おやすみ、おやすみ、またあした

 

 

 

 

 

天変地異、じゃなくて、晴天の霹靂、そうだ、それだ、と部屋のドアを開けて考えた。

考えごとが出来るくらいに俺は冷静だ。

そう、たとえ部屋の中が台風のあとのような水浸しであっても、俺は冷静だ。

そうでなければ女の子にはもてない。とりみだす男、それが1番嫌われるタイプなんだ。

でもここには女の子はいないし、少しくらい取り乱してもいいかもしれない、と考えた。

けれど騒いだところでこの惨状がどうにかなるとも思えない。

そんなふうに考える俺は大人だ。大人な男っていうのはけっこう女の子の心をくすぐる。

童顔で損をしているぶん、大人な態度で女の子の心をくすぐっていかないと、

あなたって素敵だけど、で終わってしまう。そうだ、さっきもカフェでその話をされたばっかりだ。

振られたうえにこれかよ。人生ってなんだ。一体、なんだっていうんだ。ああ、ちくしょう。

今夜一体どこで寝ろってんだよ。女の子に振られたばっかなんだぞ。

振った子の部屋に行って悪いんだけど泊めてくれないかな、なんて言えるほど俺の心は丈夫に出来ていない。

ちくしょう、半殺し、いや全殺しだ。上の部屋のやつ、ぜったいに、殺す。

と誓いを立てたところで後ろから声がした。

「おい。」

「はい?」

殺意を込めた笑顔で振り向くと緑頭の男がドアに寄りかかる格好で立っていた。

大人っぽくてそんでもって野性味溢れる、みたいに表現されるだろう顔をしている、1番嫌いなタイプだった。

女の子が好きで夢中になるのはいつだってこういうタイプの男だ。ワイルド?クール?ふざけんな。

「上の部屋のもんだけど。」

「のこのことあやまりにでも来たのかよ。」

「ああ、わりい。」

「そんだけ?」

殺意のこもった笑顔で訊くと、そんだけって、なに、という顔で見返された。

「弁償、とか、今夜のホテル代とか、そういうのねえの?」

「乾けばベッドも使えるし、服だって着れんだろ?」

「てめえ、なに正論ぶちかましてんだよ。人にあやまるってことしたことねえのか。

もうちょっと申し訳なさそうにしてみせろよ。そりゃあ乾けばいいのかもしれねえけどよ、

今夜は?今日は?俺にカフェで一晩明かせってのか?」

「まだ昼だし、夜までには乾くんじゃねえ?」

おれの憤りを軽く無視して緑頭のその男はドアに寄りかかったままひょうひょうと言ってのける。

他人にどう来られようともひょうひょうとしてるってのも女の子の心をノックしちゃうってわけかよ。

「シャワー浴びるかな、と思ったら止まらなくなって。わりいな。

でも汚い水じゃねえし、乾いたらほんと、大丈夫だから。そのまま眠れるし、着れる。」

「御親切にどうも。」

「いいえ。」

いやみたっぷりに言ってやったのに気にするそぶりもみせずに答えるその様子に

もしかしてこいつわかってねえのか、と思ったけれどわかってようがわかってまいが

いますぐにここが乾くわけでもないし、とエクトプラズマのようなため息が思わずこみ上げた。

乾くまでどんだけ時間がかかるのか考えただけで眩暈がして、ふて寝しようと

思ってたのにな、とひとりごとを言ったら、後ろからお詫びにいいとこ教えてやる、とうれしそうな声がした。

ひとんち水浸しにしときながらなんでうれしそうなんだよ、こいつは。ふたたびでっかいため息が出た。

「てめえまだいたのかよ。」

「着いて来いよ。」

緑頭は笑顔で言って、俺の返事も待たずにさっさと先を歩きはじめる。

マイペースっていうのも度を越すと問題だよな、と思いながら部屋にいてもどうしようもないし、

といい訳のように聞こえる言葉を言いながら後ろを着いていった。

どうも、俺はこいつのペースにうまいように巻き込まれているような気がする。

 

