スパイナンバー 69

 

 

 

 

■前編

 

 

 

 

 

こちら地球、こちら地球、異常ありません、どうぞ。

小学校の休み時間、そんなふうに空へと呟くのが俺の日課だった。

小さな俺はつつがない日常をどっかの誰かに伝えるのだ。

異常ありません、応答願います、こちら地球、こちら地球。

そんなつつがない日常に異変が起きたのは小学校5年の夏。

こちら地球、こちら地球、応答願います、こちら地球。

ゾロの傍に駆け寄って、俺はどっかの誰かに必死に言った。

緊急事態発生、緊急事態発生、こちら地球、こちら地球、緊急事態発生。

 

 

ゾロは左足を少しだけ、引きずるようにして歩く。

 

 

高校に入学してすぐに、緑色の髪で強面のあいつ、とゾロは噂になった。

かなりヤバイこともしているらしい、だとか、中学の頃クラスの女をヤクザに回していた、とか、

サンジ、おまえ知ってるか、とクラスのやつに聞かされたときに驚いて思わず教室中に響く声で

まさか、うそだろ、と言った俺は、ゾロがそんなヤツじゃないってことを誰より知っている。

誰より知っているつもりだけど、ゾロは廊下ですれ違うとき、俺なんか知らないっていう顔をする。

そしてそのそばにはいつも女の子がまとわりつくようにして、いる。

ゾロがどんなヤツなのかなんて本当はみんなどうだっていいんだ。

自分の恋愛とか、バイトとかそういうもののほうが大事。

どうだっていいヤツのことをいいかげんにどうでもいい噂にして遊んでいる。

ゾロが、ほんとうはどんなヤツかなんてみんな知らないし、俺だって知らない。

知っているつもりでいるだけだ。

 

 

放課後、かならずと言っていいほど、ゾロは俺の部屋へとやって来る。

つまんなそうにテレビを見て、つまんなそうにCDを漁る。

ゾロは大抵いつも裸足だ。たまに足の爪が伸びている。

爪、伸びてるぞ、と言うと、かならず、じゃあ、切れよ、と俺に切らせる。

爪を切ってる間のゾロは無言だ。そして、俺も。

プチン、プチン、プチン。

音楽が止んだりすると所在がない。

心が、だ。どこへ持っていったらいいのかわからなくて俺は困る。

知っているつもりの知らない他人。

俺の手によって、そこから切り取られる、もの。たとえば足の爪。

ゾロの耳に開いている、3つの穴にはピアスが埋めこまれている。

その穴は俺が開けた。

ピアスとか、いいなあ、そんなふうに俺は言ったような気がする。

もちろん、自分が開けるという意味で、だ。

だけどゾロは、いいかもなあ、と言って、次の日、太い針を持って家へとやって来た。

開けろよ。

手渡されたそれで、すこし強張った体に腕を回し、

肉に針の通って行くのを指先に感じ、俺はそのとき、なんとなくだけど、欲情した。

ゾロに指し込まれる、銀色の針。

ゾロの外側だったら、誰よりも知っている。たぶん、親よりも。

 

 

ゾロが俺のことを好きかなんて知らない。

恋とセックスは、別のものよ、と、ロビンちゃんは言っていた。

一緒にして考えるからだめなのよ、別のもの、って考えるの、

そういうのが大人の考えよ、大人はそうやって都合よく、

自分の気持ちいいことに正直でいられるから、大人なのよ。

ロビンちゃんは、小さい頃に近所に住んでいたお姉さんだ。

いまは家を出て、男と暮らしてる。

たまに帰ってくるそのたびに俺を連れて遊びに行く。

じゃあ、ロビンちゃんはその男と、恋をしていないの?

そう聞くと、ロビンちゃんはにっこりとして、恋も、セックスも、両方よ、と笑った。

本当の大人は両方を手に入れることが出来るのよ。

 

 

俺は両方を手に入れたい、と思う子供。

17歳、昨日は今日の続きで、今日は明日の続き、そういうことが、嫌だった。

それでも俺はつつがない日々を愛してる。

ふつうということの素晴らしさに、ふつうじゃなくなってはじめて人は気付くのだ。

ゾロの左足をダメにしたのは俺だ。

その足を見るたびに、罪悪感とか、そういうものとは少し違う感情が起り、

俺はますますつつがない日常を好きになる。

それでも日々は続いている、ということに、泣けてしまいそうになる。

ゾロが生きてること、呼吸の音、心臓とか、内蔵とか、ゾロを生かすすべてのもの、

つつがない日々を支える機能、繰り返される物事のすべて。

 

