う め ぼ し その頃のゾロは、はっきり言って、うめぼしのトリコだった。 うめぼしを口に入れて、すっぱーって顔をしながら、その口元はなぜか幸せそうなのだ。 2ヶ月ほどお預けをくらい、いい加減ご機嫌を取ろうと、 とらやー、とらやのようかんが食いてー、という俺のひとりごとを聞いていたあいつは、 その日、デパ地下で羊羹を買って帰ろうと思ったらしい。 機嫌を取るために、2・3本。 しかし、日常に潜む危機は、まさにそのときやって来たのだ。 夕方のデパートの地下1階、パートのおばちゃんが、ゾロに声をかけた。 おにいちゃん、どう、うめぼし、おいしいよ。 逢魔刻にとんでもないものに出会ってしまったゾロは、 以来、 どこそこの梅の何年漬け、などというものにすっかり執着するようになった。 デパ地下まで行って、プリンを忘れるくらいの熱の入れようだった。 いそいそと袋を開けては、ひとつ、口に食み、すっぱー。 ルフィとビビちゃんに、子供が出来たのは、そんな頃だった。 すっぱーというゾロの顔を見て、嫌がりもせずにビビちゃんは、 すっぱいのわたしにも1個ください、と言ったりした。 なんか最近、すっぱいのとか、おいしいんですよね。 そんなベタな、と思いながら俺は、 もしかして赤ちゃん?と素で聞いてしまい、 皆がしん、として、ルフィは間抜けな声で、あ、天使が通った、と言った。 実は、そうなんです、とビビちゃんが言って、ルフィを差し置きなぜかゾロが喜んだ。 「マジで?いつ?」 猫の手を取って、ゾロが言った。 スリッパを履かない素足のゾロが猫と手を取り踊るみたいに歩くたび、 床でぺたぺたと鳴って、にゃーときくらげが鳴いた。 「冬くらいなんですけど」 おまえの子かよ、と突っ込むのも、少しの間忘れていた。 すげえな、ここにいんのか、とゾロは言って、弟が出来るわよ、 と母親に言われた子供みたいな手つきでビビちゃんのお腹を撫でた。 純粋な喜びと興奮が抑えきれない、けれどやさしい手つきだった。 「すげえな。マジ、すげえな」 慈しむものを、知っているものの手つきだった。 「大げさですよぅ」 ビビちゃんはそう言いながら、うれしそうで、 父親であるはずのルフィはまるで蚊帳の外だった。 俺はもっと蚊帳の外で、ゾロの手に撫でられる、ビビちゃんのまだぺたんこのお腹を見ていた。 「なあ」 「あ?なに?」 「なんつーか俺はいま、勝利に飢えてるわけよ」 「知らねえよ。なんだそれ」 「だから読むなっつーの、それ」 スポック博士の育児書を、ルフィが、鼻をほじりながらパラ見していた。 シャンクスが、俺がルフィちゃん育てたときにはこれにお世話になったんだよねえー、 と本棚の奥から出してきたらしい。 ぜんぜん意味わかんなかったけど、と付け加えることも忘れずに。 その足元にはシアーズ博士夫妻のベビーブックと定本育児の百科が置いてあった。 「で、俺は、考えた」 「なにを」 「どっか郊外でよ、つーか新木場あたりでいいんだけどよ、 ミニ四駆のコース作って、近所の小学生集めて大会やんねえ?」 「えーやりたくねー、めんどくせー」 「ぜってえ楽しいって。 こっちは大人の経済力に任せて スーパーマシンでぶっちぎりの勝利。 な?ぜってえ楽しいって。な?」 おまえなんかそれってさあ、ダメな大人代表ってかんじ、と 大人ぶるルフィは、シアーズ博士夫妻のベビーブックに手を伸ばした。 「でもあれってよ、改造しすぎるとたまに空、飛ぶよな」 「飛ぶ、飛ぶ。軽くすることばっか、考えすぎ」 ゾロはうめぼしにはまっていて、ビビちゃんの妊娠を心から喜び、冬にはベビーが生まれて来る。 