クレイマー・クレイマーにおける

フレンチトーストについての考察

 

 

 

 

伊勢海老が宅急便で届いた。

でかくて活きが良くて、生きている。

「焼く?茹でる?刺身にする?」

恐々と遠巻きに眺める猫と俺は、生まれてはじめての生きた伊勢海老に

なにを言えばわからなくて、黙ったままサンジの背中を見つめ、

焼いたのも茹でたのも刺身も実を言うと食ったことねえなあ、と思ったりしながら

それでも黙り続け、そして伊勢海老がカシカシカシカシからだを動かす音を聞いた。

「黙ってないでなんか言えよ。なにがいい?」

「なんでもいい。」

「なんでも・・んー、あっ、じゃあさあ、アレやっていい?」

「アレ?」

「アニー・ホール。」

「茹でるのか?」

「うん、ゾロ、海老掴め。カメラ持って来る。」

ウディ・アレンとそのガールフレンドがキッチンで海老と格闘するシーンを言っているのだろう、

サンジはルンルンと部屋からインスタントカメラを持ってきた。

「あ、お湯沸いてないじゃん。」

沸いてない、と言ってまず一枚。

ジー、と音がしてフィルムが機械から顔を出す。

「初夏の午後、ロロノア・ゾロ、キッチンで海老と遭遇。」

「なんだそれ。」

「タイトル。」

「長え。」

でかい鍋を火にかけて、午後のやわからい陽射しのさし込んでくる窓辺に寄りかかり

サンジはのんびりとパンを食う。

光のせいでその輪郭は曖昧になリ、白い肌がぼやけてその様子に、遠いなあ、と思った。

遠くて、せつない、なんてアホみたいに思う。

「おまえも食う?」

「なに。」

「フレンチトースト。」

「いらねえ。」

カメラを借りて、パンを食うサンジを撮った。

逆光で影にしかならないフィルムのなかの自分の姿を見て、サンジは笑い、さらにパンを食う。

「紅茶の。牛乳と食うとロイヤルミルクティー。」

「いらねえって。」

「あっそ。こうさ、ふたりで台所とか立ってると、クレイマー・クレイマーってかんじしない?」

フレームのなかのサンジはパンを食って、猫の背中を揉み、猫は鳴きながらその手から逃げようともがく。

「フレンチトーストが、だろ。」

フレーム越しに見つめて言った。

午後のキッチンに舞い込む陽射しは懐かしさを呼び起こす。

未来さえも懐かしい、そんな歌があったような気がした。

背中を揉む手からようやく逃げ出した猫は俺の足元でにゃー、にゃー、と鳴く。

「だってあの映画そこしか覚えてねえもん。」

「俺も。」

「あれは日本人にフレンチトーストへの憧れを植え付けただけの映画だったな。」

「離婚すんだっけ。」

「離婚しようとしてて調停じゃなかったか?」

「どっちにしろ覚えてねえな。」

「なー、おまえさー。映画っていったらなにが好き?心のベストテン第一位なに?」

「フライド・グリーン・トマト。」

「マジ?」

「おお。」

「俺も、俺も。泣くよな、あれ。」

「湖の話んとこでな。」

「あれは泣くよな。」

「話始める時点で泣くって身構えてても絶対泣く。」

「ニュー・シネマ・パラダイスは基本だろ?」

「キスシーンな、見え見えだけど、あれはとりあえず乗っかってくよな。」

「だよな。・・・・じゃあさ、じゃあさ、パリ・テキサスは?」

「ギター鳴ったとたんに条件反射で泣ける。」

「だろ?だろ?な、な、これは誰にも言ったことないんだけどさ、

リービング・ラスベガスは?好き?」

「死んだあと、庭出て行くだろ、あれが。」

「うっそ。マジで?俺も。ニコラス・ケイジなのが卑怯だよな。」

「北の国からとか、邦衛ってだけで泣くからな。」

「小津映画は?あの俳優。」

「やばいだろ。すでに映画として見てないもんな。」

「な。」

「じゃあさ、おまえ。」

「なに?」

「俺もこれあんま人に言ったことないんだけど。ジョイ・ラック・クラブ。」

「あれはティッシュひと箱いくだろ。」

「だよな。昔付き合ってた女にそれはないとか言われて。」

「それはおまえ別れて正解。」

「あれは泣くよな。号泣だろ?」

「当たり前じゃん。」

「だよなあ。」

「ゾロー、俺さ、いますげえ、おまえのこと好きかも。」

「なんで。」

「だって、すっげ好きなんだよ。」

「あー、うん。」

「俺さ、日本海方面だろ?」

「ああ。」

「でさ、宮本輝嫌いなくせに、幻の光だけはすっげえ、好きなわけよ。

映画は失敗だと思うけどな。エスミが大根で。」

「ふうん。」

「あの荒涼とした海の冷たさとか、海の遠くに見える光とか、

