鮫と水槽、

または、

センセイにまつわるいくつかのこと。

 

 

 

 

 

その男を見たのは、水族館のでかいサメの水槽の前だった。

平日の水族館は人がいなくて、広い空間が魚の呼吸みたいな音で埋まっていて、

ざわざわと、それでいてひんやりとひどく静謐だ。

サメを水槽ごと抱きしめるような格好でじっと、けれどなんにもうつしていない

うつろな瞳で、その男は水槽の前に立ちすくんでいた。

1週間後に、またその男を見た。

この間とおなじでかいサメの水槽の前にその男は立っていた。

白くて小さい幽霊みたいな横顔だけが見えた。

なんでこいつはいつもここにいるのだろう、と思った。

だいたい俺もなんでここにいるのだろう。

大学の昼休み、暇を持て余すとときどきここに来る。

マグロのぐるぐる回って泳いでいるのを見るのが好きなのだ。

サメはあまり好きではない。

「ジョーズ」が好きではないからだ。

ふと、男が振り向いて、にこり、と俺に微笑んだ。

いや、最初はわからなかった。

俺の後ろにいる誰かに微笑んだのかとそう思った。

けれど後ろを振り返ってもそこには誰もいなかった。

もしかして、うしろのマンボウに微笑んだのかもしれない、と思って、

あいまいな顔のまま視線を逸らして水槽のサメを見た。

そうしたら歩み寄ってきたその男に声を掛けられた。

あんたサメに似ている。

挨拶も自己紹介も天候の話もなく、唐突に男はそう言った。

あんたサメに似てるよ。

そして男は微笑んだ。

好きなんだ、サメ。

だからサメに似ているあんたのことも、好きだ。

男は捨てられた女みたいな顔をしていた。

絶望的で、病的な、捨てられたかわいそうな女。

サメを見てると興奮する。

哀れな女のような、そんな声で男は言った。

そして続けざまにこうも言った。

ねえ、しようよ。

なんの話かわからなかった。

いろいろ考えてみたけれど結論はひとつで、なんで男にそう言われるのかわからなかった。

女だったらあからさまなナンパだろうかと思うことも出来た。

ねえ、しよう。

男はもう1度そう言って、水槽にぺたり、と手をつけた。

白い手が青い水槽に浮いて、サメが、すい、とその前を泳いで行った。

 

外に出ると男はジプシーの絵の書いてある箱から

煙草を取り出し火を付けて、それから、綺麗だね、と言った。

光。

日差しだよ。

煙草を持った手で上を指して眩しそうな顔をした。

猥雑な通りの中で男は不自然に浮いて見えた。

きっと静謐ですこし死に近い、あのサメの水槽だけがこの男の居場所なのだ。

高速道路の下を渡って、ホテルに向かった。

ホテルに向かう途中、男はコルトレーンを口笛で吹いた。

吹いて、好きなんだ、と言った。

サメとコルトレーン。

それから知らない曲を吹いた。

いちばん好きなもの、って曲だよ。

男は煙草を道端に捨てて言う。

不幸でかなしい曲だ。

男のシャツの白い裾がはたはたと風に舞った。

 

 

部屋に入ると、キス、キス、しよう、キスしてよ、男はそう言って

俺のシャツのボタンをもどかしそうに外しながら、

股間をぎゅうっと握り込みながら、キスをした。

男の手は冷たくて、けれどその舌はおどろくほど熱かった。

煙草の匂いがする薄い唇にすこしだけ眩暈がした。

シャツを脱がせて、そしてちゅる、と音を立てて唇を離して、

どうしよう、キスだけでイっちゃった、と

男は行動にそぐわない子供みたいな顔をして、軽くだけど、と笑った。

そしてあんたは肌も、まるでサメみたいだね、うっとりそう言った。

窓の外には都心のビル群の無機質で固い景色が広がっている。

サメみたい。

ねえ、「ジョーズ」を見たことがある?