シアーズ博士夫妻のベビーブックにルフィが鼻くそを付けた。 俺たちの日々に、新しい出来事はやってこない。 子供が生まれて来ることはないし、たとえば結婚だってない。 それがすべてではないけれど、発展のない関係は、ただ減っていく一方になる。 持っているものを持ち寄り、それをすり減らせて行くだけだ。 すり減って、なくなってしまうのが、もっともっと遠い日であるといいと願う。 「俺もいよいよおじいちゃんだよー」 シャンクスが、だらしのない顔で言う。 事務所の中はバーゲンの最中に地震がやって来たんじゃなかというような惨状で、 足の踏み場もないほど赤ちゃん用品でごった返し、コーヒーの匂いと紙の匂いと、 マシンの立てるかすかな音と、おもてを通る車の音だけがいつもどおりだ。 机の上には建築写真家であるウソップの父親の撮って来た写真が並んでいる。 どれもこれも、建築写真にしては作家性がありすぎて、ある意味それが芸術である、 不思議な写真だった。 けれどそのせいでウソップの父親はウソップが幼い頃から 世界中を飛び回り、 あちこちの港に女と子供を作り、嫁と子供にものすごい苦労をさせた。 のちに嫁は疲労に倒れ、シャンクスは、彼女から、息子のことを頼まれたのだ。 ウソップと俺は、少し似た境遇で、だけどそれを分かり合おうとしないところをお互いに気に入っている。 そのウソップの、向こうのデスクの本と書類の山の間から、 職場は戦場だぞ つったのはどこのどいつだよ、と小さく悪態をつくのが聞こえた。 「ルフィちゃんとビビちゃんの子供なら、どっちに似ても、ぜったいかわいいよなあ。 なあなあ、おじいちゃんもいいけど、グランパって呼ばれてみるのも、いいと思わねえ?」 プレゼンに必要なのは根拠がなくたっていい壮大な自信ただそれだけだ、 自信満々に堂々とこのスマイルでトークすれば最後、俺に落ちないものはいない、 と豪語するおっさんが、 ここのところ、こんなことばかりを延々と繰り返し、 仕事をしない。 デパートに行ってはおもちゃや服や絵本を買い込んでくる。 雛人形はどうしようと言うので、季節じゃねえし、だいたい男だったらどうすんだ、 と答えると、 俺は女の子がいいんだと駄々をこね始める始末だ。 「ぜったい、女の子がいいんだもん」 すっぱい顔をしてゾロがまたうめぼしを食べる。 それを見るたび、俺は苛々とした。 すっぱーという顔を見るのも嫌だったし、そんなことで幸せになっているのを知るのも嫌だった。 口を窄めたゾロの顔を見るたびに、すり減っていくのを感じる。 苛々のあまり、3ヶ月ほど、毎日のように猫に当り、ゾロに当り、シャンクスに当り、ルフィに当たった。 皆またか、という顔をするのでなおさら俺は苛々とした。 べつに、うめぼしが好きだろうと、すっぱい顔をしようと、本当はそんなことどうだっていいことだ。 ただ、言い訳にしているのだ。 すり減っていくものに対する、俺の考えた、精一杯の言い訳だ。 そして俺を苛々とさせるのは、すり減って行くことを、食い止めるすべを持たない自分かもしれなかった。 サマリア病院の前に、黒い塊が転がっていたのを発見したのは月曜日の朝だった。 車がびゅん、と通り過ぎ、風をうけかすかに黒い毛が揺れた。 薄汚れ、くたん、といつも膝に体を摺り寄せる、あの格好とおなじ姿勢で、 それは埃まみれの道路に内臓をはみ出させ、寝そべっていた。 道路の真ん中に、ぼうと立ちすくむだけの俺は、 呼びなれた名前を、きちんと呼んでやることが、出来なかった。 ばかやろう。