけで乗っていない。

乗れる時間じゃなかったのもあるけれど、俺とクロコダイルが観覧車、

という絵面を思い浮かべたら、あまりにあやしすぎる二人組、と我ながら思えてしまったからだ。

でっかい観覧車を下から見上げて、その後ろの月を見た。

そしてゾロに会いたいなあ、と、思わずしんみりとくしゃみをした。

こんなにあいつに会わないことなんて、ずっとなかったのに。

帰りの道でずっと、俺はステレオから流れる曲に合わせて適当な歌詞で歌った。

ルッカソッポメッピラッスポデーリソウリロウリデッスレスハーイアーアアアー

クロコダイルが大声で笑った。

月は、車の後ろをずっと着いて来た。

 

 

ずっと、俺たちのセックスで、挿入はなかった。

14のとき1度だけ好奇心で試したことがある。

本気で死ねるくらいに流血沙汰のものすごいもので、

世の中まだまだ知らないことがたくさんあると変な感心もしたけれど、

その3日後に、クラスのやつが男同士のセックスを内蔵を殴っているようなものだ、

と耳年増なことを言いふらしてたのを聞いて、軽く眩暈を起こした。

内蔵。

じじいのレストランでよく見る魚とかのあれを思い出した。

指を入れたらすぐにぷちゅり、とはじけて血を流す、あれ。

それで、ゾロに言った。

おまえの内臓殴るのも嫌だし、殴られるのも嫌だ。

わかった、とゾロが言って、それからはずっと、

扱き合い、たまに咥えたりする、それが俺たちのセックスだった。

なんとなくそれで充分だと思っていた。

気持ち良かったし、痛いのは嫌だった。

だから自分が、ちょっとくらい挿れてみてもいいかな、なんて思うことは

一生ないはずだったのに、ほんとうに人生は一寸先は真っ暗闇だ。

俺が18の、ゾロが19の冬に、ふたりで北海道に旅行に行って山に登った。

寒くて、夜景がその空気にくっきりと綺麗で、あまりにも綺麗で怖すぎるくらいだった。

そして、山からリフトで夜のなかに落ちてゆくみたいに降りながら、唐突に、

泣けそうなほどの気持ちで、繋がりたい、と思ったのだ。

痛くても、内臓殴るみたいでも、きっと今ならあのときよりももっとうまく出来るはずだった。

どこにでもこれから一緒に行こう、いろんなもの見よう、と言ったゾロの目が、

もうずっと昔から変わらないゾロの目で、ずっと変わらずにそうやって好きでいてくれたことを、

うれしい思いを、どんなふうにもっと伝えたらいいのかわからなかった。

方法をわからなかった。

だけど伝えたかった。

だから、繋がることが出来たら、と思ったのだ。

東京に帰る日の空港でそれを言ったら、14ときのわかった、と言った

おなじゾロのままでゾロがうん、と言ってふたりで膝を抱えたまま、

じじいにみやげに買った干物の匂いに包まれて、窓の外の雪を見ていた。

山はとても偉大だった。

 

 

 

じゃんけんで、パーで負けた。

それで、ゾロが俺に挿れた。

そういう雑誌をエロ本買うみたいに、しかも近所のおばちゃんに見つかったりしたら

じじいが泣くかな、と思って千葉まで電車に乗って、こそこそと買って来た。

そしてふたりでいろいろと勉強した。

いままでで一番真剣な顔をしてゾロはその雑誌を読んでいて、

その顔を思い出すたびに俺はいまでも、思い出し笑いが出来る。

14のときみたいに死にそうに痛くはなかったけど、そんなにいいものでもなかった。

それでも、繋がってるってそう思っただけで胸のところがすごく気持ち良くなって、

痛くて死にはしないけど、幸せで死ねるかもしれない、と半開きの口で汗を掻いた

ゾロの顔を見上げて堪えきれなくなって、笑った。

繋がれて、なにかが変わったかと言えばなにも変わらないような気もするし、

ぐりっと音を立てるみたいになにかがやっぱり変わったような気もする。

ただひとつ、はっきりと言えるのは、俺はやっぱりゾロを好きだってこと、だ。

 