 

 

ゾロとはじめてしたのは12のとき。

異常な気もするけど、そんなもんだと思えばそんなものだ。

ゾロは知った知識を実践してみたかったんだと思う。

そのうってつけが俺だったっていう話だ。

なにがなんだかわからなくて、痛くて血が出て、染みのついたシーツを

ジジイに見つからないようにどう始末しようかということだけを考えていた。

そのとき俺が、ゾロを好きだったのかは思い出せない。

好きだと言えばそうだったし、そうじゃないと言えばそんなかんじで曖昧だ。

中学に入って他に試す相手が出来ても、ゾロは俺でしかしなかった。

なんでかはわからない。

めんどくさくないから、とか、言うことを聞くから、とか、そういうことが理由になるような気もする。

そして俺がゾロの言いなりになるのは俺がゾロに負い目を感じているからだ、とゾロは思っている。

もしかして、あの夏の日の出来事がなければゾロは俺をやろうなんて

思わなかったかもしれないし、もっと他の関係が築けたかもしれない。

けど、もしかして、っていうのは嫌な言葉だと思う。

可能性を探る言葉、だけどそんなものには意味がない。

もしかして、の出来事が起らなかったからこそ今に至るのだ。

もしかしてなんてくそくらえだ。

 

 

 

ゾロは方向感覚というものが欠如しているそのせいで、昔はよく

おなじようなマンションの5棟立ち並ぶここの、俺んちのあるその隣の12階のベルを鳴らした。

隣の棟の12階に住んでいたのがロビンちゃんだ。

迎えに行くと必ずロビンちゃんちの居間のソファーには、ふてくされているゾロがいた。

そしていつも、サンジくん、ゾロがおまちかねよ、ロビンちゃんはそう言って笑うのだ。

ソファーから振り向くゾロの、その一瞬の顔が俺は好きだった。

ゾロが俺を待っている、ということ。

ほんとうは待っているのは俺なのに、俺のはずなのに、いつもそう錯覚してしまう、あの顔。

俺はゾロを好きでいてもいいのかな、と、ときどきだけど、そう思う。

思うたびに思い出されるのはロビンちゃんちの綺麗に整頓されて居心地の良い

居間のソファーにうずくまるゾロの、振り向くその一瞬の、顔だ。

好きでいてもいいんじゃないか、と思える、俺の、この想いの支えになっている。

ゾロにしてみれば馬鹿馬鹿しくて思い出したくもない、瑣末な出来事にしても。

 

 

 

クラスメイトを殴って、全治3週間の怪我をさせたゾロは夏休みの5日前から、自宅謹慎になった。

サンジ、あの頭緑の、ゾロってやつ、絶対なんかやると思ってたけど、やったぞ、昼休み、

おまえ食堂いたから知らないだろ、すごかったんだぜ、あいつ、足引きずって歩くだろ、

それ言ったやつがいるんだ、おまえの足なんでそうなの、って言っちゃったやつがいんだよ、

馬鹿だよな、ふつう聞かないだろ、しかもあんなおっかなそうなやつに、そいつぜんぜん空気とか読めないやつで、

へらへら笑って聞いたら、あのゾロっての、いきなりそいつ殴って机とかと一緒にすっごい吹っ飛んで、ドアぶっ壊して、

キレちゃってさー、おまえも見れば良かったのになー、あんなの生で見たことねえだろ、ヤバかったぜ、マジ殺っちまいそうな勢いでさ。

5限目に後ろの席のやつが、おせっかいにも俺にそんなことを言った。

ゾロの足のこと、そういえばいままで誰も、あいつにそれを聞いたやつなんていなかった。

あいつが体全体で言ってるから。

聞くんじゃねえ、おまえらに喋る道理なんてねえ。

そんなふうに言ってるから、誰もあいつにそれを聞くことなんてなかった。

ゾロが、どんな気持ちでそいつを殴ったのか、わからなかったけど、きっとその場にいたら、

俺は、ゾロを止めることなんてしない、一緒になって、そいつを殴り殺してやる。

息の根止まるまで、蹴ってやる。

なあ、サンジ、おまえ小学校から一緒なんだろ、あいつと、あいつの足がなんでああなってんのか知らねえの?

