きくらげ

 

 

 

 

 

 

 

「きくらげ、降りておいで、ほら。」

そいつがそう屋根の上の猫に話かけていた後ろを通り過ぎながら、

さし伸ばされた生白い腕と、仰け反るようにされた白く細い首に

なんとなく欲情して、ああ、俺はいまどうしようもないほどに溜まっているのだなあ、

と思い知ったあれは去年の春のことだ。

そのとき俺はまさかそいつが部屋に転がり込んでくるとは思いもしなかったし、

そいつだって俺の存在すら知らなかったわけで、こうやって考えてみると

やはり人生というものはなんとも深く謎に包まれている。

きくらげというのはナミがつけた名前で、そのとき食べていた

五目あんかけチャーハンのきくらげを見てひらめいたということで、とくに意味はないらしい。

ナミは部屋をシェアしていた女で、もともと他人は他人、というスタンスで

やってきた俺達は相手の個人的なことをなにひとつ知らなかったし、

そいつがナミと付き合っていたことなど、だから当然知るはずもなかった。

 

「ナミさん、知らない?」

そいつが部屋を訪ねてきたとき、あ、と思い、思わず声が出そうになった。

猫男だ、と思った、が知らぬふりで、さあ、と答えるとそいつは

ほんとに知らないのかよ、と疑り深い様子で俺の肩越しに部屋をじろじろ眺めまわした。

「部屋をさあ、借りたんだ。」

部屋に上がり込んでそいつはソファーに足を組み、なぜか偉そうに四方山話を始めた。

「ふたりで住もうね、って言ったのはナミさんだぜ。なのに、今朝これがテーブルの上にあった、

そんで、ベットはもぬけの殻ってわけ。慌てて来てみればなんだよこれ、

ナミさんのいた形跡なんてなんもないじゃねえかよ、なんだよこれ。」

そいつが見せて寄越したメモ用紙には「ありがとう、さようなら ナミ」とあるだけで理由もなにも書いてなかった。

「海外に行くって。」

「は?」

「上海で、国際結婚とか言ってたけど。」

「え?なに?うそ?」

「すごい金持ちで。」

「あー、もういい、もういい。」

ようするに俺は金と愛と両天秤にかけられた結果、捨てられた、というわけだ、

人差し指を突き出して、なぜか俺を指差してそいつは、そういうことだな、と念を押した。

そのときのそいつには逆らうと恐ろしいような迫力があり、わけがわからないままに

ああ、そういうことだろうな、と情けなくも俺はもっともらしく真面目な顔で頷いた。

そういうことなんだろうな、そいつもおなじようにもっともらしく深く頷き、

ナミさんは最後までびっくりオモチャ箱な人だった、そういうところが魅力的だったのになあ、としょんぼりした。

どうしたらいいのかわからなくなってグラスに水をそそいで渡すと、

ふつうコーヒーくらいインスタントでも入れるよな、とそこではじめてそいつは笑い、

わたわたと湯を沸かし出した俺に腹を抱えて目に涙まで溜めて肩で息をしながら大笑いした。

「部屋契約するからいまの部屋は今月いっぱいで出て行かなきゃいけないんだよ。」

そう言う彼に、そっちはキャンセルにしてナミの部屋を使えばいい、と提案したのは自分だが、

素直に越してきたそいつもそいつで、よく自分を捨てた女のあとに住もうと思うよなあ、

と妙な感心をしたが、本音のところでは嬉しかった。

人の合う合わないは、第一印象で既に決まると俺は思う。

そしてそういうものは、直感でしかわからない。言葉にならない部分で知るのだ。

涙目で笑うそいつを見ている俺に、こいつだ、と、どこかで誰かが言った。空耳でなければ、きっと確かに。

それを直感と呼ぶことにする。

 