 

 

昨日の夜に久しぶりにゾロに会った。

駅前のコンビニで、夜中に。

久しぶり、と挨拶をした。

おお、と返事をしたゾロの手のなかにはコーヒーゼリーが握られていた。

ゾロはゼリーとかババロアとか、プリンとか、つるり、としたものが好きだ。

でかい口でつるり、と飲み込む。

おれはその様子を見るのが、好きだ。

コンビニを出てしんと静まり返った住宅街のなかの夜道を並んで歩いた。

だけどふと気づけばゾロがだいぶ後ろのほうにいて、でかい手で口元をおさえながら立ち止まっていた。

どうした、気持ち悪いのか、吐くのか、背中を摩ったら、小さい声で、なんか緊張する、と赤い顔をした。

思わず、へっ、と間抜けな声を出し、まじまじと赤くなった顔を見つめてしまった。

ばっかじゃねーの、いいからさっさと帰るぞ、となんでもないように言ったけれど、

心臓がどきどき言い過ぎて、救急車呼ばれそう、と思いながら心臓の音を消すように

どしどし音を無人の街みたいに静かな住宅街に響かせて、歩いた。

 

 

 

ゾロの指が入った場所が慣れて、ぐちゅぐちゅと音が聞こえてくる。

この音を聞くたびに死にそうに堪らなくなってしまうので、もう、いいから、

と懇願するのに、ゾロは絶対に、ダメだ、と言う。

ダメだ。

もっとちゃんとしないと、ダメだ。

耳から犯されてるみたいで、耳を塞いで大声で喚きながら聞いてないふりをしたくなる。

けれど慣れてしまった行為にちょっと気持ちがよくて、それも絶叫したいほどに恥ずかしい。

扱いてもそこから似たような音がするけれど、ぜんぜん別だ、と思う。

なんかもっと生々しくて、厭らしい。

部屋の中は暗くて、自分の手がひらひら舞うのだけが白く浮いて見える。

昨日も会って、なぜか今日も会っている。

会わないときはあんなに会わなかったのに。

ゾロの部屋のカーテンは子供の頃から変わってなくて、日に焼けていてボロい。

このカーテンを見るたびに胸が変になる。

カーテンが風で揺れたり、その隙間から月が見えたり、雨が降っているのが見えたりするたびに、

おなじような日の温度を、リアルに思い起こしてしまうからだ。

1階にはゾロの両親が寝てる。

この家の人達はどこにでもいるような、ふつうの、中流家庭の、絵に描いたような幸せ家族だ。

居たたまれなく、なってしまう。

ほんとうは結婚して、子供も作って、おなじような幸せ家族をゾロも築いてゆくはずだった。

それを拒んだのは俺で、きっとゾロも共犯だ。

けど、カーテンの隙間から見える向いの俺の家の、電気の消えた窓とかを見るだけで

なんだか、もう、誰も知らない、ずっと遠くへ逃げ出してしまいたくなる。

いまはまだ19で、もしかしたらゾロはこれよりもっとすごい恋愛をするかもしれないし、

その人と結婚も考えるかもしれない。

でもたぶん。

俺はそれを死に物狂いに、あざといことをしても、卑劣な手を使ってさえ、止めるだろう、と思う。

自分の上で動くゾロの半開きの口とか、目を瞑った実はすっごいエロい顔とか、

でっかい手で頭を撫でることとか、でっかい口でする食われそうなキスとか、