後ろの席の馬鹿を無視しながら、窓から空を眺め、こちら地球、と心の中で呟いた。

こちら地球、異常ありません、どうぞ。

こちら地球。

 

 

 

 

ゾロが、うちへとやって来たのは謹慎2日目。

夕暮れ過ぎに、いつもと変わらない様子でゾロはうちの玄関を跨ぐ。

「どうしたの?謹慎は?」

「んな真面目に家に篭ってられるわけねえだろ。」

裸足の足は、少し爪が伸びていた。

「そういえば、ねえ、俺、ゾロに聞きたいことあって、」

「だるい、つーか、」

「カルピスさ、」

「眠い、」

「俺は濃い目が好きなんだけど、」

「とりあえず寝かせろ。」

「ゾロはどっち派?」

俺の質問に答えずに、リビングのソファーに倒れ込んで3秒後、あっという間にゾロは寝息をたてはじめた。

カラン、カラン、と濃い目に作ったカルピスのグラスを鳴らしながら、テレビを見た。

濃いのが好きか、薄いのが好きだったか、ゾロはどっち派だったかほんとうに忘れてしまった。

昔はカルピスもラムネも一緒に飲んだのに、なぜだろう、すっかり忘れてしまっていた。

遠慮のないイビキをかきながら、ゾロはソファーに体を投げ出して、眠る。

膝を抱えて俺は、ボリュームを落としたテレビをぼんやりと眺める。

ベランダの向こうには沈む夕日。

ゾロの足をそっと撫でた。

忘れてることもいっぱいあるのかも知れない。

ずっと一緒で、ぜんぶ覚えているつもりだったけど、

きっと脳みその許容量を越えてしまったものはぽろぽろと絶え間なく零れていくんだろう。

テレビを見ながらもそもそとメモを、えび300g、たまご1個、片栗粉大さじ3、

トマト2個、絹さや50g、と取って、背中にゾロの呼吸音を聞き、突然に泣きたくなった。

子供みたいに、声をあげて、頭が痛くなるまで涙を流せたらどんなにいいかと考えながら、

キューピーハーフ1/2カップ、鶏ガラスープの素小さじ1/2、シャーペンで文字を書く。

こちら地球、こちら地球。

涙を堪えながら呟いた。

誰かの返答があったためしなんてない。

それでも、伝えなければならないのだ。

だって、日々はこんなにつつがなく、美しい。

 

 

 

 

 

でっかい荷物に、それ、なに、と間抜けな質問をした俺をゾロは無言で殴り、

小鼻を膨らませて、それから、旅だ、と言った。

「タビ。」

「頭弱いやつといるとほんっとこれだからな。旅だろ、旅。旅行。」

「なんで?」

「いいから、おまえも下着とか詰めろ。」

「なんで?どうして?」

「なぜなにばっかしつこいんだよ、おまえは。いいから適当に詰めろ。詰めたら行くぞ。」

「どこに?」

「マイアミ。」

アロハシャツでグラサンのゾロのほうがよっぽど頭が弱そうに見えたけど、言わなかった。

浮かれているゾロを見たのは17年間ではじめてのことだったから。

ノーウーマンノークライ、とゾロはヘタクソな歌を歌う。

「それってマイアミじゃなくてジャマイカ。」

「夏はレゲエだって決まってんだよ、マイアミだろうがなんだろうが。

そんなケツの穴小せえこと言ってるとガバガバにしちまうぞ、アホ。」

「それはやだ。」

「嫌ならさっさと準備しろ。」

「学校どうすんの?」

「特別におまえは今日から夏休みにしてやろう。」

「馬鹿じゃないの。」

「しょうがねえ、ほんとうのところを教えてやる。」

「うん。」

「逃げるぞ。」

「なんで?」

「馬鹿馬鹿しいから。」

「なにが?」

「おまえのそういうのとか。」

「そういうの?」

「なんで?とかなにが?とか、馬鹿馬鹿しいから、もっと馬鹿馬鹿しいことしなきゃやってらんねえんだよ。

よって連帯責任だ、おまえもマイアミに強制連行だ、ざまあみろ。」

「ゾロ。」

「アホなこと言ったらぶっ飛ばすぞ。」

「水着持っていってもいい?」

「死刑決定。」

 

 
後編へつづく