そいつははじめて見たときとおなじように猫を呼ぶ。

変わったのは俺の名も、おなじように呼ぶことだ。

「きくらげ、飯だ、ほら、来い。おら、ゾロ、てめえも飯だ、来い。」

そいつ―サンジはコックを目指していたこともある、というだけあって飯だけは美味かった。

やたら手の込んだおかずでも簡単に作ってテーブルに並べる。

にゃー、と鳴く猫に、サンジはにゃー、にゃー、と返し、美味いって、と俺に笑う。

直感が訴えたあたりが、ぎー、と引き攣れたみたいになるので、サンジのそういう笑顔は苦手だった。

笑う、ということを正しく表現したならきっとこんなふうだろう、みたいな笑顔だからだ。

サンジが笑う度に引き攣れるそこは引き攣れ過ぎて、最近はなんだか妙に痛い。

「頭大丈夫か。」

きくらげは黒くてほんとうにきくらげみたいな色をしている。

背中のところを掴むとこりこりとしたスジみたいなものがあって、その感触がきくらげを噛むときの感触によく似ている。

きくらげを食べるときにはだからなぜかほんの少し罪悪感を感じてしまう。

そして同時に猫のきくらげを食べているような気がしてしまい、口の中がとてももっさりとする。

「失礼だな、美味いー、そっかー、ありがとー、というムツゴロウもびっくりな心温まるふれあいだろ?」

「ナミが他の男と結婚した訳がわかる気がするぜ。」

「古傷に塩を擦り込むんじゃねえ。」

「古くもないだろ。」

「だったらなおさら悪いと思えよ。」

年齢不詳のサンジは聞けば同い年で勤め先も近かった。

いままで会ったことねえのって不思議だよな、俺まえの部屋もこの近くだし、

と言うサンジに実は会ったことがあるとは言い出しにくかった。

なぜならあのとき、俺はサンジになんとなくだけれど欲情していたからだ。

そしていまの自分の気持ちの後ろめたさに、なおさらなにも言えなくなり、だから俺は黙るしかない。

「おまえは?美味いとかないの?」

サンジは飯を食っているやつを見るのが好きなのか飽きずに猫が食い終わるまで

じっとその傍で猫を見つめ続けるし、俺のこともおなじような目をしてじっと見る。

そんなふうにされると少し食べにくいのだが、作ってもらっている手前いまいち文句が言えない。

そして箸を持つ手が緊張で震えてないといいなあ、とうわのそらで思ったりする。

うわのそらでいないと引き攣ったところの引き攣りがますます激しくなる、

そんな苦労をしている俺のことなどサンジは知らない。

知らないというのは平和だが、ただそれだけで、日が経つにつれ引き攣ったところが

もしかしたら裂けはじめてしまうかもしれない危惧さえ人知れず感じていて、そんなとき

きくらげが、にゃー、とすり寄ってきたりすると思わず猫相手に打ち明け話をしてしまいたくなるほどだ。

「・・・うめえ。」

「こうさあ、もっと、心から言えよ。」

「言ってるよ。」

「ぜんっぜん、伝わりまっせーん。」

「どうすりゃいいんだよ。」

「そうだなー、うまいぜ!サンジ!とかってがばっと、こう。」

そう言ってサンジは自分を抱きしめ、なんちゃって、と笑った。

ため息をつきながら、ここで抱きしめたりしたらなにかが進展するのだろうか、

と思ったが実行にうつせずそのまま飯をかっ込んだ。

にゃー、と猫が鳴き、にゃ、と言ってサンジは猫の頭を撫でる。

「ごちそうさまでしたー、はい、というやりとりだ。」

「聞いてねえ。」

レバニラのなかに入っているきくらげが口の中でこりこりとして、猫のきくらげはサンジの腰に擦り寄って行く。

「解説してやってるのをありがたいと思えよ。」

「頼んでねえ・・。」

にゃー、にゃー、にゃー、と猫が鳴く。

「ゾロはー、バカだからー、ほっといたほうがいいってよー。」

「都合よく解釈すんなよ。」

にゃう、と猫が鳴き、そうだなー、あいつバカだよなー、とサンジはそれに相槌を打つ。

猫を膝に乗せテレビの画面を見つめるサンジの半袖のシャツから覗く生白い腕。

グラスに少しのビールで酔っ払ったのか、首の後ろが赤かった。

「サンジ。」

「なに?」

テレビに視線をやったままサンジはこちらを見ない。

いまだに俺は飯を食っているというのに、そんなふうにきくらげをこりこり噛みながら思い、

飯を食ってるところを見るのが好きなんだろう、おまえは、と言いたいのをぐっと堪え、

お茶、と言って、おまえはなんだ、ご主人様か、王様か、と殴られた。

膝の上から飛び降りたきくらげがにゃおう、と鳴き、阿呆、だって、

動物にバカにされてどうすんだおまえ、とサンジが笑い、生白い腕が

ひらひらと蛍光灯の明かりの下で、踊るように揺れ、俺のどっかがまた引き攣ったようにぎー、となった。

 

 

終わり