豊かじゃない土地の、しがらみについてだとか、すっげえわかるわけよ。

ほんと、うそじゃなくて心から。」

「うん。」

「で、あれも泣くの。」

「そう。」

「だけど、だあれもそれわかってくんなくて、

だから昔はよく、俺がもうひとりいたらよかったなあ、とか思ってたんだ。

ひとりっこだし、兄弟いないから、なおさらなんていうか、

一緒の感覚でおなじことを思えるやつがもうひとりいたらよかったのに、って。」

「ふうん。」

「ようするにさ、好きなもの一緒だとうれしくねえ?どうしようもなく、距離縮まるかんじしねえか?」

午後の陽射しに包まれる、逆光で表情のはっきりと見えないサンジ。

じれったいような気分になった。

「ウディ・アレンだったらやっぱり、ハンナとその姉妹だろ?」

「あの不倫する女だろ。」

「だよな。」

「みそ汁の具は。」

「大根とアゲ。」

「いまさ。」

「うん。」

「すっげえ愉快じゃねえ?」

「そうだな。」

「海老茹でるだろ。」

しゅんしゅんと湯が沸いて、サンジが海老を掴め、と促し、

この先の運命を知らぬ海老はカシカシカシカシヒゲを鳴らして暴れる。

蒸気が満ちる、光の満ちる、狭いキッチン。

使い込まれた鍋とか、磨き込まれたシンク、生活が繰り返された、その証拠。

「撮れよ、写真。」

「アニーぶって。」

フレームを覗き込むサンジはカシャカシャ音を立て

俺と海老の一生一度の瞬間をフィルムに収める。

「じゃ、アレンぶって。」

鍋のなかにはふつふつふつふつと湯が沸き立つ。

「なんか楽しいな。」

「そうだな。」

鍋に突っ込まれた海老は最後の悪あがきをし、湯があちらこちらに飛び散った。

フレーム越しにサンジが笑う。

「おまえが女だったら勢いまかせでスキとか言っちゃうくらいだわ。」

「残念だったな。」

普通の声を意識して、言った。

ほんとうに残念だ。

「まあ、そんなにうまくはいかねえか。」

サンジの声が少し落胆して聞こえるようなのも気のせいじゃなければいいのに。

「海老死んだ。」

「アーメン。」

鍋の中を覗き込んでサンジは十字を切った。

「美味いかな。」

「近海ものだぞ。」

味付けなしで美味いぞ、ほんとうの海老の味だ、

サンジは言って、鍋の中でくたりとなった海老をフィルムのなかに閉じ込める。

「ビール飲みてえな。」

「ベランダ゙に椅子出せよ。」

「見えるのはマンハッタンじゃなくて隅田川だけどな。」

「だってここはニューヨークじゃねえしなあ。」

「妥協しとくか。」

「そうそう。」

「赤くなってきた。いい塩梅じゃねえ。」

茹で上がった海老を持ち上げた。

「ほら。」

「フィルムねえぞ。」

「早いな。」

「フィルムもだけどさあ、愛って終わるんだなー。」

カメラの変わりに猫を抱きサンジがその毛に顔を摺り寄せて目を細める。

ひなたの匂い、小さく言う言葉に、懐かしいなあ、と今度はもっとはっきりと思う。

ずっとこうやって来たみたいだ、と。

ずっとこうやって続けて行くようだ、とせつなく思った。

「なんだよ急に。」

「ナミさんがさ。」

「まー、いいから飲め。」

皿に盛った海老を抱えて、ベランダへ続く窓を開けた。

後ろでビールと猫を抱えたサンジが言う。

「飲むぞ。」

「飲め。」

川はゆったりと流れ、ビルだらけのあまりにもそっけない風景がそこに続き、

日はゆっくりと傾きかけ、川の流れをオレンジ色に変えて行く。

「泣くぞ。」

にゃあ、と猫が鳴いて、ベランダの床の匂いをフンフンと嗅ぎまわる。

「え。」

「泣いてもいい?」

「・・・・あー、」

なんとなく途方にくれた気分でサンジを振りかえると、

オレンジ色に照らされながら、泣くと言ったのがウソみたいな顔で笑っていた。

「うっそ。」

「なんだよ。」

「食え。」

海老を指して、サンジがまだオレンジ色のままで笑う。

懐かしい、色、声、笑顔。

こういうものがずっと続いて行けばいいのに、

祈るみたいに思いながら、泣いてしまいそうになるのを堪えながら笑い返した。

こいつも泣けばいいのに。みっともなく泣けばいいのに。

「おう。」

「あ、夏っぽい。」

「匂い?」

「するだろ?」

「ああ。」

川からのゆるく生ぬるい風が吹いて来て、サンジの髪をそっと後ろへ流す。

影絵のようにになってしまった猫と、懐かしい笑顔と、

それらと一緒になってビルの向こうに沈む夕焼けを黙ったまま、見送った。

 

 

 

終わり