こんなところでのうのうと死んでんじゃねえよ、クソ猫。 唇を動かしたけれど、声にならなかった。 おまえがいなかったら、俺は、また、ひとりぼっちになっちまうだろ。 震えは後からやって来た。 妊娠中のビビちゃんにも、それを喜ぶルフィやシャンクスにも、 それになぜかゾロにも言えずひとりでひっそり葬った。 きくらげを拾ってきたのは俺で、ナミさんが名前を付けた。 あんかけ五目チャーハンに入っていたきくらげと、まるでおなじ色をしていたからだ。 そしてナミさんはいなくなり、ゾロに会った。 ゾロときくらげと、俺と、2人と1匹で、思い出も多かったけれど、 葬ってやるのはひとりで、と以前から決めていた。 きくらげは俺の猫で、世界でただひとつの、俺のもの、なのだ。 公園の植え込みの奥に猫を埋めながら、 サンジくんはもっとまわりを巻き込んでもいいと思うわよ、というナミさんの言葉を思い出した。 全部ひとりのことだと思ってるんでしょう。 そして自分なんかを誰もかまうはずがないって。 だけど、そうじゃないのよ。 なんとなくその言葉を思い出しながらも、ひとりで埋めて、ひとりで祈った。 傍にいてくれてありがとう。 さんざん当り散らしてごめん。 君はこの世のどの猫よりきくらげに似ていたよ。 かまぼこの板の傍にはアマダイの西京焼きを供えた。 この間顔を出したルフィの家には、どこから手に入れたのか、30段の雛人形が飾ってあった。 パティから電話があった。 ルフィとビビちゃんに子供が生まれる4ヶ月ほど前のことだ。 おまえにこういうこと言うのもなんだけどよう、景気がさっぱりで、 客足がなあ、最近なあ、と覇気のない声が受話器からした。 ただの愚痴のつもりだったのだろうことは、俺もわかっていたけれど、 なんとなく、ジジイが一生懸命作って、大きくした店が、 そんな目に合っているのを、 黙って見過ごせなかったのだ。 店の改装、女性誌に載るような新潟の温泉宿に泊まる客が行きたくなるような、 ちょっと特別な店、わざわざ足を運びたくなる理由を内装に凝らし、 シャンクスのコネを使いまくり、自分で厳選した雑誌数社と、 発言に影響力のあるやつらにことある事に吹聴させる。 作戦を立ててからの俺は早業だった。 くだらない飲みにも、顔を出しておいて良かった、 デザインに凝り過ぎたこの小さい紙を捨てなくて良かった、 シャンクスんちで酔っ払いのオヤジに飯を振舞っておいて良かった、 こいつ実は新潟の料亭の息子で、なんていうシャンクスの言葉に 心の中で悪態をついていたが、 いまとなっては良いことだ、 うまいうまいと泣きながら食っていたやつらも、あいつの実家なら、 と思うだろう。 そんなことを考えながら、作業に没頭した。 もしかするとあの馬鹿社長は、こういうこともある程度想定していたのだろうか、 と思うと、少し腹も立ったが、どうせだし利用させてもらうことにした。 その間だけ、俺は、生まれて来る他人の赤ん坊と、 人を苛立たせるゾロのすっぱい顔と、 すり減ってしまう恐怖と不安と、そういうものから逃れることが出来た。 ゾロがいまさらのように、そういえば猫、見ねえなあ、とスーパーマーケットからの帰り道、言った。 安売りトイレットペーパーを買いだめするために、部屋でだらだらするこいつを連れてきたのだ。 迷子じゃねえかな、おまえに、似ちゃったんだよ、そう返事をして、俺は自分に、少し、驚いた。 本当のことを言えなかったことと、似ちゃったんだよ、と口を付いて出てしまった言葉に驚いてしまった。 