あの映画は好きじゃないんだ。

でもいつか食べられてみたい。

きっとそうやって死ねたら幸福だよ。

ざらざらする。

汗でしょっぱい味が海みたいだ。

猫みたいなしぐさで体中を嘗め回して、男はサメの話をする。

長い前髪が腹をくすぐって、こそばゆい。

男が体を離して、自分でそこを慣らす。

チューブからゼリーみたいなものを取り出して、恥ずかしいからあんまり見ないで、

でも見ててもいいよ、とおかしなことを言った。

細い指が穴の中で動く。

少し苦しそうな表情で膝を立てて、自分で前もしごいて男はそこを慣らしてゆく。

久しぶりだからなんか緊張してダメだ、指がかじかんだみたいになってうまく動かない、

目の下がほんのり赤らんだ顔で男が言って、ぐちゃぐちゃの自分指を見つめて一瞬だけ、途方にくれた顔をした。

ぐちゃぐちゃの指を見つめ、男は途方に暮れて、じっと黙る。

ひとしきり沈黙した後に男は白い指を俺の目の前にかざし、

俺、挿れるとすごいんだ、声とかでかいし、なぜか威張って言うので思わず吹き出した。

男は照れて笑う。

それからもう1度穴に指を入れ、浮かされているみたいな様子で指を動かした。

くちくち、と音が鳴って、もう、いいよ、と男が俺の手を引いた。

手を引いて、けれど体を軽く倒されて、入るとこ見てて、と

男は俺のを掴んで自分で入り口まで持ってゆく。

動物が鳴くみたいな声がして、ゆっくりとそこに呑み込まれ、

はぁ、と息を吐いて、男は、全部、入った、とうれしそうに笑った。

手のひらの下の俺の胸をまさぐりながら、

サメみたいにざらざらだけど

あんたのこの肌は、

心は鳥の産毛で撫でるみたいにする、

泣いてるみたいな顔で男は言う。

ねえ、なんで髪はミドリなの?

ミドリ色が好きなの?

胸の上の男の白い手を撫でた。

白い体がぴくり、と震えて、

あんたはサメだ。

世界で一匹のミドリザメだね、

とせつない顔をした。

 

 

