スパイナンバー 69

 

 

 

 

■後編

 

 

 

 

国道沿いをひたすら歩いた。

歩いてマイアミにつけるなんて、そんなの聞いたことがない。

鈍行を乗り継いで、窓から海が見えたところで、ゾロが、下りるぞ、と俺の手を引いた。

海は強い太陽の光を反射させて、浜辺には夏を満喫するためにやって来たんだろう海水浴客がパラソルを立て、

いくつもの海の家が立ち並ぶそこからはとうもろこしの焼く匂いとかヤキソバの匂いがする。

その脇をひたすらに、まっすぐ歩いた。

ノーウーマン、ノークライ、ゾロが青空に向かって歌う。

「うそつき。」

「なにが。」

「ここ、ぜんぜん、マイアミじゃない。」

車がすごいスピードで通りぬけては、砂埃を舞い上げる。

「ねえ、ゾロ、お金ないの?だから飛行機乗れないの?」

「金はないなー、たしかに。」

足をひきずるようにして、ゾロはゆっくりと俺の前を歩く。

「免許くらい欲しいかったな。」

「車でマイアミ行くの?」

「つーかおまえ、のこのこ着いて来てんじゃねえよ。」

「連帯責任だからって言った。」

「少しは自分の意志ってもん持てよ。」

「じゃあ、カルピス飲みたい。」

「そんなに飲みたかったら俺のしゃぶれ。」

「甘いのじゃないとやだ。」

「頭あっちい。」

強い陽射しのせいで、目をきちんと開けていられなかった。

ゾロの髪は鮮やかに光る。

アロハの裾がはためいて、海岸からはうるさい音楽が流れる。

こめかみのところを汗が伝う。

太陽とか埃で目が痛くて擦ったら、前を歩くゾロの姿が霞んで薄くなった。

いけない、と慌てて、何度もまばたきをした。

姿が見えなくなってしまったらいけない。

霧の中のようにゾロの背中は薄ぼんやりとして、ノーウーマン、ノークライ、と歌う声も少し遠かった。

「ゾロ。」

思わず名前を呼んでしまった。

ゾロは無駄に名前を呼ぶことを嫌う。

俺のことも、名前じゃ呼ばない。

体調がばっちりで、機嫌も良くて、そういうときのセックスの最中にだけ、名前を呼ぶ。

いいかげんで、最低だ。

「なんだよ。」

霞む後姿から機嫌良く返ってきた返事に、驚いて、なんでもない、といいわけみたいに言うと、

なんでもないってなんだよ、とゾロは別人みたいに穏やかに、ノーウーマン、ノークライ、とおんなじリズムで笑った。

 

 

 

そのボロいホテルは街道のその傍にひっそりと建っていた。

「最低。」

「なんだよ、ちゃんとマイアミだろ。」

「ただのラブホだろー。」

「そう言えばラブホでヤったことってねえよな。」

「ビーチとかピンクいカクテルとか、水着のおねえさんがいない。」

「エロガキ。」

海はとっくに遠くなり、日本中どこに行ってもあるようなオートバックスとかローソンとかロイホとか

そういうものがちらほら立ち並ぶ街道沿いを一歩抜けたところに、ホテルマイアミとでかい看板は大きな顔をして夕暮れの空に光る。

オレンジ色の細い雲が千切れて飛んで行く。

 

 

部屋の中にはでかいテレビ。趣味の悪いシーツのかかったでかいベッド。

変な模様の壁紙。それとまるで合っていない絨毯。悪趣味もここまでくるとむしろ偉い。

趣味の悪いシーツの上に押し倒されて、あっという間に裸にされた。

俺の体をまさぐるゾロの手は大きい。

きっと、ゾロの手や舌で触れられなかった場所なんて、俺の体には、ない。

いたるところに触れられる熱い舌、体温の高い荒れた手のひら。

ゾロの目は、焦がすようにこっちを見る。

焦げたあちこちには穴があく。

穴は手のひらや、熱い舌で、塞がれる。

慣れた体はすぐに反応して、あられもない声が部屋に響く。

サンジ、とゾロが呼ぶ。水音がする。

世界で1番趣味の悪いこの部屋は世界で1番やさしい音楽に満たされる。

神様、と呟き、目を閉じた。

 

 

 

