レイモンサアワァ(上)

 

 

 

 

 

 

あ、起きてた?じゃあさ、街道沿いのあそこのマックに来てよ、暇だろ、どうせ、とサンジが電話口で言った。

昨日サンジは、家に帰って来なかった。

ちょうど今レストランの内装を一任されていて忙しいサンジは、俺のことは頭の隅にもないようなそぶりで

仕事に没頭しているので、ここしばらくあいつの作り置きの冷めた飯をひとりでレンジで温めて食べる、ということが続いている。

そんなふうに食べる飯がとてつもなくまずいことを、この年になってはじめて知った。

いままではそんなこと、気にしたこともなかった。大差なんてないと思っていたのだ。

くつろげる空間ていうのを作るのがうまいって、それが俺の長所だって、そう言われたから、

自分じゃわかんないんだけど、でも飯を食う空間に流れる空気をどんなふうにしてやったら

人は心地がいいのかっていうのはわかるんだ、肌でとかいうと天才くさいけど、でもそんなかんじ、

いますっごい楽しい、人生で1番ていってもいいくらい、そんなふうに笑うサンジに、

さみしいようってきくらげが言ってたぞ、とか、人の飯より俺と猫の飯も心配しろよ、うちの雰囲気は最悪だぞ馬鹿、とか、

そういうことを言ってやりたかったけれど、サンジのその楽しそうな顔には、どうしたって勝てなかった。

 

 

