レイモンサアワァ(下) サンジがタイに行って4日目、見知らぬガキが家に尋ねてきた。 虫アミを持って野山をかけまわりそうなそいつは、 Tシャツに半パンでガキくさい顔をしているくせに、 その笑顔が、柔らかいとかんじさせるのに、こちらを見る眼孔がやけに鋭かった。 「マキノんちの帰りに寄ろうかな、と思って、わり、来てから思い出した。サンジいないんだよな。」 玄関先でそいつはそう言って、酔っ払いの土産のような鮨折りを寄越し、 ウニばっかだぞ、今日中に食べろよ、と、これまたガキくさい顔で笑った。 「誰だよ、おまえ。」 「知らねえの?俺はおまえのこと知ってるけどな。」 「名乗れよ。」 「ルフィ。モンキー・D・ルフィ。なあ、そこどけよ。」 「名前のほかに言うことあるだろ。」 「おお、そうだ、お邪魔します。」 「違えよ。おまえはサンジの、なんだよ。」 「友達だ。」 「・・・・どんな。」 「どんな?」 「そう、どんなだよ。」 ひどくイライラした。 それは俺がこの世で1番憎んでいる言葉なんだよ、わかってんのか、ガキ。 「友達にどんなってあんのか?」 「あんだろ。」 「ねえよ。」 「例えば、学校の、とか。そういうの、あんだろ。」 「ゾロ、おまえ、馬鹿だな。」 ガキは笑い、草履を脱ぐ。 「初対面のガキに馬鹿呼ばわりされる覚えはねえぞ。」 リビングへ乗り込み、相手を心底馬鹿にしたような顔で振り向いて、そいつが言った。 「関係に名前つけたところでなんか変わるのか?」 「あ?」 「変わんねえだろ?」 「はあ?」 「名前なんてなんだっていいじゃんか。 俺はサンジが好きだし、サンジも俺が好きだ。そういうことだろ? それに適当に名前つけてみたんだ、誰かがさ、友達って、そう言い出しただけで。 なんだっていいじゃねえか、ほんとはさ。おまえ馬鹿だな、ゾロ。」 ―たとえば たとえば、そこにドアがあるのは、誰かがそれにドアと名前をつけたからであって、 ドアにドアと名前が付いていなければ、ドアなんて、存在しないのだ。 便宜上、ドアと呼ぶことにした、、四角い、部屋を区切るモノ。 では、この感情は、あいつの言う、あれは。 友情という名を与えられた、不確かな、その感情、あれは。 おまえの、それは。 冗談じゃねえぞ、なあ、サンジ。 その感情のその名前。 名前は俺が、付けてやる。 「おまえ。」 ガキはいつのまにかそこへとやって来たきくらげを抱き、 楽しそうに、にゃーにゃー、言い合っていた。 「ん?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・おまえ、猫好きか?」 フロントから電話をかけると、相変わらずアホそうな声が、受話器からした。 「おまえ、そんなにマンゴープリンが好きだったのか。」 「まあな。」 「プリンマニア恐るべし、だな。」 「プリンのいいところはな、噛まずに飲み込めるとこだ、知ってるか。」 「横着もいいとこだな。」 「噛まずに飲み込んで、つるっと喉を抜けるときの感覚が、最高だ。」 「プリンについての講釈ならあとで聞くよ。とりあえずそこで待ってろ、すぐ行くから。」 「いや、おまえ、こういうときは部屋に上がってきて、待ってる、とか言うだろ。」 「いいからそこで待ってろ。じゃあな。」 スコールにはまだほんの少しだけ遠い時間、日はじりじりと照り、 絡みつくような湿気を含んだ暑い空気から隔てられた静かなロビー。 見渡すそこにはジャングルの奥地に生えているような植物が丁寧にアレンジされて飾られていた。 贅沢なリゾートホテルといった趣のこの場所には、新婚カップル、もしくは熟年夫婦しか、見当たらない。 そんなふうにぼんやりしていると、いきなり、 鼻の頭と頬骨あたりを赤くしたサンジにビーサンで背中から思いきり、蹴られた。 「いってえ。」 「死ね、ボケ、猫はどうした。」 「ルフィに預けた。」 「はあ?」 「まあいろいろとあってな。」 「なにがいろいろだ、アホミドリ。軽々来てんじゃねえよ。てめえはいつまで学生気分でいるつもりだ、ああ?」 「有休ってのはじめて使ったな、そういえば。」 「それに、だ。来るなら来るで電話とかしろよ、てめえ。・・・・・あやまれ。」 「なにを。」 「いろんなこと。いきなり来たりとか、きくらげ置いてきぼりにしたりとか。 