「早く帰ってくるといいな」 と言って、それから、知らない女の名前を呼んで、気をつけろよ、そこ、段差、と ゾロは、肉と野菜と牛乳の入った袋とトイレットペーパー4つを抱えなおした。 改装のために、何度も新潟に足を運んだ。 ついでだから手伝っていけ、とパティもカルネも遠慮なく俺をこき使った。 怒鳴られコケにされ、それでも大きな冷蔵庫の唸り声や活気に溢れた新人のコックが 走り回る姿や色とりどりの野菜がつぎつぎと美しく形を変えていく様が繰り返される厨房に、 俺はものの数時間で溶け込んだ。体が覚えていた。 ジジイの教えてくれたひとつひとつのコツも、思い出した。 幻想のジジイが、ガスレンジの前にたち、炎を上げた。 湯気でごまかして、俺は泣いた。 居場所を、思い出した気分だった。 それは、ゾロの、前の彼女の名前だった。 別に一緒に暮らしていれば小さな憤りや細かい癖なんか、 許せないことはたくさん出てくるし、 ゾロは案外間抜けなので 寝言で女の名前をよく呼んでいる。 ちなみにくいなというのは100万回くらい聞いた。 そういうのにいちいち傷ついて悲しんでいるのも馬鹿馬鹿しい。 だけど、きっかけだった。 なぜなら、ゾロの後ろをトイレットペーパー5つを抱えて歩く俺に、 そのときなんとなく、なにかがすとんと、降りて来たのだ。 それが言葉になったのは、改装が終了し、 広報活動を終えた頃、ルフィとビビちゃんに男の子が生まれた日だった。 シャンクスとゾロが、手を取り合って喜び、ルフィは感動のあまり、 腰を抜かして 病院のベンチから立ち上がることが出来なかった。 俺はそんな様子を、ジジイに蹴られる背中やパティに殴られる頬や、 しゅんしゅん湯気を立てる大きな鍋や大きなフライパンや、 丁寧に千切ったり茹でたりする野菜や、手間のこもった出汁のことを思い出しながら、 ただ、じっと静かな気持ちで見ていた。 「感動しちゃって」 ビビちゃんは言って、ブサイクな泣き顔を晒さして、赤いサルを抱いていた。 その泣き顔を見て、俺の居場所が、ここではないことを、ようやく、俺は悟ったのだった。 部屋を引き払い、ロマンスカーに乗った。 まるで新婚旅行だ。 俺は、きっと、田舎に帰るべきで、ジジイの跡を継ぐべきなんだと思う、 と言った俺に、ゾロは、顔を歪ませた。 離れることを少しでも悲しがってくれてありがとう、と思いながら、話を続けた。 ビビちゃんのことを、問いただされた。 俺が喜んでたのが気に食わないのか。 それはまあそうだろうな、と思ったので、用意していた答えを、言った。 別に、それがどうこういうんじゃない、ただ、ジジイの跡に、 誰もいなくなったら、 あいつ、かなしむと思うんだよね、だから、残してあげたいんだ、店を。 中学生でもない俺の恋は、情熱だけでは続いていかない。 そしてすり減っていくスピードも速い。 居場所が、ゾロの傍、それだけなのが俺にとってずっと恐怖だった。 あの慈しむ手は、姿を変えて現れた、いわば恐怖の大魔王だった。 俺にはきっと向けられない、弱いものを守るための手。 そして、いつか、ゾロが使わなければならない手だ。 かっこ悪いから一生言わないし、言いたくないけど、 ゾロがすべてだった弱虫の俺は、 弱虫のまま、 新潟から逃げてきたように今度はまた東京から逃げ出すのだ。 それでも、あの厨房は、弱虫な俺を受け入れてくれるような気がした。 並んで敷かれた布団に、並んで横になった。 最後の、嵐のようなセックスを、と思っていたので、ゾロが一向に動かないのにじれて、 俺がやってやろうかしかたがないと起き上がる決意を固めたところで、指先に、ゾロの指先が触れるのを感じた。 