オレンジ

 

 

 

 

 

 

ドアを開けるとサンジがきくらげとへろへろのダンスを踊っていた。

ヘッドフォンを耳に当ててふにゃふにゃとサンジは体を動かし続け、

帰ってきた俺にも気付かずに、きくらげはそのまわりをうろうろうろとしている。

きくらげは俺に懐かない。

あなたヨソの人ですから、というなんともクールな態度なのに

飯のときだけはげんきんにも猫なで声で擦り寄ってくる。嫌な猫だ。

そのかわりサンジのことは大好きで、用もなくともうろうろとその傍を離れない。

その様子はまるで犬のようだ。猫なのに。

「ただいま。」

言ってみたが聞こえないようでへろへろと奇妙なリズムでサンジは目を瞑り体を動かし続け、

にゃー、にゃおーう、にゃおうん、きくらげも楽しそうにぐるぐるとサンジのまわりを回り続ける。

仕方なく目の前に立つと、やっとサンジは目を開け、そして、ぎゃー、と奇声を上げて後ずさった。

「ただいま。」

「びびった。マジ死ぬかと思った。心臓バクバクいってる。あー、びっくりした。」

しゃがみ込んだサンジが涙目で胸元を押さえながら眉毛をへにゃんとさせ、

きくらげは、にゃおー、と鳴きながらサンジの背中をカリカリと引っ掻く。

「悪い。」

「んー、おかえり。・・・シャンパン飲む?オレンジ絞る?」

きくらげを抱いて立ち上がるサンジの首に掛かったヘッドフォンからは音楽が流れつづけ、

けれどその音楽のリズムとはまるで反対にその声には覇気がなくうわのそらで、

頭の上に乗せられたきくらげだけが元気一杯でにゃーお、にゃーお、と鳴く。

「なんかあったのか?」

「別に。」

別に、と言いながらも、そっぽを向いたままこちらに葉書を手渡してよこした。

「おまえ宛て。」

「・・・結婚しました。」

「せつねえよなあ。旦那の顔がブサイクなのがもっとせつねえよなあ。」

頭の上のきくらげが、うん、と返事をするようなタイミングで、にゃお、と鳴いた。

「まー、あれだ。」

「なんだ。」

「早めに捨てられて良かっただろ。」

「なにがいいんだよ。つーか捨てられたとか言うな。はっきり言うな。泣いちゃうぞ。」

「最悪な女に引っかかって時間浪費するより良かったじゃねえか。」

「ナミさんの悪口は俺が許さねえぞ、コラ。」

「かばったってなんもいいことねえだろが。」

「いいこととかそういう問題じゃねえんだよ。・・・・なあ、前からずーーっと気になってたこと聞いてもいい?」

「なんだよ。」

「俺達って・・・・キョウダイ?」

下を向いてぼそぼそと喋るサンジの頭の上のきくらげは俺と目が合ったとたんに、ふわあ、とあくびをする。

「は?」

「おまえ、ナミさんとヤったことある?」

頭の上のきくらげが、にい、という笑ったみたいな顔になりサンジの馬鹿みたいな通訳がなくても

あからさまに馬鹿にされている気がして睨みつけるとふたたびのんびりとあくびをする。やはりこいつは嫌な猫だ。

「はっ、ばっかじゃねえの。くだんねえ。」

ナミはルームメイトだった女でサンジと付き合っていたくせにあっさり捨てて金持ちと結婚した。

夜逃げのようにしていなくなったナミの変わりにサンジがこの部屋へとやって来たことを考えれば

感謝はするが、ヤらせろと言ったら10万とか言い出しそうなあんな女とヤるような趣味は残念だが俺にはない。

サンジはナミに、ルームメイトは女だと教えられていたらしく、

男と住んでいたということに表面には出さないがけっこうなショックを受けているようで