ベッドに裸で寝転んで、俺の腹に指ででたらめに

文字を書きながら、男はセンセイの話をした。

サメみたいな目と肌をした、コルトレーンが好きで、

ジプシーの絵の書いてある箱の煙草を吸う男の話だ。

銀座の、あ、有楽町のほうのさ、あの、下にGAPが入ってるとこ、

なんだっけあそこ、うーん?なんだっけ、あ、阪急。

あそこの上のHMVでベルセバの新譜を試聴してたんだ。

そしたら変なシャツを着たありえないようなヒゲ生やしたおっさんが

じい、っと俺のことを見てた。

おっさんはサメみたいな目をしてた。

あんまりじいっと見てるもんだから、ヘッドホンを置いておっさんに言った。

なんか用、って。

そしたらモデルになれって言われたんだ。

写真かなんか、雑誌とかかな、と思ったら違って、

おっさんの描く絵のモデルだった。

日給1万て言われて、ただ黙って座ってるだけで1万、と思って引き受けた。

だけど日給1万で、けっきょく俺はカマ掘られた。

でもおっさんのざらざらの肌がサメみたいだな、って思った。

思ったら泣けてきた。

なんで泣けるのかはわかんなかったけど、おっさんの描く絵は好きだった。

赤ん坊胸に抱いてるみたいに、綺麗すぎるものが哀しいみたいな気分に似てる。

おっさんはそんな絵を描いた。

俺はおっさんをセンセイと呼ぶことにした。

カマ掘ったやつに、尊敬と皮肉を込めて。

半年して、センセイが俺を香港に連れて行く、って言い出した。

旅行行くから俺も来い、って言うんだ。

いま思えばヨーロッパとかアメリカとかじゃなくて香港なんてしょぼいけど、

そんとき俺はまだ高校生だったし、学校さぼって男と旅行って

親が聞いたらどう思うかな、と思ったけど、でも着いていった。

自分の部屋に置手紙を残した。

旅に出ます。

香港で、2週間はずっと楽しかった。

汚い屋台とか、

みんなが教室に閉じ込められているときに

俺は変なおっさんと外国にいるんだって、そういうことが。

センセイは英語も広東語も少し喋れて、

でも現地の人にはぜんぜん通じてなくておもしろかった。

2週間目に、男に会った。

俺より年上で、センセイよりも年下の男。

そいつを見て思ったんだ。

ああ、センセイはこいつが好きだったんだな、って。

なんでわかるのかわかんないけど、そうだってわかったんだ。

で、次の日に、夢みたいにセンセイは男と一緒にいなくなった。

外国にひとりきりで残されて、パスポートもあったし、

金もあったけど、発狂するかと思うほど途方に暮れた。

3日間はホテルの部屋で死人みたいにぼうっとしてた。

知ってる?

香港の地下鉄って、壁が赤いんだ。

センセイはもしかしてまだ香港にいるかもしれない、って

思って地下鉄の駅に行くんだ。

だけどその赤い壁を見ると―

「サイコ」見たことある?

あのシャワーシーン覚えてる?

あのカメラが女の人に近づいていくときに感じる、

胸を圧迫するような、もうやめて、って叫んじゃうようなあんなかんじの

もっと酷いのが襲ってきて、だめなんだ、電車に乗れない。

それで街をあてもなく歩いた。

センセイのサメみたいな目と、肌を思い出した。

かなしかった。

でもかなしいのに腹が減っていた。

汚い屋台で変な麺みたいの食べた。

鼻水と涙と一緒に麺をずるずる吸い込んだ。

あったかい汁が染みてきてもっと泣けた。

屋台のおっさんにわかんない言葉で、

でも必死に伝えようとしてるそんな身振りでなぐさめられて、

おっさんの汚い黒い爪を見てたら、うちのじじいを思い出した。

ああ、心配してるかな、と思って電話した。

それまで電話するっていうことが、おかしいけど、

不思議だけど、ぜんぜん思いつかなかったんだ。

電話したら怒鳴られた。

めちゃくちゃ怒鳴られて、でも、帰って来い、って言われた。

それでじじいの香港の知り合いに会って、

その人に飛行機の世話とか全部してもらって日本に帰ってきた。

帰って来て、成田でうどん食べた。

屋台の汚いのじゃなくて醤油の味の濃い日本のうどん。

うどん屋の窓から飛行機が見えて、終わったんだな、って漠然と、そう思った。

4ヶ月前だよ。

男はそこまで言って、くだらない、よくある話だ、と笑った。

1週間前、サメの水槽の前の男をはじめて見た。

もしかするとずっとあんなふうに男は4ヶ月の間、

サメを抱くようなあんなそぶりで、センセイを思い出していたのだろうか。

自分を外国に捨てた男を思って、そんなふうにしてサメの前で佇んでいたのだろうか。

ざらざらする、と男は俺の腹に頬を擦り付ける。

男の頬はなめらかで温度が低かった。

男の薄い茶色の髪を撫でた。

ミドリザメじゃなくて、ゾロだ、と言ったら、なに、それ、

と髪を撫でられるのが気持ちがいいのか男は目を閉じて、そう言った。

俺の名前。

名前?

ゾロ。

・・ゾロ。

男はしばらくもごもごと口の中で俺の名前を小さく呟きつづけていた。

腹に頭を乗せて、目を閉じたまま。

目を閉じたまま俺の手をまさぐって手繰り寄せ、

人差し指を外側に逸らして、それから指の腹を撫でた。

指の腹を撫でながらもごもごと呟きつづける。

そして、ふいに目を開き、世界中のすべて幸福を象徴する笑顔で、

幸福な呪文を唱えるように、言った。

「ゾロ。」

 

 

FIN.