おまえが、いるから、きくらげ置いて来れたんだろうが。あやまれよ、セガワエイコの物まねであやまれ。」 「・・・・・ご」 「アホか、言ってみただけだろ、ぶあーか。」 「・・・・おまえのほうこそわけわかんねえよ。」 「俺が、部屋にいなかったら。・・・・どうするつもりだったんだよ、アホ。」 「レーダー付いてるから。」 「・・迷子のくせに生意気なんだよ。」 「なあ、サンジ。」 「なんだよ。」 「プリン食いてえ。」 キチガイのようなクラクションの音が響く大通りを歩いた。 みやげもの屋からはでかい音でビートルズが流れる。 ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ、アー、アー 風が吹くたび、車が通る度、砂っぽい埃を舞い上げる。 咳き込むと、サンジが振り向いて、笑った。 「スコール来るかなあ。」 向こうの空を見上げてサンジが言う。 屋台の屋根が和らげるその陽射しに照らされてレモンサワーのグラスが緑色に光り、 わけのわからない言葉が飛び交い、日に焼けて、強く、 そしてほんの少しきつい表情をしたサンジの顔が、その孤独を浮き上がらせる。 異国の地でひとり、立つこと。 すべてのことから、その身を守るようにして、居ること。 あの部屋にいるときは曖昧になってしまう、その内側が嫌になるほど伝わる顔だった。 「バケツをひっくり返したようなって表現、そのまんま。ホテルの部屋に居たりなんかしたらもう ここから出て行くことなんて出来ないんじゃないかって思う。そんくらいヤバイ。」 テーブルは油でギトギトとしていて、赤い色が黒っぽく変色している。 ヤキソバの上の香草をよけると、サンジがそれを摘んで食った。 ちゃちな小さい椅子は、体を動かす度にギシギシ鳴った。 サンジは炒めた米粒を食う。 「電話発明したやつは偉いよな。」 「おまえの頭じゃ死んだって無理だしな。よーく感謝しとけ。」 「おまえ、電話だと声違うよな。」 「そうか?」 「そうだよ、変なかんじ。」 「ホームシックだったんじゃねえの。」 「そうかも。なんか、おかしい。ずっと。 おかしくて眠れなくって、わかんなくって、電話とかして、なんか馬鹿みてえ、俺。」 「おまえの頭がヤバイのはいまさらだ。」 「でも、電話繋がった瞬間に、少し、わかった。なんでずっとおかしいのか、わかった。」 「なんでここマンゴープリン置いてねえんだよ。」 「なあ、ゾロ。」 「なに。」 「考えて、ずっと考えて、でもわかんなくて、でも、わかった。」 屋台のオヤジがこちらを見て旨いか?とジェスチャーをして寄越す。 サンジは笑い、親指を持ち上げてみせた。 「でさ、あんとき、ビデオみたとき、ずっと鳴ってた波の音が、遠くなって、それから、ふっ、って、聞こえなくなった。 電話がな、繋がって、おまえの声が聞こえて、そしたら、耳から離れなかったその音が、また、消えたんだ。」 「おまえ、」 「それで――。なあ、なんでもいいんだ、なんて呼べばいいかわかんないけど、」 「・・・・それ、」 なあ、おまえのそれは、体温を求めてるだけだろう? 他人の温かさを感じると人は、それだけで勘違い出来るようになってんだ。 便利だろ。 ましてや一緒に暮らしてたらもっと、だ。 しかも、おまえはいま、うまい具合にホームシックときてる。 なあ、俺はおまえが、好きだけど、おまえのそれは勘違いなんだよ。 頭悪りいな、ほんと。 いっぺん死んで来いよ。 そんなんだからつけこまれるんだよ、ナミみたいのに。 俺みたいのに。 だけど、そうだよ。 いっつも、追いかけてるのは、まぼろしだ。 つまんなくて死にそうに退屈で、そんななかの一瞬の空に舞い上がるような幸福を感じたくて、 そういうまぼろしを追って、手伸ばすんだろ、おまえだけじゃねえよ、みんな一緒だ。 一瞬のまぼろしに誤魔化されるために、生きてんだろ。 おまえのその体温とか、俺の体とか、そういうものが見せる夢んなかで泣くために。 それに、名前を付けるなら。 「・・・なあ、おまえが、ティンカーベルだったらさ、俺はきっとピーターパンだ。」 そう言うサンジの手元のレモンサワーのグラスが淡い色に光る。 光の具合とか、空気の馬鹿みたいな暑さとか、埃の立つ道路とか、 このうざいクラクションとか、そういうものが薄らいで、遠くに行ってしまっても、 一緒に居たいっていうのは、好きだって思うのは、これはきっと。 