「ゾロ。こっち。」

窓際の席から声がして、白い手がふわらふわらと振られる。

「ひさしぶり。」

席につくとサンジはそう言って照れたような顔で笑った。

日曜の朝早い店には人気があまりなく、

窓の外のいつも渋滞している道路にさえ車は数えられるほどにしか走っていない。

ガラス越しに朝の光が差し込んで、その中を白い指に挟まれた煙草から煙が立ち上り、

伏せられた目を、まつげの影が覆う。寝癖のついた後ろ髪が跳ねていた。

「ひさしぶりって昨日会ってないだけだろ、顔見てないわけじゃねえし。」

「んー、でもひさしぶりってかんじする。しない?」

「する、けど。」

「朝マックって言ったらさーあ、パンケーキだって思って注文したんだけど、

気付いた、俺、ホットケーキが好きなんだよ。」

「呼び出しといて、それか。」

「だってパンケーキってうっすいだろ?だけどこういうのって厚くなきゃ嫌だろ?」

「知らねえよ。」

「だってさ、だってさ、パンケーキってな、ハチミツかけるとべちょべちょになんだよ。

べちょべちょなのが好きなんだけど、でも厚さが足らないから、べろべろになってダメなんだ。」

「・・・・おまえテンションおかしくねえか?」

「で、食べられなくて、だから、応援を呼ぼうかと思って。」

「俺にそれを食えと。」

「うん。」

「馬鹿か?」

「もったいないおばけが出たらどうすんだよ。」

「たたられて、死ね。」

「おまえこんな気持ちのいい日曜の朝にそれはねえだろ?ひどくねえ?」

「・・・もうすこしマシな理由を考えとけ、今度から。」

アホだな、と思った。アホで馬鹿だ。

パンケーキのおまけなんかついてなくても、呼び出されれば真夜中の2時でも駆けていくっつーんだよ、ボケ。

君にしてあげられること指折り数えてみたけれどまだ今も片手にさえ足りないくらい、って

風呂んなかで俺が歌ってんの、聞いたことあるだろうが、馬鹿め、ロマンスの神様あたりにたたられて死ね。

おおげさにため息をついて、目の前に差し出されたコーヒーのカップに口をつけ、

そういえば顔も洗ってこなかったな、と思いながら煮詰めたようなその黒い液体を胃に流し込んだ。

フォークに刺さったハチミツだらけのパンケーキが口元へと運ばれて、

口を開けると、ハチミツとバターの味が舌の上でゆっくりと、溶けた。

「うまい?」

「微妙。」

「俺さ。」

「なんだよ。」

「今度さ。」

考えるみたいに、視線が宙をただよった。

色の薄い目は、光に照らされて、なおさらその色を淡くする。

「1度に言えよ。」

「旅行とか行くんだけど。」

ふう、と唇から煙が吐き出され、伺うような目が、俺を見た。

イラッシャイマセー、という声がこちらまで聞こえ、

窓際の席はクーラーの寒過ぎる風と照りつける光の暑さで、体温の調節を狂わせる。

陽あたり良好。

リョウコウ、リョコウ、りょこう、ああ、旅行か、と連想ゲームみたいに考えた。

「どこに。」

「バンコック。」

「ふうん。」

「夕方のスコールのときなんて、世界中が水浸しで素晴らしいぞ、サンジくん、って、うちの馬鹿社長が。」

「社員旅行?」

「それがさ、こんどタイ料理のレストラン手がけるんだけど、最後のほうで行き詰まってて、

それで、サンジくん、現地に行ったことないでしょ、相手のほうに金出させるから行ってくれば、って馬鹿社長が。」

「ふうん。」

「飛行機落ちたらどうしよう。」

「死ぬだろう。」

「・・・ゾロ。」

「あ?」

「俺が死んだら。」

伏せられるまつげが影を作る。

パンケーキはあと1枚。

サンジが旅行に行く。

それはこいつの顔が見れない時間が続くということだ。

ソファーで口を半開きにして涎を垂らしてイビキをかくあのアホな寝顔もとうぶん見れないということになる。

「そうそう簡単に落ちてたまるかよ。」

そうだ、落ちてなんかみろ。

あのアホ面が一生見れないってことになるんだぞ、わかってんのかそのへん。

なんの権利があってアレを俺から取り上げることが出来るってんだよ。

そんな不幸は俺が取り除く、力ずくで、渾身の力をこめて、取り除いてやる。

やりかたなんて、知るか。

「・・・・・・・・きくらげをよろしくな。」

「てめえの飛行機俺が落とすぞハゲ。」

 

 

 

 

「おまえさ、マンゴープリンは好きか?」

出発の朝、サンジは難しい顔でそう言って、プリンでも、マンゴーは好きか、となおさら難しい顔をした。

プリンならなんでもいける、とこの世の終わりを待つようなその眉間の皺を指で伸ばしてやると、

やべえ、マンゴープリンってタイじゃなくて台湾かも、とぶつぶつ言いながら猫に別れの挨拶をした。

「いい子にしてるんだぞ。大丈夫だ、こいつがいるから、ひとりじゃねえよ。この先も、ずっと。」

今生の別れのような芝居がかった仕草で猫を腕に抱き、なごり惜しそうに頬擦りしてから、

サンジはでかいトランクとともに部屋を出て行った。

そういえば、俺にはなんの挨拶もなしだった、と気付いたのはその日の昼過ぎだ。

旅行慣れしていない荷物作りに、アホだなおまえ、と言いながら付き合ったせいの

眠い目を擦り、そう言えばあいつ、マンゴープリンの話しかしてねえよ、と

じゃんがらラーメン具全部入りを食いながら考えてせつなくなり、ついついゴマをふりすぎてしまった。

ラーメンの中のきくらげに猫を思い出し、こうなったらふたりで力強く生きていこうじゃねえか、

と汁に浮かぶ黒いものに語りかけ、不審な目を向けられた。

サンジはとうぶん、熱帯アジアの住人だ。

 

 

分岐点について、サンジが言ったのは朝方にふたりで映画を見た、そのときだ。

「分岐点ってあるだろ、人生の、でかかったり、ちいさかったり、そういうやつ。」

ふたりの体の間でクッションがつぶれて、こんなもんなしで

直接サンジの心臓の音を感じたりしてえなあ、と乙女っぽいことを考えながらその話を聞いた。

「俺の分岐点はさあ、たぶん、うちの馬鹿社長に会ったときだと思うんだ。」

サンジの髪からするココナッツの匂いに、そういえばこいつは

タピオカ入りココナッツミルクなどというおわったデザートが好きだったな、とか

どうでもいいことを思い出したりした。

俺は死亡宣告をされるそのときにもそういう間抜けなことを考えてしまうタイプかもしれない。

緊張のあまり、頭が逃げるのだ。目の前のことを考えるのを、頭が拒否するのだ。

「それが、けっこうでっかい分岐点だと思うんだけど、でもさ、ちっさいけど、

もーのすっげえちーーーーーっさいけど、おまえも、俺の、分岐点だと思う。」

小さいことをそんなに強調しなくてもいいだろう、などと思いながら、そうか、と呟くと、

ココナッツの匂いの頭が揺れて、直前まで泣いていたそのせいの鼻声が、言った。

「・・・・・笑うなよ。俺いまからすんげえこっぱずかしいこと言うぞ。」

そのとき天気予報を流すテレビからは、スパイスガールズが怒涛のごとく歌う歌が流れていた。

テルユワチューワンワッチューリリリリワーアワナアワナアワナアワナアワナリリリリリリワナジギジギッアー

「俺さ、おまえと、すっげえ、仲いい友達とかに、なりたい。

ジジイになっても川眺めながら茶飲むような。そういうのになりてえ。」

友達はいいもんだ 目と目でものが言えるんだ

小学校のとき学芸会で歌った曲が頭をかけまわった。

今、熱帯地域にいるあの馬鹿は、俺と友達になりたいらしい。

しかも、ものすごく仲のいい友達、親友ってやつだ。

 

寒気がする。