ソーダ水のみせる夢

 

 

 

 

喉が乾いて目を覚まし、キッチンへ行くとサンジがガスレンジを一心不乱に磨いていた。

サンジが落ち込むととる行動、その1、踊る、その2、磨く。

今夜はその2が実行されているらしい。

「よう。」

一心不乱に磨いていた手を止めて、サンジが振り向き、起こしちゃった?と鼻水をすすった。

「・・のど乾いて。」

「飲めば?」

サンジはときどきこうして挙動不審だ。

夜中にレンジを磨きながら泣く男というのもそうそういない。

「ビビちゃん、どうだった?」

「どうって別に。」

一休みするつもりなのか、手を洗い、顔まで洗い、サンジはキッチンタオルを掴み、

顎の先から雫をたらしながら、捨て猫みたいな目をして俺を見る。

置いて行くの?いいよ、どうせ、わかってるもん、捨てられたんだ、人間なんてそんなもんだよ、

いらなくなったら、置いて行くんでしょう、そんな目をしていた。

「別にってなんだよ。つまんねえな。」

「お台場の観覧車あるだろ、あれに乗りたいって言われてよ。」

「お台場。だっせえとこ行ってんな。あんなとこでなにすんだよ大体。」

「そう、することねえんだよ。で、観覧車だ。」

「ふうん。」

「それが敗因だったな。待ち時間長すぎて、雰囲気最悪。ディズニーランドとかぜってえ無理だって悟ったわ。」

「初デートなのに。」

「ああ、どうしようもねえな。」

「ビビちゃんかわいそう。」

「・・・・で、おまえは?なにがかわいそうで泣いてんだよ。」

聞いてはいけないような気もした。

人には踏み込んではいけない領分というものがある。

特に、俺と、サンジには。

同居人として、踏み込んでは行けない領分、地雷地帯。

それでも、いまは夜中だし、ここは薄暗い。

シンクのところの電球しか灯っていないキッチンは

秘密を打ち明けてもいいのではないかと思わせるそんな様子で、俺達の足場を不安定にする。

不安定にして。揺らす。そして、背中を押す。

「別に。なんとなく。意味もなく。」

なめらかにサンジはそう答え、泣いていたそぶりなど見せずに

冷蔵庫からラムネを取り出して寄越した。

「夏はラムネだろ、やっぱ。」

シンクの明かりに白い手とラムネの青い瓶が照らされて、夜中のキッチンを秘密めいた空気が取り囲む。

ダーリン ラムネを買ってきて ふたりで飲みましょ 散歩道 月が昇るまで

鼻歌を歌い、リビングへと移動するその背中に着いて、ソファーに腰掛けた。

明かりのないリビングはサンジを真っ黒な影にして、あっという間に秘密を覆い隠す。

観覧車を待つ間、雰囲気が悪かった、ビビが不機嫌になった、そのほんとうの理由は

俺が口を開く度にこいつの話題をしていたからだ。

サンジってやつが、ああ、一緒に住んでるやつなんだけど、そいつが。

言いながら俺はここにサンジがいればなあ、などとうわのそらで思っていた。

サンジがいれば、ばっかじゃねえの、こいつらほんと暇人だな、なめてんのか、観覧車ごときで2時間も待てるか、

だいたいあのパスタはなんだよ、アルデンテっていうのはここのシェフの辞書にはないらしいな、

あれで金取るなんて泥棒だぜ、泥棒、つーかこんなとこ来る意味あんのか、踊らされてねえか、

海辺に建ったアミューズメントがそんなに珍しいか、っていうかほんとに楽しいか、ばっかじゃねえ、ああイライラする、

早く帰ろうぜ、さっきのパスタなんか目じゃねえくらい美味いの食わせてやるからさ、きっとそんなふうに言って、

その言葉に笑いながら、さっさとあんな場所から退散することも出来たのに。

「ホテル・ニューハンプシャー。」

テレビの画面に照らされるサンジの顔は青白く、幽霊のようだ。

「いまから観たらおまえ。」

「いいんだよ、つーかいいから付き合え。」

ソファーに沈み込むサンジは、クッションを腹に抱え、挑むような目をして画面を見据える。

「映画ってさ、映画観るぞって観るとダメって気しない?」

画面を見据えたままでサンジが言う。

「夜中にさ、テレビつけたら偶然やってて、くだんねえなあと思ってついつい最後まで見ちゃって、

そしたら不覚にも感動しちゃって泣いちゃって、でもこれなんて映画だったんだろ、と思って、それくらいのほうがいいよなあ。」

ちらちらと揺れる明かりに照らされるサンジの横顔は相変わらず幽霊のようだ。

ソファーに乗せられた裸足の足が、手に当たり、その冷たい感触がしだいに自分の体温へと同化して行った。

