夕暮れ団地

     

     

     

     

     

いつの間に背を追いぬいてしまったのか、気付けば

身長は1センチの差をつけられて、少しだけ、見下ろす形で彼はサンジを見る。

「背比べしてみなさいよ」

酔っ払った母親がソファーにふんぞり返って言った。

伺うようにサンジの顔を覗き込んだゾロはその戸惑う表情に気付き、

そして、178と177だ、比べるまでもねえ、と切り捨てた。

けれど、酔っ払いがそんなことで引き下がるわけもなかった。

「へえ、ほんとにおにいちゃんより高いのね。しかもおにいちゃんよりずっと体がいいみたい」

合わされた背中から、ゾロの体温を感じてサンジは戸惑いを強くした。

「もういい?」

「いいわよ。っていうかいつまでひっついてんの」

「・・1センチぽっちだかんな」

「知ってるよ、拗ねんな」

サンジは母親にうりふたつで、ゾロは父親に似ている。

「だからじゃないの、おにいちゃんは、しょうがないのよ」

母親が言って、サンジの髪を撫でた。

「パパは、ああだもん、似てたらかわいくないわよ、良かったでしょ、ママに似て」

ああだもん、と言われた父親は、がたいが良くて、目付きが鋭い堅物だ。

仕事で忙しく、休日でさえ、ゆっくりと、家に居たことがない。

「サンジは、そのまんまでいい」

ゾロはサンジを、おにいちゃんとは呼ばない。

サンジ、と呼ぶ。

サンジーサンジー、サンジィー、と小さいころはほんとうにサンジばっかりで、

母親が、そんなにおにいちゃんがいいんだったら、おにちゃんちの子になりなさい、

と理不尽なことを言って拗ねた。

「サンジがごつかったらきもわりーよ」

リモコンをプチプチ押しながらゾロはテレビのチャンネルを変えて行く。

なにか他のことを考えながらテレビをみるときの、それはゾロの癖だ。

一秒ごとに切り替わる画面、提供でお送り、それでは歌って、いま一万名様に、

途切れ途切れにして、明るい声がテレビから響く。

ふつうなら、いつもなら、この弟に、どういう言葉を返していただろう。

すっかりわからなくなってしまった。

それというのも全部この弟のせいなのだ。

ゾロが最近おかしいということに気付いた2週間ほど前から、サンジはずっとおかしかった。

水の入ったグラスを手渡すときに、手が触れた。

それだけなのに、ひっ、と声を上げそうになってしまった。

怪訝そうなゾロの顔に、なんでもない、と言えば、

具合でも悪いのか、と尋ねられ、ぶんぶんぶんぶんと首を振って否定した。

風呂上がりの半裸の彼と廊下でばったりと遭遇すれば逃げるように自分の部屋へと滑り込んだ。

あれはどう考えたって、やりすぎだっただろう。

ゾロが、不自然なほどに優しいのを、たぶん、知っていたような気がする。

兄思いのいい弟のそれと言って済ませるには

冗談が過ぎるほどに、ゾロはサンジに優しかった。

きっかけは、ゾロの、自分に触れたその指先だった。

赤ちゃんみてえ、と笑いながらサンジの頬に触れたゾロのかさついた指先。

兄弟でいたことを、そのときはじめて後悔した。

彼の、他人にはわかるはずもないだろう小さな

感情の揺れを、知ることの出来るほどに傍にいたことを後悔した。

いとおしい、いとおしい、と言っていたその手。

泣いてしまいそうになったのは、サンジにとって、ゾロが、

世界でたったひとりの、親や兄弟や恋人や友達のそのすべてであって、それ以外のなにかであったからだ。

そういうのはゾロ以外にいないと思っていた。

そして、ゾロにもそうであって欲しいと。

けれどゾロの触れた手のその熱に、その先を、知った。

動物の子供のように身を寄せ合い温め合いいつかのその日までずっと、

なのにそれだけでいられない、と思わせてしまう持て余された想い、それから、熱。

「ちょっと、それやめてちょうだい、騒々しいったら」

母親の声にゾロはリモコンを投げ捨て立ち上がり、

そしてふとサンジを振り返ると、明日悪いけど6時に起こして、と言ってから

頭を撫でて、そして、おやすみ、と去って行った。

「なーに、からかわれて、どっちがおにいちゃんなんだかわかんないわねえ、まったく」

撫でられた髪に触れれば、まるで泣きたいような気分になった。

     

     

     

     