俺たちの住む京浜工業地帯の駅の近くにはアイススケート場がある。

中学生の頃、ダブルデートに誘われて、そこへ行った。

女の子はツルツル滑る氷の上で笑い声をたて、大きな音でヒット曲が流れていた。

グルグル、スケートリンクを回りながら、どうして俺はゾロが好きなんだろう、と思った。

ちっちゃくてかわいらしくて柔らかい、女の子じゃなくて、どうしてゾロなんだろう。

泣きたいくらいにゾロが好きで、繋いだ女の子のその手を、痛いくらいに握りしめた。

夏になると、いまだに俺はひとりでそこへ行く。

半袖でも汗が噴出して止まらないような外から一歩その中へと足を踏み込めばそこには寒い寒い冬が待っている。

Tシャツのままで震えながらベンチに腰掛けて缶コーヒーを飲む。

手のひらだけが温まり、紫色になった唇のめちゃくちゃなかんじのまま、ゾロのことを想うのだ。

ぐちゃぐちゃでわからなくなる自分の気持ちがもっとぐちゃぐちゃでわからなくなる。

吐く息は白く、けれど外には灼熱の太陽が待っている。

冷えた体と温まる胃と、それはまるで、この想いの温度差のようだ。

 

 

 

ラブホの部屋は窓が開かない。

ヨダレをだらだらにして、じゅうたんに垂らしながらゾロのをしゃぶって、

変な模様のだっさい絨毯の上で思いきり足を開いて、自分で後ろを慣らす。

ゾロのが喉を突いて、苦しい。ヨダレはますます流れるままになる。

AVみたいにゾロのそれを唇で吸い上げる。

血管がむきむきってして凶悪っぽいゾロのそれ。

けなげで小さな俺のアナは、こんなものだって飲み込んでしまう。

ちゅうちゅう、赤ん坊みたいに吸いついた。

指で慣らされた後ろがじんじんして、口のなかのこれが欲しくなる。

だけど、ゾロは、言わないとくれない。

言うまで絶対にくれないし、はずかしいことを言う俺を見るのがゾロは好きなのだ。

くだんない。

挿れて、ゾロのを、お尻に挿れて。コレで擦って。

それだけでイきたい、後ろだけで、ねえ、もう欲しいよ。

ゾロのが入ってきて、揺さぶられる。

有線から流れるレゲエ。

横ノリの曲は、セックスのときのBGMになんない。

青い空とか、青い海とか、水着のおねえさんとか、

そんなところからめちゃくちゃ遠いところで、めちゃくちゃに突かれて、めちゃくちゃな声を出して喘いだ。

薄暗い部屋外はギラギラの夏だというのが不思議だった。

出しきって満足げなため息を吐いてゾロが、鼻歌を歌い煙草をふかす。

ノーウーマンノークライ。

だけど、きっと、男だって泣く。

みっともなく泣いたりする。

ヘタクソな歌は止まずに続く。

萎えたゾロのが薄暗い明かりにぬらぬらと光る。

 

 

 

マイアミ3日目。

無気力にベッドに転がったまま、天井を眺めてレゲエの流れる有線を聞いた。

海が見たい。

遠くへ、遠くへ、もっと遠くまで行きたい。

なんにも追ってこない場所。

誰もゾロを知らない場所。

ゾロを知っているのは俺だけってそういうところに行きたい。

ベッドの上に投げ出されているゾロの足の爪が伸びていた。

四角くて、でかい爪。

こんなものだって、好きなのに。

マイアミに行きたい。

ゾロの手とか背中とか足の甲とか唇とか変な色の頭とかが、

マイアミの太陽の下で、見ることが出来たらいいのに。

そしたらわかんないままに欲しがるなにかを、手に出来るような気がするのに。

「お金がないんだったら、援交とか、する?」

マイアミ行くのにお金必要だよね、って笑うつもりだった。

「あ?」

「だっていっつも、フェラうまいとか、腰使うのうまいとか、絞めるのうまいとか、誉めるから。」

最後まで言い切らないうちに背中を打った。

殴られたとわかったのは、口の端から熱いものが流れたのを感じたからだ。

拭うとそれは真っ赤な血で、思わずゾロを見上げると、売女、と吐き捨てられた。

間違ってるよ、ゾロ。

だって俺は女じゃない。

だからそれは間違ってるよ。

「死ね、淫乱。」

腹を蹴られて、一瞬呼吸が止まった。

痛さで涙が流れ、趣味の悪い絨毯を濡らした。

何度も蹴り上げられて、痛みでぼんやりとした脳で、リンチで死ぬってこういう状態かなあ、と考えた。

ゾロが繰り返し怒鳴る。

淫乱野郎。

おまえが、そんなこと言うなよ。

俺を、そんなふうにしたのはおまえだろ。

そんなこと言ったら、かなしいだろ。

「2度とそんなこと言うんじゃねえ。」

ベッドに寝転んで、ゾロは向こうを向いてしまった。

床に転がって、痛みにうずくまった。

鈍く体の奥が痛む。

能天気にレゲエは流れ続ける。

 