そういうものを他の誰かが知るくらいなら、俺はきっと悪魔にでもなれてしまう。

そのうちおでこに数字浮かんでたらどうしよう、って思ったらおかしくて、にへら、と笑ってしまったら、

変な顔すんな、んで他のこと考えんな、と意地悪い顔で俺の手を握って、そのままで前を扱かれた。

俺はまだ後ろだけじゃイけなくて、ゾロがごっついその手で前もシてくれたりする。

でもたまに意地悪い顔―ゾロはもともとが悪人顔なので、意識してそうするとますます悪人度が増す―

で、自分で扱いてイけよ、とか言うのだ。

瞬間的に殺意が沸くけれど、結局そのまま言葉に従ってしまったりする。

しょせん気持ち良さには勝てないのだ。

出して、終わったあとで、いっつもほんのひとときだけ、たったのそれだけの間、

気持ちいいことは確かに好きだけど、そればっかりになるのは嫌だな、と乙女チックに思ってしまう。

それで、窓の外に昔からの変わらない景色とかを見て、胸がまた変になってしまうのだ。

「なー」

「うーーーーん」

「なあ」

「う・・・」

もうほとんど眠りの中のゾロはちっとも会話の相手にならない。

煙草に火をつけてベッドから手をおもいきり伸ばし、テーブルの上の灰皿を取ろうとして、

そのままどさり、とタオルケットごと床に落ちた。

「んあ?」

目だけ開けてゾロが、なにやってんだ、と夢の中で喋るみたいに不自然に遠い声で言う。

「ワリ、灰皿取ろうとして落ちた」

「んー」

返事なのか寝言なのか、早々と目を閉じて、でもその腕がなにか探すみたいにひらひらと動いていた。

床にタオルケットに包まって煙草を吸いながら、その腕の動きを目で追った。

おもしれえ、なんの夢見てんだろう。

ひらひらとさせた腕のまま、サンジ、と遠い声が呟いた。

お、夢の中にも俺様登場か。

そう思って短くなった煙草を灰皿に押し当てて近寄ると、ぴた、とひらひらの腕が二の腕に触れ、

サンジ、もう1度遠い声が呼んで、おまえほんとうに寝てんだろうな、と言いたくなるような力でベッドに引きずり込まれた。

なんて、性質の悪い。

ほんとに寝てるのか、思わず顔を覗き込んだけど、いつものゾロの寝顔だった。

アオ臭いような、ゾロの汗の匂いがした。

ああ、まただ、と思う。

またこうやって、うたたねの、抜け出すことの出来ない、その心地よさに引き込まれてしまうのだ。

クロコダイルが、言っていた。

外国での昼寝は一番の贅沢だ。

パリのみやげだと、まあるいボトルの、天使の羽根の形の

かぎ編で編んだみたいな入れ物に包まれた香水

をくれたクロコダイルがどかり、とソファーに座り込んで、

久しぶりに日本茶が飲みたい、と言うので出してやった。

昼間の人のいない時間のギャラリーで、だ。

いつのことだったかもう忘れてしまった。

そして日本茶を飲みながら彼が言っていたのだ。

外国での昼寝は贅沢でいい、と。

無駄なことが一番の贅沢なんだ、そう言っていた。

うたたね。

きっとこれはとても贅沢で幸せなそんな種類の眠りだ。

無駄でも、貴重でもなく、いつも変わらずに、そこにある。

まあるく手のひらをまるめて、そっと包むみたいに、やさしい。

やさしく胸を、きゅう、とさせる。

 

 