そろり、そろり、と寄って来て、人に言えないくらい、世界一はずかしいようなことまでしたのに、 何度もしたのに、はじめて触れるみたいな手で、ゾロは俺の、手を握った。 そしてそのまま天井を見つめていた。 なにか言うのかな、と思っていたけど、なんにも言わないので、 じれてなんか言おうとしたところで、 あいつが、なあ、と言って、 だけどそのまま黙って、指先にだけ、力を入れてきた。 ゆるくていまにもほどけそうに、頼りない力だった。 なあ、ともう一度ゾロが言ったけれど、天井を見つめながら泣いていた俺は、 涙声を悟られるのがくやしくて、あんまり口を開けないまま、なに、と返事をした。 おやすみ、とそれだけ言って、ゾロが目を閉じた気配がした。 涙で震える声を悟られないために、ささやくように、俺もおやすみを言った。 そしてあたたかくきいろい夢を見た。 ゾロにとっての、俺が、こんなふうな色と温度をしていればいいと夢の中で俺は思った。 翌朝、アド街っく天国で紹介されていたとろろそばのお店に行った。 座ったテーブルからは水をたっぷり含んだ隅田川とはまるで違う、 石がごろごろ転がる川が見えて、ゾロはずっと黙ってて、たまに俺の手を握ってきたりした。 家族連れや初老のカップルが、入れ替わり立ち代り店へ入ってくる。 「おま、顔、赤、」 ずっと喋らなかったゾロが口をきいたと思えばそれだ。 黙って食えよ。うるせえ、知ってるよ。 言いたかったけれど言葉にならなかった。 とろろで、体中が痒くて、掻き毟るたびに、涙が出た。 痒くて、痒くて、泣きながら、とろろそばを食べた。 涙とそばをかっ込んでいる間、 威勢のいい女将さんの声がずっとやまずに聞こえていて、少し元気が出た。 それは俺が食べ物屋にかけられた、美しい呪いだ。 箱根の駅で、さよならをした。 ぎゅっと手を握って、なにか言いたそうに、ゾロは俺の目を覗き込んだ。 でもなにも言わずに、ぎゅっと、何度も手を握った。 ロマンスカーに乗り込んだあいつを見送って、猫に供えるために、干物を1枚買った。 そしてそれが最後だった。 御曹司だ、言わば。たぶん。 なのになぜ蹴られたり殴られたりしているのだ俺は。 と思ったけれど、居場所を、思い出したような気がして、やっぱり海が、 どうしようもない土地だったけれど、荒ぶる海が、変わりなく、波の音を聞きながら、少し泣いた。 このごろの俺は泣いてばかりだ。 伊勢エビを捌いては、ある夏のはじめの出来事を思い出し、 プリンを見ればあの大きな口を思い出し、鮭を見れば、猫の鳴き声と、 そのあまりで茶漬けを強請る甘ったれた声を思い出すので、まるで拷問のようだった。 客や近所の若い女の子や、行きつけになったの飲み屋でちょっともてたりもした。 だけど俺の心の容量は案外少なくて、猫とゾロとジジイとナミさんと、行ってしまったけれど 大切な人々それだけでぱんぱんにふくれ上がってしまうのだ。 だから、もう、これだけで充分なのだと思う。 それだけで生きていける。 花火のことを、たまに思い出した。 隅田川の花火は、とても大きく、美しかった。 花火大会といえば、江ノ島と山下公園だったゾロが、 イタリア山庭園から花火を見ているとスタジアムから流れてくる歌のことを言っていた。 その年横浜スタジアムでライブをやっていたのはグローブで、 花火を見ている人々の耳に、ケイコの歌声が流れてきたのだ。 どこまでもかぎりなくふりつもるゆきとあなたへのおもい、とケイコは甲高い声で歌っていた。 