終わる恋じゃねえだろ

 

 

 

 

 

 

サンジの口元にアジのたたきのシソがくっ付いている。

顎をしゃくって、ん、と言うと、ん、と首をかしげるので、

唇のところを指して、ん、と繰り返すと、ん、と気付いたサンジは、指でそれを拭い取った。

最近、ずっとそんなかんじだ。

すべて、ん、だけで済んでしまう。

 

平日の江ノ島は人がいない。

サンジと出会って、3年目、日々はすべて、滞りなく。

磯臭い道路を歩きながら海を眺める横顔は、すこし遠い。

物思いにふける横顔、けして人を踏み込ませない、きつさ。

みやげ物のでっかい貝を見て、海辺の街にはどこだってこれが置いてある、と笑った。

なだらかな坂、陽射しは上から降りてくる。

Tシャツの裾が、髪が、時折吹く風に揺れる。

「がっこサボって来たりした?」

「こっちまでは来ねえよ、せいぜい向こうの海岸どまりだ。」

「海、見てた?」

「雲見てた。サーファーばっかでうぜえし。」

「つまんねえのー。」

「なにが。」

「おまえも見てりゃよかったのに、海。」

「イカ焼き食うか?」

「焼き鳥食いてえな。」

エスカレーターに乗る手前に猫に会う。

シマシマの猫。

「猫。」

「家に帰れば黒いのがいるだろ。」

サンジの膝に抱かれる猫は我が物顔で、目を閉じる。

くたん、となった猫、猫の頭を撫でるサンジの、うつむく横顔。

「サンジ。」

「え?」

「行くぞ。」

猫のその顔も、見つめる眼差しも、

いつもそうやって、俺はいるんじゃないかって、おまえはそういう顔をしているじゃないかって、

育った土地の懐かしい場所でそういう場面を見ることになるなんて、そう思ったら

小さい頃にぎゃー、とか、わー、とか、声を上げて庭を駆け回ったことを思い出した。

言葉を持たない子供が、声を上げて、ただ感情を拙く表現するその方法。

いまだに俺はあれよりうまいやり方を学んでいない。

そこに居るのが、うれしいのかせつないのかかなしいのかいとおしいのか

そのすべてなのか、わからないまま、腹の底から、あー、と思う。

あー、あー、あー。

マイクのテストみたいに思いながら、笑う顔を見た。

植物園の脇の売店、海は遠く、銀色に光りを反射させ、まぶしいほどに輝く。

「キラキラしてて、精一杯で、剥き出しで、じれったくて。」

唐突にサンジが口を開く。

日に透けて、その髪は金の色をしている。

咥えられた煙草から煙が流れてこちらへやってくる。

ぼうぼうに草の生えた崖っぷち。

カモメが空を飛び、雲が千切れる風が吹く。

「なにが?」

「って思うのかな、って。そう考えると、なーんか、どうでもいい一日なのに、

地団駄踏みたくなるくらいになっちゃってさー、脳がヤバイ物質放出しちゃってるかんじ。」

残暑の陽射しは、海と草とサンジの姿を照らし、

ただ立っているだけでじわりと汗の浮いてくる暑さの風に乗って大きくカモメが旋回する。

うらぶれた売店には人気がなく、見捨てられたようにしてある乗り物は色あせて、

小さな頃はもっと特別でわくわくするような場所だったのに、ここはもう、こんなに小さく狭く、

時代の名残を残して、肩を寄せ合うようにして、静かに誰かを待つばかりだ。

「・・・あとでいいとこ連れてってやるよ。」

 

 

神社の境内を抜け、松の木の生えるけもの道を歩く。

木に遮られ、陽射しはここまで届いてはこない。

汗はすう、と引いていき、足の下で小枝がぽきり、と音を立てた。

幼い頃、ここはいつも祭りの場所、そして特別な場所だった。

祭りになれば人が溢れ、祭囃子が鳴り響き、うきうきと浮き足立つ気持ちを押さえ切れず、踏み込む。

そこから一歩抜け出せば、誰もいない、静かな場所。

秘密の池。

幼馴染と自分の、思い出の場所。

キスをして、手を握って、ああいま自分はなんと幸せだろう、と思ったら

泣けてしまいそうになり、誤魔化す為にまたキスをした。

遠くには祭囃子。

懐かしく、遠い日々。

「なに、ここ。」

「池。」

「見りゃわかる。」

そこだけぽつりと空洞になったような場所。

遮られない陽射しがふたたびふたりを照らし出す。

足元の苔の生えた石を見てサンジは、おまえの頭に似てる、形とか、色とか、そう言って撫でた。

「おまえ小吉?」

「うっせえな、大吉がなんだよ。ムカツクよな。くじ運悪いんだよ昔から俺。」

「でも。」

「あ、鯉だ。」

「このくじは当たりだっただろ。」

触れるだけのキス。

閉じられることのない瞼。

「目ぇ閉じろよ。」

「おまえが閉じろ。」

「おまえが閉じろよ。」

「喧嘩売ってんのか、てめえ。」

「ビール臭えんだよ、近くで喋んな。」

 

 