屋根裏の窓を開けるとそこに広がるのはいつも見なれているはずの街並だった。

その眺めに思わず、すっげえ、と素直な感嘆の声が出た。

「だろ。」

緑頭が先生に誉められた小学生のような笑顔で言って、見なれた街もここから見ると

ぜんぜん違うんだよ、街を風が吹きぬけて行くのとかがじかに感じられて爽快っていうか、

見晴らしがいいだけで気分も良くなる、不思議だけどな、と一足先に屋根に上がって俺を呼ぶ。

「ほら。」

その手を掴んで屋根に上がった。

「すげえな。」

「ここでさ、下を見てると、俺もあんなうちのひとりだって、あんなゴミみたいな粒のひとつだと思うと

楽になるっつうか、でも、たまにこうやって一歩抜け出して、関係ないふりをして見てみたくなる、

いつもはあの粒のひとつなんだけどいま俺はここからおまえら見下ろしてるぞ、ってさ、

っていうか、うまく言えねえけど、だめになってるときは効くんだよ、そういう馬鹿みてえな思考でも。」

「うん、なんとなくわかる。気持ちいいな、風。」

「というわけで、寝るわ。おまえもふて寝すんだろ?」

ごろん、と屋根の上に寝転がり、隣に座った俺を見上げて緑頭が言う。

「ここで?落ちねえの?」

「いっぺんも落ちたことねえから大丈夫だって。」

なにがどんなふうに大丈夫なのだろうか、下を覗き込むとその高さに腹の底がひゅっ、となった。

おやすみ、と言って緑頭はそのまま目を閉じる。3秒後にはスースースーと寝息が聞こえてきた。

見なれているはずの風景。すごいパノラマだ。遠くまでくっきりとしていて、飛び込んでくる。

下のほうにオモチャサイズの車や豆粒のような人がごちゃごちゃ動いているのが見えた。

気付いたら緑頭が隣にいなくてトマトがつぶれたみたいになって下で血まみれになっていたら嫌だったので、

寝転がるそのパーカーの帽子のところをぎゅっと掴んでタバコを吸った。

広がる風景、でかい街。続く空、流れる雲。いい天気だ。

「どうでも良くなっちまうなあ。」

頭も心もからっぽになって、飛び込んでくるのは目に映るその風景。神に祝福されている街。

そうだ、ここは少しだけ神の視点に近い。わけもわからずすべての人々の幸福を願いたくなるような風景だ。

花屋も肉屋もジジイもババアも、警官も泥棒も、おまえらみんな愛してるぜ、って気分になる。

俺も生きてるぞ、おまえらも生きてるんだ、明日もまた日が昇る、ああ、なんて素晴らしいこの世界。

アホみてえなことまで考えちまうような風景だ。スカっとする。

にやにやそんなことを考えながら眠り続ける緑頭のパーカーをぎゅうっと、ぎゅうっと、握った。

 

 

夕暮れが街を染める頃、ようやく緑頭が目を覚ました。

よくこんな場所で熟睡が出来るもんだとしつこいくらいに顔を覗き込んでもちっとも起きなかったくせに。

感傷的な夕焼けの景色と夕げの匂いにChocolate MilkのHOW ABOUT LOVE が

むしょうに聞きたくなったけどレコードを取りに部屋まで行っている間に緑頭が転がり落ちて死ぬのは嫌だった。

その場をけっきょく離れられずに、しかたなく自分の口笛で我慢してたら、んー、と

ダイナミックな伸びをして緑頭が目を覚まし、おはよう、とのんびり挨拶をされた。

「おはよう。」

夕焼け色に染まった緑頭がむっくりと起き上がり、夕日すげえな、明日は晴れだな、と言って、

言いながら俺の頭をぐしゃぐしゃにした。

「なんだよ。」

不機嫌な声でぐしゃぐしゃになった髪を直しながら行動を咎めると、緑頭はひょうひょうと

猫とか、犬とか、触りたくなんだろ、毛、と言ってなおも俺の髪をぐしゃぐしゃにかき回し、

髪の毛、冷えてんな、と夕焼けに染められながら笑った。

「機嫌直ったか?」

「直ったけど、髪の毛はやめろよ。」

「だってさ、猫とかそばに居たら触んだろ?」

「そのへんの犬とか猫とかと一緒にすんなよ。」

「でもおまえ猫っぽいよな。」

「はー?」

「人の邪魔しねえんだよ、空気が。うるさくない程度に居るつーか、楽だよな。」

「なんだよ、それ。馬鹿にしてんのか?」

「誉めてんだよ。」

「そうは思えねえけど。」

「冷えたし、帰るか。」

もう1度頭をぐしゃぐしゃにして、緑頭が立ち上がり、おなじように立ち上がった俺のほうを振りかえって

ああ、そうだ、とのんびり言うので、ああ、なに、とのんびり返すと、いきなりにちゅっとキスをされてしまった。

「な、」

「夕方の挨拶。」

ははっ、と夕焼けに染められた緑頭が笑って、ボンソワ、ときれいな発音で言った。

「パーカー、皺になっちまったし、これでおあいこな。水浸し。」

「な、」

「あんなぎゅうぎゅう握ってたら気付くだろ。」

「な、」

あいこじゃねえだろ、ぜんぜんちがうだろ、だいたいおまえホモか、とか

いろいろ頭に浮かんできたけれど、取り乱しすぎた俺の脳みそが

口から言葉を発するという命令を出せないでいた。

取り乱す男は1番ダメなんだ。女の子はそういう男が1番嫌いだ。

でもこいつは男だし、頭なんて緑色だし。ああ、もう、ちくしょう、わけがわかんねえよ。

「降りるぞ。」

俺はもしかして典型的な巻き込まれ方の人間で、こいつはその対極なのかもしれない。

一足先に屋根裏に降りた緑頭が、ほら、と手を差し出すので手を取ると、とん、と降ろされ

腕のなかにきっちり、すっぽりと納まってしまった。そして今度は首筋にちゅっ、とされる。

「おま、」

「おやすみなさいの挨拶。」

からかうみたいな笑顔で、緑頭が言って、俺を見る。むうう、とした顔で

眠るにはまだはやいだろ、そうぼそぼそ言うと、そうだな、んんん、じゃあ、と

緑頭の顔が近づいてきて鼻先で、またあした、とささやくように言ってから、その唇がちゅっ、と触れられた。

そして目の前で髪の毛とおなじ色の瞳が笑う。

おやすみ、おやすみ、またあした。

今日の占いの魚座のページには、ぜったい、きっと、こんなふうに書いてあるはずだ。

災難につぐ災難。巻き込まれてしまわぬように注意。

悪いことばかりの一日ですが、ほんのちょっぴり良いことが起るかもしれません。

占いは信じないし、運命も信じない。

けれども、さっきの街並みに、空に、夕暮れに、神は信じる気になった。


FIN.