夏に冬かよ、とか、コムロなんかべつ好きじゃねーし、とかいろいろあったんだけど、 妙にじんときて、花火がどかん、って上がって、だからあの歌と花火は、 俺の中でセットになっちゃってんだよな、と、似てないケイコの物まねをしたあとでゾロが笑った。 そして隅田川にも花火が上がり、聞こえないはずの、ケイコの声が聞こえた。 花火は遠くで上がるから、その距離のせいと、あっという間に終わってしまうせいで、 たったいまでも、過去の出来事であるという色合いが濃くて、なのに綺麗すぎて、 だから、せつないような気がするんだよねえ、とシャンクスが昔に言っていた。 そのことを伝えると、ゾロは、うんうん、と頷きながら、ビールをあおり、 どこまでもかぎりないものがないことを知っている俺は、そのとき本当に、悲しかった。 夜中に、なんとなく、思い出して、冷蔵庫の中のうめぼしを口に含んだ。 すっぱくて、涙が出た。 ゾロが、熱帯アジアのあの屋台で、とうがらしをまるごと食べて、 あまりの辛さに泣いていたことを思い出し、笑った。 止まんねえ、つって、馬鹿みたいに泣いてたっけ。 笑っているのに涙が出て、口の中はすっぱかった。 巨大な台所はしんと静まり返っていた。 俺の居場所はここだ。 きっとここが帰るべき場所だったのだ。 涙のせいで、うめぼしの塩分がやたら高まり、俺は、 少し血圧のことを気にするつもりになって、意味もなく脈拍を測ってみたりした。 平穏に、変わりなく、血は体中を巡っていた。 マリーゴールドの花束を抱えてゾロが店の前に立っている。 パティとカルネと飲み屋へ行こうとコートを羽織ってマフラーをぐるぐる巻きにした俺は、 その姿を見て、呆然と立ち尽くし、言葉もなく黄色い花に見とれてしまった。 こちらへ歩み寄ってきた彼が、花を毟り、3つまとめて口に放り込み、眉間に皺を寄せながら、咀嚼する。 いつもプリンを噛まずに飲み込んでいたでかい口で。 そしていつも猫を撫でていた、大きな手のひらで花束を掴んでいた。 全部が俺の知っていて、なにひとつ、変わらない、そのままのゾロだった。 なあ、俺も、あのときからずっと変わってないよ。 おまえと指相撲したときから、 おまえにキキとララの話をしたときから、バンコクから電話をかけたあのときから。 でもすり減っていくんだ。 すり減ってすり減って、きれいにきれいに包んでしまいこんだ、 あのときの気持ちまでいつか到達してしまうんじゃないかと思うとこわかったんだ。 あの気持ちまですり減ってしまったら、俺は、どうしたらいいと思う。 なあ、ゾロ。 ほんとうはなにひとつ、変わっていないそれが、変わっていくのがこわいんだ。 田舎道には街灯はほとんどなく、だから月島の夜よりもっともっと暗かった。 咀嚼し終わったゾロは、インドじゃこの花を食って、男が女にプロポーズするらしい、そう言って、 そんなの知らねえ、聞いたことねえ、作ってんじゃねえぞ、妖怪花食いマリーモ、と俺は思い、 東京の空よりもっと、星は夜空に瞬いて、月はずっと青白い光を放っていた。 「これはもう立派なプロポーズだ。観念しろ、ハゲオ」 ゾロの言葉に、パティとカルネの、冷やかす声がする。 「猫の墓にもおなじ花を置いてきた。種も植えた。 きっとそのうちあそこはきいろでいっぱいになるに違いない」 笑う口元に黄色い花びらが付いていた。 「誰がハゲオだ、クソデコ」 そう言って目を覚ました。 厨房のほうからは、もう賑やかな声が聞こえている。 朝の光のなかでぼんやりと、 ビビちゃんのお腹を撫でたあの手が、 誰かをおなじように慈しんでくれてれば良いと思った。 終わり