男同士でどうすればいいのかなんてふたりとも知らなかった。

知っていたのは突っ込むアナはひとつだけ、ってこと、それだけだ。

どっちでもいいけど、と言って、変な顔で笑い、

指相撲で決めねえか、とサンジは、俺の手を握り込んだ。

体温の低い、白い手、長い指、ごつごつと骨の浮くそれ。

勝負なんて見えていたのに。

そう思ってはじめて、自分が思っているよりずっと、サンジは俺が好きなのか、とうぬぼれた。

白い指を握り込んで、黙ったまま、じっとした。

じっとして、そして、それから、握った手のまま、キスを、何度も、何度も、いたるところに、したのだ。

痛い、入らない、どうしてだろう、どうしてそういうふうに出来ていないんだろう、そう言って泣くサンジは、

擦っていい、ゾロので、擦ってもいい?と俺の足の上に乗って、ゆるく、戸惑いがちに、擦り始めた。

ゆるく戸惑いがちだったその動きが激しくなるにつれ、熱に、想いに、存在に、

すべてに押しつぶされそうな、そんな気持ちがどこからかやってきて、やがてそれは静かに破裂し、涙となった。

すべてを吐き出したあと、恐かったんでちゅか、もう大丈夫でちゅよ、と、

俺の頭を撫でながらサンジは、ふざけたことを言って、涙のあとの残る顔のままで、口元を歪めた。

きっと、笑ってみせたかったんだろうと思う。

けれどそれは失敗に終わり、歪んだ口元から聞こえてきたのは嗚咽だった。

人があんなふうに泣くのを、俺は、はじめて、見たような気が、した。

 

 

 

 

頭のてっぺんを、太陽が照らし、熱を持つ。

手のひらに汗を掻くそのたびにTシャツで拭い、笑う。

9月の海を眺めながら手を繋ぎ草の匂いを嗅いだ。

「祭りっていつ?」

「夏。」

「じゃあもう終わったな。」

「来年があるだろ。」

「来年も小吉だったらやってらんねー。」

「引かなけりゃいいだろ。」

「引かずにはいられねえんだよ。」

「だいたい紙切れ一枚に人生左右されてたまるかよ。」

「それ言ったら婚姻届も離婚届も紙切れだろ。」

「紙切れっつーより言葉の力だな。」

「言葉はなんでも限定するから。」

「馬鹿馬鹿しい。」

「海老の塩焼き食いてえ。」

「海老は塩に限るよな。」

「な。」

「目玉焼きには醤油だし。」

「えー、俺、塩コショウ。」

「醤油だろ。」

「待ち人は塩コショウ派だといいなあ。」

「どこに書いてあったんだよそんなこと。」

たとえば、日々はこんなふうに。

光り、揺れ、触れる体温は、震えて落ちる。

 

 

 

 

ベランダから夕日は赤く燃えるように広がって行く。

ベットのマットレスを運び込んで、裸で寝転がる。

「夏も終わりだな。」

「来年もバーベキューやろう。」

このあいだの日曜日、よく晴れた午後、

ビビとルフィと、サンジと、俺と、4人でここで肉と野菜と海老を焼いて食った。

ビールをさんざん飲んだあとに、ビビが、サンジさんて、思ってたより

ずっとつまんない人だった、と言ってサンジはそれに少しだけむっとしていた。

つまんない人だったけど、きっとそれはあたしにとってで、彼にとっては、違うのね、

あたしにはわかんないわ、でも、知りたくもないし、と笑って、

サンジは、ビビちゃんひでえなあ、なんて言いながら苦笑いをした。

ルフィは、肉、肉、と無意味な叫び声を上げながら肉を食い、酔っ払った挙句、

どうしても川で泳ぎたい、と大暴れし、皆で必死に止めた。

「なあスネ毛焼いたことある?」

煙を吐きながらサンジはライターをカチカチとやって見せる。

「ねえよ。」

「焦げるとな、すっげ変な匂いすんの。

昔それにはまってさ、焼きまくったら足ツルツルになっちゃったことあんだけど。」

「アホだろ。」

「向かいのビルとかから丸見えかな。」

「こっから見えないんじゃ向こうからも無理だろ。」

ライターの火が足に近づき、ちり、と小さな音がして毛が焦げた。

「っ、あっちぃ。」

「熱くねえって、燃えてんのは毛だけだもん。」

「臭え・・。」

「つっか、1度言いたかったんだけどさー、おまえなかなかイかないだろ?

だからさ、俺顎は痛いわ、自分のヨダレ臭いわ、で大変なのよ、知ってる?」

「コロナってどうにも日本の気候にゃ合わねえよな。」

ライムを絞ったビールを飲む。

薄い味は、この時間にも、季節にも、似合わない。

「困ってるんです。大変なんです。」

「湿気のせいかな。」

「あー、マッパだと開放的になるよなー。屋根もないし。」

「テレビ持ち出せるようにしてえな。」

ポータブルレコードプレイヤーから流れるのは、夕暮れすぎの、ソウルミュージック。

「ここで踊ったらさすがにヤバイかな。」

そう言うサンジの頭は丸く、赤ん坊のように小さい。

どれほどきつい表情をしていても、頼りなさそうなのはもしかすると、このせいなのかもしれない。

「片手で掴めそうだよな。」

「おまえつむじが2つあんのな。」

「脳みそ入ってねえんだろうな、気の毒に。」

「この黄昏っぷりもどうかと思うよな。」

「イイ具合に丸いし。」

「しかも男ふたりで。五臓六腑にまで鳥肌もんだな。」

頭をぐりぐりと撫でると、その目を細めて、サンジは猫のようにくたん、と

マットレスの上に寝転がり、きくらげはその横でへにゃり、と丸くなる。

「さよなら僕らのサマー。」

夕日はいまちょうどビルの向こうへと沈むところだ。

少しずつ、季節は秋へと近づいていく。

川からは涼しい風が吹く。

「秋には落ち葉を踏んで、どんぐりを拾おう。」

サンジの白いケツが夕日に染まりオレンジ色をして、背中の産毛は金の色に輝いた。

 

 

終わり