 

 

 

冷蔵庫の前にしゃがみ込んで、コーラを取って、腫れてしまった口元を冷やした。

ゾロの寝息が聞こえる。

つつがない、穏やかな、ゆるやかな、リズム。

冷蔵庫のなかにはチップスターが入ってる。

あとでこれを食べよう。

3日間、ピーナッツとかビールとかビーフジャーキーとか

イカとかポッキーとかそういうものしか食べてない。

なんのためにこんなところにいるんだろう。

海があって、空がある、ニセモノのマイアミ。

ゾロは、誰かとここに来たことがあるのかな、

と思ったら視界の中で、チップスターの箱が歪んだ。

携帯の電池はあと一個。

ジジイからいっぱい留守電が入ってた。

電池一個ぶん、外界へ、たぶんこれが最後の連絡になるだろう、

SFっぽいことを考えながらボタンを押した。

「もしもし。」

ロビンちゃんのなつかしい声がする。

「久しぶりね。なにをしてるの?」

「恋。」

「おじいさまが・・・心配なさってたわ。」

「うん。」

「どこにいるの?」

「マイアミ。」

「海は青い?」

「ううん、ぜんぜんばっちいよ。」

「どこのマイアミにいるのよ。」

「ロビンちゃん。」

「なあに?」

「俺ね、ずっと、恋、してたんだ。だけど、それを認めたくなかった。」

 

 

 

シャワーに打たれて泣いた。

お湯と一緒に排水溝に流れさるかなしみ。

なにがかなしのか、それすらわかんないくらいにかなしかった。

もしも、ってその言葉が嫌いだ。

大嫌いだ。

俺のせいで、手放してしまった、ゾロのもしもの人生。

それに、ごめんね、と呟いた。

ごめんね。

だけど、それがなかったから、いまゾロは、俺のそばにいるのかもしれないんだ。

ごめんね。

なにもしてあげられなくて、ごめん。

 

 

 

むこうを向いた背中におでこをつけて丸くなった。

ゾロの匂いとゾロの感触。

もぞ、と背中が動いて、近寄んな、と声がする。

「バリア張ってんだぞ。」

「うん。」

「地球全体だ。」

「うん。」

「つーか宇宙全体バリアだ、入ってくんな。」

「うん。」

「聞いてんのか。」

「うん。」

「うん、ばっかじゃわかんねえよ。」

「うん。」

「アホ。」

「うん。」

「あほう。」

「うん。」

「暑い。」

「うん。」

「うぜえ。」

「うん。」

「むこう行け。」

「うん。」

「デコくつけんな。」

「うん。」

「おまえ、体温低すぎ。」

「うん。」

「小学校の頃」

「うん。」

「おまえ平熱低すぎて」

「うん。」

「プールいっつも見学だったよな。」

「うん。」

「だせえ。」

「うん。」

「サンジ。」

「うん。」

「俺は」

「うん。」

「後悔なんてしてやんねえから。」

「うん。」

「そんなん死んでもしねえよ。」

「うん。」

「サンジ。」

「うん。」

「サンジ。」

「うん。」

「サンジ。」

「うん。」

「サンジ。」

 

 

こちら地球、こちら地球。

心のなかで呟いた。

こちら地球、異常ありません、どうぞ。

呟きながら、ここはマイアミだから、英語じゃなきゃだめかもしれないって気付いた。

ゾロの背中に、唇を押し当てながら、心のなかで繰り返す。

アーユーヒア?

キャンーユーヒア?

アイム、ヒア。

ウィアーヒア。

くっつけたおでこのところからは、つつがなく心臓のリズムが続くのが聞こえる。

エブリシングイズゴナビーオーライ。

そう呟いた。

有線から、おなじことを、ドレッドのおっさんが、歌う。

ゾロの肩が小さく震えているのが、気のせいじゃなければ、いい。

 

 

おわり