夏に、同い年の芸大に通っている女の子から、写真を取らせて欲しい、と頼まれた。

ギャラリーにいつも来る女の子で、白くて小さくて小動物みたいにかわいかった。

付き合うならあんな子がいいな、と思っていたので声をかけられたときはちょっと浮かれた。

けれど残念ながら俺は写真が苦手だった。

だから断ったのに偶然その場に居合わせたポーラが、引き受けなさいよ、と言って

女の子もお願いします、と言うので断り切れなくて、引き受けてしまった。

それで月曜日の昼間にふたりで待ち合わせて、新宿御苑に行った。

平日の昼間の、人のまばらな芝生の上で、適当にいろいろ好きに動いてみてください、

勝手に撮るから、と言われて緊張して固まった。

くるくる回ったり、ポーズを決めて笑顔、とか考えたけどどれも自分には出来ない。

あきらめて芝生の上に寝転んだ。

芝生のチクチクとした感触に、ああ、なんかゾロみたいだなあ、と思って、

まぶしい夏の日差しと、都会の真ん中の緑に、少し遠くからは犬の声がした。

空が青くて、目の奥が痛くなった。

ゾロに抱かれてるみたいだな、とアホっぽいことを考えて

チクチクした芝生に横顔のまま伏せて、地面を抱くように目を閉じた。

ジー、カシャ、とシャッターが鳴ったのにも気づかなかった。

涎を垂らして眠っていたのを起こされた上に、顔には芝生のあとがついていて、

かっこわるいことこのうえなかった。

2日後に女の子が写真を抱えてギャラリーにやって来た。

ルフィがケーキを、誰も取らないのに気を抜いたら横取りされてしまう、というような

殺気だった雰囲気で食べている真っ最中だった。

すごくいいのが出来ました、と女の子が言ってでかい袋からそれを取り出そうとしたので、慌てて止めた。

自分の写真なんて恥ずかしくて見れないよ。

でも本当にいい写真なんです、あたし才能あるかもしれないって調子に乗ってしまいそう。

うん、だったらポーラに見てもらうといいよ、彼女は才能のある人の撮るものをきちんと見分けることが出来るし、

欲しい人に売ってくれる、そういうビジネスもやっているんだ、彼女に任せておけばきっといい値段になるよ。

あたしはあなたに見てもらいたいのよ、会心の作なの。

そんなやりとりをしていたら、ケーキを食べていたはずのルフィが、おお、すげえ、これサンジか、

違う人みたいだな、ともぐもぐとしたまま袋から勝手に出した写真を眺めていた。

それは、芝生の上で目を閉じる俺のアップの写真だった。

ねえ、とても幸せそうでしょう、もう、泣けてしまいそうなほどに。

サンジ、こんな顔も出来るんだな、初めて見たぞ、俺。

ぼーっとふたりの声を聞きながらその写真を見つめ続けた。

もしかしたら、彼女はほんとうに才能があるのかもしれない。

うたたねの、その形が、光も温度もはっきりと、そこには写り込んでいた。

胸が、どうにかなってしまいそうだった。

その写真は、けっきょくポーラが気に入って自分で買い取った。

この間遊びに行ったらその写真がクレーの隣に飾ってあってなんだかそっちのほうが見れなくて、

ポーラのとっておきのワインを青いビデオムービーを見ながらぐびぐび飲んだ。

クロコダイルがその写真を見て、素晴らしい、と言った。

素晴らしい。

君はいつも薄汚れた世の中に産み落とされたばかりの赤ん坊のような無防備さで、

そしてそれを恥じているみたいに小さくなって、溶け込めないまま浮いているみたいに見える。

そんな自分にイライラして、膝を抱えて、じっとしているみたいだ。けして折り合えない。

それは悪いことではない。

だからこそ君にはあの場所が似合う。

だけど、これは違う。

溶け込んで、そしてまどろむように幸福だ。

まるで光が満ちているみたいだ。

それを聞いて、なんとなく言ってみたくなった。

ゾロのことを。

きっとこのふたりなら笑ったり蔑んだりしないでくれそうな気がした。

ワインの酔いも手伝って、俺はべらべらと喋った。

おもしろいくらいに次から次へと言葉が出てきて、もしかしたらずっと、

誰かにこんなふうに聞いて欲しかったのかもしれない、と思った。

でも話はほとんど俺たちの小さい頃の馬鹿話だった。

母親に腹巻き着用を義務づけられていたゾロが、

腹巻きを忘れると必ず腹を壊して小学校の保健室の正露丸を

ほとんどひとりで消化していたこと、近所に住んでいた天パで嘘吐きの

鼻のでかいやつの嘘を本人の前では馬鹿にしながらも、ふたりになると

あれってほんとかな、と真面目な顔をして聞いてくるゾロのこと、

よくふたりで迷子になって知らない街で途方に暮れたこと、

カナリアのピーコちゃんが死んで、ふたりで庭の松の木の根元に埋めたこと。

話を聞きながらクロコダイルは、素晴らしい、とまた言った。

いい話だ。

素晴らしい。

マスカラで目の下を真っ黒にしたポーラが、感動したわ、ちん、と鼻をかんだ。

そういう思い出は消えないのよ。

そしてそれがずっと支えになるの。ずっとよ。

 

 

 