ひとりの夜なんかにこうやってガツンと落ち込むと酔っ払ったあげくにへろへろダンスをする。

「くだんなくねえ、教えろよ。」

「ヤったことあったらなんだよ、てめえはさらに落ち込んでまた変なダンスでも踊るのか?」

「・・・・・・・体動かすと気持ちの浮上は早いぞ。」

なおん、とサンジの頭の上できくらげが鳴き、その尻尾が首のところに絡まって、猫の喉はぐるぐる鳴る。

「ねえよ。」

「なにが?」

「てめえが聞いたんだろ、ヤったことだよ。」

「そっか。」

「これで満足かよ。」

「多少。・・・ミモザ飲もうか。」

シャンパンの瓶を抱えてサンジが言う。

シャカシャカシャカシャカ、ヘッドフォンからはいまだに音楽が流れ

頭の上には猫がいる。その姿がなんだかとても間抜けっぽかった。

「茶漬けがいい。」

「なんで?飲んできたの?」

「接待だよ。」

「ふーん。」

「茶漬けくれ。」

「鮭でいい?」

「ああ。」

ナイターの結果をみるためにテレビをつけ、そちらを見ながら声だけで返事をすると、

返事くらいこっち見てしろ、と背中を蹴られた。

ごほごほ咳き込みながら、鮭でいい、その目を見て言う。

サンジの目の色は不思議な色をしている。

曇りの日の空の色だ。青と灰色の交じり合った色。日本人らしくない。

「ちょうど良かった。きくらげの残りの鮭があるんだよなー。」

サンジの実家は新潟で、ときどき宅急便で米が届く。

米は布袋に入っていて、その袋には極上魚沼米と判が押してある。

ビニール入りの米しか見たことのない俺にとってはかなりの衝撃だったが

サンジはアホ面のくせに坊ちゃん育ちらしく、ビニールに入れたら米が呼吸出来ないだろう、なんて言う。

生意気にも子猫のときからその米を食って育っているらしいきくらげなど、

サンジの留守にコンビニ弁当の米を与えてみたら、一口食って、っかー、と吐き出した。ほんとうに嫌な猫だ。

茶漬けの用意をするのに邪魔になったのか頭から降ろされたきくらげは

ガスレンジの横でサンジの白い手がひらひら動くのを一緒になって顔を動かしながら熱心に見つめる。

テレビを見ているふりをしながらひらひら舞う白い手をきくらげと同じように追い俺は、あー、なんて思う。

あー、というのは、あー、であって他に言いようがないので、あー、なのだ。

白いその手に、あー、と腹の底から思うのだ。

白い手の動きにしばし熱中していた馬鹿猫がおもむろにぶしゅっ、と茶漬けの碗に向けてクシャミをした。

「はいはい、きくらげ、オツユ飛ばしちゃだめねー。」

わざとやっているに違いない、確信しながらニュースの画面を見ているふりをし続けた。

 

同居する他人とうまくやっていくコツ、それは馴れ合わない、ということにつきる。

馴れ合わず、必要以上に関心を持たない。

他人であるということを自分自身に必要以上に言い聞かせることが大切だ。

ナミは1番はじめにこう言った。

「言っておくけど。」

いまにして思えばナミはいつも正しかった。

正しかったが、いつも自分中心で他人とけして馴れ合わず、

恋人にさえそんなふうだったせいでサンジは結局捨てられるはめになった。

「あたしのことを恋人候補として、ましてはセフレなんかの対象として見ないでちょうだい。

あたしたちはおなじ部屋に住む他人、それ以上でもそれ以下でもないわ。」

ナミの言うことは正しいが、俺はいま、サンジに必要以上の関心を持ち

馴れ合いたい、ぶっちゃけて言ってしまえばヤりたい、と思っている。

ルームメイトとしては失格だ。俺も、あいつも。あいつのせいではないにしろ。

 