「俺がマリオだったらおまえはピーチ姫だし、キキだったらララだ。」 サンジが口に、緑色したものを入れて寄越す。 噛みついたとたん、痺れて、麻痺して、涙が冗談みたいに溢れた。 「なんだよこれ。」 「ここはおまえ、泣いておけよ。そういう場面なんだからさ。」 「辛え。死ぬ。」 「クライマックスには泣くもんだろ?」 「どんだけ力技なんだよ。」 馬鹿かてめえ、人生は映画じゃねえんだぞ。 続くんだ。 じいさんになって、日向ぼっこすんじゃねえのかよ。 クライマックスには程遠いぞ、アホが。 「なあ、そういうふうに配置されちまってんだ。もう、どうしようもねえ。」 淡い色に光るグラスが手渡される。 だけど、レモンサワーの味なんてしなかった。 舌も、目も、自分のものじゃないみたいにぶっこわれて、どうしようもなかった。 「神様なんかにゃ逆らえねえ。あきらめろ。」 ボロボロ涙をこぼす俺を見てサンジがおかしそうに笑う。 ビーサンの足をバタバタさせて、クラクションは街中に響く。 「・・・こっちはとっくに降参してんだ、ボケ。」 「おまえいま世界一情けない面してる。ここが外国でほんと良かったな。」 どうして俺はこうなんだろう。 馬鹿みたいにただ泣くことしか出来ない。 映画なら、これが映画のクライマックスなら、ヒーローはとびきりのセリフを言ったりするんだろう。 君が望むなら、僕は愛を惜しみなく― だけどこれは現実で、涙腺はぶっこわれ、なにも言えず、なすすべもなく、俺は涙を流すばかりだ。 かっこ悪りい。 こんなクライマックスなんか、冗談じゃねえ。 「とまんねえ。」 「・・・なあ、これを、なんて呼んでもかまわないから。」 「涙腺ぶっこわれた。」 「一緒に居てよ。ジジイになるまで。そうしたら、なあ、ゾロ。」 陽に照らされて、サンジが、髪を光らせる。 いつか、じいさんになったそのときには、遠いこの日を、この光を、 ギトギトに汚れたテーブルを、ギシギシ鳴る椅子を、ビーサンの足を、 グラスに浮く、スライスされたレモンを、思い出しては懐かしく思うんだろうか。 あれが、分岐点だったんだなんて、思うんだろうか。 名前なんか、重要じゃない。 名前なんか、どうだっていいんだ、もう。 なあ、サンジ、おまえアホだから、俺がいなかったら、 絶対またナミみたいのにだまされて、その度泣くんだ。 そして、ひとりぼっちみたいな顔をして、踊るんだ。 ガスレンジを磨いたり、するんだよ。 そんなの許せねえだろ、どう考えても。 名前なんかもう、どうだっていい。 俺が、そう思って、おまえがそんなふうでいれば、どうだっていい。 勝手に呼べ。 そして、辛くなったら、呼べ。 俺を、呼べよ。 そういうふうに配置されてんだろ。 逆らえねえんだ、仕方ねえ。 涙でぐちゃぐちゃになった目に、グラスんなかの氷がダイヤみたいに、見えた。 そして、ぽつり、と音が鳴る。 「なあ、ゾロ。」 顔を上げると、とたんに土砂降りの雨が降り出した。 「あ。」 「すっげえ。」 スコール。いまから世界は、水に浸される。 水浸しの世界に飛び込んで、泥だらけになっても、 一緒なら、笑っていられると思うんだ、言いたかったけど、言わなかった。 この雨じゃなにを喋ったって、うまく伝わりっこない。 それにこれはクライマックスじゃない。 俺は、ヒーローじゃない。 「走れ。」 「どうしよう、やっべえ。」 轟音の雨の中で、サンジが怒鳴るみたいな声で言った。 涙はまだ止まらない。 「なにが。」 「俺の部屋、ベッドが天蓋付きなんだけど。」 「そりゃやべえ。」 道路には、雨の音にさえかき消されることのないクラクションの音が響き渡り、 人々と車の間を縫うように、大きく水飛沫を上げながら、走る。 ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ、アー、アー 俺がジョンだったら、おまえはヨーコだな、みやげもの屋の前を通りぬけながらサンジが大声で叫んだ。 繋がれた手が雨のせいでぬるぬるとして、ほどけそうになるのをきつくきつく握り締め、 唐辛子で痺れた舌と、ひりひり痛む唇と、どうしようもならない涙腺が 朦朧とさせる視界の中を、天蓋付きのベッドのある部屋まで、水浸しの世界をひたすらに、走り続けた。 おわり