11月になって、ゾロの誕生日をふたりが祝ってくれると言い出した。

代官山の、1度行ってみたかったコース3万円からのレストランで、

なんでも好きなものを食べさせてくれると言う。

でもゾロ、スーツとか持ってないし、と言ったら、

じゃあそれもあたしたちがプレゼントするわ、させてちょうだい、と言われた。

11月の11日に、東急本店の前で待ち合わせをした。

ルフィの親父さんに貰ったスーツと、ポーラとクロコダイルに貰ったシャツを着る。

ゾロと待ち合わせする、ってことがはじめてで少しだけ緊張した。

道を歩きながら遠くにゾロを見つけて、あっ、と声を出したら、

横でポーラが、あら、まあ、かわいい、と笑って、クロコダイルが、ふむ、と唸った。

スーツに着替えたゾロに、ポーラは、まあ、男前ねえ、と言ったけれど、

クロコダイルと並ぶとまるで幹部とその右腕みたいになって一緒に歩くのが思わず恥ずかしくなった。

ポーラと並んで駅へ向かおうとしたら、あら、あなたはあたしじゃないでしょう、

と彼女はクロコダイルと腕を組んでさっさと前を歩いて行ってしまった。

少しおもしろくなさそうな顔のゾロが、窮屈だ、これじゃ飯食えねえ、と言って俺の隣に並ぶ。

それからはこういうの着る機会も増えるんだぞ、慣れとけ、母親みたいなことを言って

俺は、ピアスの入った箱をポケットの上からそっと撫でつけた。

ゾロの左耳にはピアスホールが開いている。

それは中学3年の冬に俺が針をブチ指して開けた。

針を刺す少し手前の、緊張して強張った体を、埋め込まれたピアスを見るたびに思い出す。

自分で開けた穴に埋めるものは自分が決めてやろう、と思って稼いだ金でかなりいい値段のピアスを買った。

ハタチの誕生日くらい奮発してみてもいい。

20年間。

正確にはほんとうは16年間とかそのくらいなんだけど、それはやっぱりすごい時間だった。

ジャンパンの泡みたいに、次々に弾けて消えてしまう一瞬の出来事の数々。

ずっと一緒に、誰よりも傍で、見てきたのだ。

そして並んで歩きながら、渋谷の喧騒の中の夕暮れに、ゾロの横顔に、ふいに波の音を聞いた。

「うたたね」の写真家のあの人に貰ったあの写真。

小さい、ほんとうに小さい頃住んでいた遠い北の国で、俺はよく母親とバスに乗った。

ぐるり、と小さな島を一周するバスだ。

昼寝をしない俺は、バスだとよく眠ったの、と母親が生前に言っていた。

寒くて凍えるようなひゅーひゅー地獄から吹いてくるような風と、

どどーんどどーんいう波の音の海が、バスの窓からはよく見えた。

その世界で一番寂しいような風景がとても好きだった。

うとうととその風景を横目に幼い俺は目を閉じるのだ。

目を覚ますと、少しの晴れ間にいつも遠くでキラキラ輝く波が見えて、ほんとうに綺麗だった。

ゾロといるといつも、あのけっして届かないような、キラキラ輝く光の、そのなかにいるような気がする。

幸せで、気が遠くなりそうな、光のそのなかに。

人々の流れに逆らって歩きながら、きっとぜったい、本人には言わないけれど、と思う。

遺言になら残してもいい。

感動して泣けるような、遺言のような手紙を、書いてやろう。

光のなかでわたしはとても幸福でした。

あなたも、わたしとおなじあの光のなかにいたのでしょうか。

そう書いてやろう。

そして14のときみたいにじいさんになったゾロが泣くのを、幽霊になって、こっそり覗いてやろう。

それを考えたら楽しくなって、ゾロの手を握って、たんじょうびおめでとう、と言ったら、

ゾロはちょっと驚いた顔をしていたけど、それでもぎゅう、と握り返して照れたみたいに変な顔で笑った。

街のなかで手を繋いだのなんてはじめてで、少しだけやばいかなあ、そう思ったけれど、

人混みの中で誰も俺たちのことなんて気づいてなんか、いなかった。

 

おわり