「でさあ、そんときナミさんが言ったわけよ。」

「ああ、そ。」

「真面目に聞け。俺とナミさんの愛の物語、一大スペクタクルだぞ。」

「興味ねえもん。」

「つまんねえー。」

「つまんねえのはおまえの話だろ。」

「ひどーい。」

「うっせえな酔っ払い。」

「酔ってなんかねえよ。」

シャンパンにオレンジを絞って適当に混ぜて

世界一のミモザだと言いはるサンジはそれをごきゅごきゅ飲む。

ごきゅごきゅ飲むたびにこいつの喉がこきゅん、こきゅん、となるのを

ぼけっとアホのように見つめながら俺は日本一の米を使った茶漬けをすする。

夜中のシンとした気配が部屋のなかまで入り込んでくるようなこの時間帯には、

誰かと一緒にいるだけでその誰かとの距離がぎゅんと縮まるかんじがする。

夜が見せるまやかし、錯覚であっても俺はこの感じが好きだ。

口やかましくうるさい女だったナミのことをそれでも嫌いになれなかったのは、

こういう時間にテレビがないと間が持たないくせに

いつもなんとなくおなじようなタイミングで部屋から出てきて一緒に酒なんかを飲んでいたからだ、と思う。

オレンジを手で絞りサンジは、雫が目に入ったと言ってとうとつに泣き出す。

膝の上に眠ったきくらげを乗せたまま、なんだかものすごい勢いで泣き出した。

ぎゅ、ぎゅ、と目を擦るたびに、あー、もう、オレンジ、これ、やだ、うわごとみたいに言う。

ぐすんぐすん、と子供みたいに泣くサンジにどうしていいかわからなくなって、さっきまでは

平和な夜が続いていたはずなのに、と頭を抱えたくなる気持ちを堪えとりあえず、泣くな、と言ってみた。

「だって、オレンジが。」

どうやらそう言っているらしいがぐちゃぐちゃに泣きながらなのでよくわからない。

「ナミさんの髪もオレンジだったし。」

「目に染みて痛いし。」

「涙止まんないし。」

「なあ、このまま止まらなくて洪水になったらどうしよう。」

「部屋いっぱいに水がたまっちゃって。」

「そうしたらどうしよう。」

「逃げる?」

「おまえも、逃げる?」

「なあ、一緒に逃げようか。」

「それとも泳ぐ?」

「きくらげは猫かきが得意なんだ。」

酔っ払いの言葉はあちこちに飛びまわり、意味をなさない。

きくらげの黒い毛に涙はどんどん吸い込まれ、

泣くサンジをどうしたらいいかわからない俺をよそにテレビは今週のベストテン、なんて呑気なことを言っている。

「よし。」

「え?」

「わかった、踊れ。」

「・・・・なに言ってんの?」

「おら、馬鹿猫、おまえもだよ。」

猫をたたき起こし、でかいボリュームで音を鳴らした。

わけのわからない顔をしたきくらげとサンジ、大きなスピーカーから流れる、酔いどれダンスミュージック。

「踊れよ。」

「そんな言われて踊れるか、アホ。」

「酔っ払いのくせに照れてんじゃねえよ、バーカ。」

きくらげがサンジのまわりをくるくる回る。

曇りの日の青空みたいな目が赤い。

そこから涙は延々と流れ続けている。ぼろぼろ、ぼろ、ぼろ。

耳が痛く鳴るほどのボリュームで音が鳴る部屋のなか、

馬鹿で嫌な猫と、茶漬けでくちくなった腹と、赤い目と白い手と、

それらぜんぶに急かされるみたいな気分になり、あー、もう、と思いながらサンジのその白い手を引いた。

引き寄せた手からはオレンジの香りがして、その息は酒の匂いがぷんとした。

オレンジと酒と、いつもサンジのTシャツとかからするサンジの匂いがふわっとしたのでまたしても、あー、と思う。

あー、としか思えなかったので、あー、と思いながら、警戒するように離れていった腕をもう1度引き寄せた。

「いまの、なに?」

きくらげはくるくるくるくるくるくる回り、でかい音で音楽は鳴り続け、

いま何時だと思ってるんですか、と大家が怒鳴り込んでくるまでの間、

問われたことに答えを返せず、しどろもどろに、うううーん、と唸る俺に

オレンジで目を赤くしたサンジが、びっくりして涙ひっこんだと笑い、部屋に夜の気配はするすると入り込み、

距離が縮むあのかんじをこいつも感じているといいなあ、と思いながらも俺は、うー、んー、とアホみたいに唸り続けた。

 

 

終わり