幽霊のように生気のない温度が温まって行き、くっついたこの場所からどろどろと溶けて行ってしまえばいいのに、

正体なんてわからなくなるくらいに、と考えて、その考えに消え入りたいほどの羞恥を感じ、

それを誤魔化すようにラムネの瓶に口をつけた。

ときおりその足が思い出したようにぴくり、と震える。

気付かないふりをして、その体温に触れながらラムネを飲んだ。

ラムネの瓶は画面の明かりに青くきれいに光った。

映画は父親と母親の恋愛のエピソードから、始まり、カメラはそうして家族の歴史を追って行く。

姉に恋心を抱く弟に感情移入しすぎて辛かった。

ヤらせてあげる、と言われ浮かれホテルを走りまわる弟の、馬鹿な様子を見ながら不覚にも泣いてしまった。

たぶん、俺はサンジがいま、画面に照らされる幽霊の横顔で、ヤらせてあげてもいいけど、

と言ったら、もっと馬鹿みたいにはしゃぐだろう。

足取りなんてドクター中松のあの変な靴を履いたみたいに怪しくなるに違いない。

雲の上を歩くように、幸せな気持ちだろう。

たとえいまが雲に覆われてどんよりとした空が自分の真上に広がっているとしても、だ。

そのすべてが一瞬でどこかへ行ってしまうような気分になるだろう。

ラムネを飲みながら、好きだ、と思った。ラムネは昔とおなじラムネの味がして、

いつもずっと、幼い頃からもうずっとこうして眠れない夜には寄り添って

身を寄せ合って、ここまでやって来たような夢をラムネが見せた。

サンジの横顔はずっとちらちらと明かりに照らされ続ける。

馬鹿げたセックスシーンでも泣いた。

この男はなんて馬鹿なんだ、ヤったからってなにもかわらないだろう、すっきりして、ただそれだけだろう。

でもそれに囚われていたのならば解放されるにはこの方法しかなかったのだろう。

そう思ったらなおさら泣けた。

好きで、どうしようもなく、どうにもならないその気持ちが、痛いほどよくわかった。

それでも、俺がこいつと違うのは、一発ヤったらすっきりして、ふっきれるわけでは、

たぶん、ないという、そこだ。そこが、決定的に違う。

うらやましい。

姉弟ってたったそれだけの障害じゃねえか、ヤろうと思ったら簡単に穴にぶち込める。

ちくしょう、うらやましい。姉弟なんて障害のうちに入らねえよ、ちくしょう。

サンジは小さな妹が自殺するところで泣き、そして、最後のシーンで大泣きした。

泣きながら、言った。

「救われないはずなのに、やさしいよな、視点が、なんで、こんなに、やさしいんだろう。」

すべてを肯定して生きること、それには強さが必要だ。

諦めを、絶望に対するやるせなさを、それを感じたことがなければ身につかない種類の強さ。

サンジの目は、そういう種類の強さで光る。

白いし細い優男の風情に似合わないその目の強さが、好きだと思う。

そして、強さと弱さのつりあいのとれないその部分に惹かれるのだ、と思う。

あとづけで、考えた。

好きなんて、そんなものだ。はじめは、ただ入って来て、ストンと落ちて、

その後に脳みそが分析する。はじめの部分は心が感じる。

「こんなにやさしいんだから、きっと、いまなら許されることもあるような気がするんだけど。」

サンジが涙に濡れた顔のままで言った。

いつの間にか距離は縮まっていて、すぐそこに白い顔があって、驚き、

声を出そうとすると、白い手が伸びてきて、俺の髪をひとすじ掴んで引っ張った。

そのひとすじにすべての神経を集中させて、天気予報の画面に切り変わった

テレビの明かりに照らされるサンジの青白い顔を見た。

もうすぐ、夜が明ける。

抱き寄せるとサンジの抱えていたクッションが体のあいだで潰れた。

ひとすじの髪はまだ白い手に掴まれたままだ。

「なあ、なんで泣いたの?あの、姉ちゃんと弟のシーン。」

「おまえは、なんで泣いてたんだよ、キッチンで。」

「誰が言うかよ。」

「だったら俺も言わねえ。」

「言えよ。」

「おまえが言ったら言う。」

「ずりい。」

肩のところから、声がする。

サンジの体が弛緩しているのが、嬉しかった。

首筋からココナッツの匂いがして、風呂場にあるシャンプーの変な容器を思い出した。

ひとすじの髪から手が離され、そろそろと、背中にまわる。

沈黙のなかで、夜が明けるのをじっと待った。

朝になればきっとすべてはもとどおりだろう、サンジもそう思っているはずだった。

 

 

おわり