緑の髪のぽやぽやとした感触やふっくらとしていたあの頬のその心地や、

よちよちと危なっかしくただサンジだけを目指してやって来る

いまにも倒れてしまいそうなあの足取りや、もみじのような手のひらや、

そういうやわらかでいとおしいものを誰にも壊されることのないようにただただ守ってやりたかったのだ。

母親は、若く、小奇麗だったけれど家庭生活には少しも向いていない女性で、

仕事と、それから自分の趣味、そして習い事の類にしか興味がなかった。

今日はお花、今日はお料理、今日はフラメンコ、そんなふうだったから、

サンジもゾロも、あまり母親にかまわれたという経験がない。

家事も嫌いで、だから、年に数回、お料理教室で習ってきた献立を

自分で作ってみたいときにだけ、食卓には母親の手作り料理が並んだ。

そのためゾロはサンジの料理で大きくなった、と言っても過言ではない。

家庭の味といえばサンジの茶碗蒸や魚の煮付けや混ぜご飯で、どれも、京風の味付けだった。

それは小さかったサンジが適当に買ってきた料理の本がそういう方面のものばかりを網羅した

プロ向けの指南書であったからであって、家のどこにも京生まれなんて輩は存在しない。

その本は油染みなどでボロボロになって、いまでもオーブンの脇に置いてある。

そのページをめくるたびに、思い出されるのは記憶だった。

ゾロの小さな口が、料理を頬張るその記憶、箸を持つ、

利き手のまだ定まらない手がぎこちなく動く、テーブル越しのいつかの風景だ。

「なんかママ、京都に嫁に来ちゃった気分。

あー、でも、おいしい。おにいちゃん、あんたいますぐにでも嫁に行けるわねー」

「なんで嫁なの」

「お嫁さんじゃなーい、ふきと厚揚げの煮物?鯛と大根とごぼうの煮付けでしょ?

下仁田ネギの牛肉巻とかさ、こんなの、誰にも作れないわよ」

母親を恨んだりしたことはない。

だた、少しばかり、ふつうの家とは違うのだ、と思うだけだ。

学校であったことや、算数のテストで出来が良かったりしたこと、

先生に誉められたこと、そういうことを聞いて欲しいときでも、母親は自分のことに夢中だった。

もしくは仕事のことで苛々として、うるさい、疲れてるんだから、向こう行ってなさい、と怒鳴る。

そんなふうだから、サンジはそういうことをゾロにばかり喋ったし、ゾロはサンジにばかり喋るようになった。

なんでも話したし、なんでも聞いてくれた。

それでも、さみしさがとか、満たされない心がどうとか、そういう馬鹿げた話はしたくない。

ただ、お互いが、お互いにとって、とても大事だっただけのことだ。

幼い頃、ゾロは近所の剣道道場に通っていて、お迎えはいつもふたつ上の兄であるサンジの役目だった。

「ゾロくん、おにいちゃんが来てるよ」

その声にゾロは道場の奥から、裸足でぺたぺたと駆けて来る。

サイズの大きめの袴に足を引っ掛けて、転んだりして、それでもサンジを真っ直ぐに目指して駆けて来るのだ。

そういう姿に、おにいちゃんなんだから、守ってやらなくちゃならないんだ、と、何度思ったことだろう。

思うたびに泣けそうだった。

味方はいなかった。

たったひとりで、この小さく柔らかな塊を、壊さないように壊されてしまわないように、

大事にしていかなきゃいかないんだ、と唇を噛んだ。

道場から漏れる明かりはいつも、暗く、季節の匂いを混じり合わせた空気に、零れていた。

背比べで、触れたゾロの手は、それらが全て幻だったように大きく、

そしてサンジの手のひらに触れると、びく、と大げさに驚き、そんな彼に母親が呆れたように声をかけた。

「なにやってんの」

「だってこいつの手、すげえ冷えてんだよ、つめてえの」

「冷え性なのよ、ママに似てるから」

「だっせ」

「うるせえ」

うるせえと、たったそれだけの言葉に、全神経を集中させ、口を大きく開けて、

きっちりとした発音を意識しなければならなかった。

     

     

ゾロの稽古の後には、京風の味付けのお弁当を、川原に行って食べた。

雨の日には高架線の下で。

川は黒くうねるように流れ、ゾロは大きなおむすびを、小さな口を精一杯開けて頬張った。

そして一日のことを、話して、聞いて、笑ったり、怒ったり、殴ったり、蹴られたり、

しながら川辺りでいくつもの季節を過ごした。

月明かりや、対岸のほのぼのレイクという看板や、草の匂いや、水の流れる音が、ふたりをやるせなくさせた。

おむかえの母親や、車で駆け付ける父親の姿を、時折ゾロが、羨ましがるような目で見ていたことは知っていた。

それでも、そういうものの前で、サンジには、なにも出来なかった。

サンジがタバコを吸うようになったのはその頃だ。

いつも忙しいふたりの父親はヘミングウエイに心酔していたために葉巻を燻らせているので、

その甘いような苦いような香りがリビングに漂っていた。

たとえば、父性の象徴。

「タバコ?」

ゾロが嫌そうな顔で、サンジの吸うのを、見た。

「大人だろ?」

形だけでも、そんなふうになりたかった。

ゾロを守れる、揺るぎのない、頼れるものに、なりたかった。

「くせー、変な匂い」

葉巻はどこの販売機にもおいていなかった。

     

     

     

     

     

リビングに敷いてある、灰色に青の混じった絨毯は、昔から変わらずおなじ匂いがする。

それは葉巻や食べ物や洗濯物や汗やチリやゴミの匂いの交じり合った、

他人が嗅いだらきっと少し臭い、けれどサンジには馴染んでしまい、そして染み付いた心地のよい匂いだ。

そして肌触りのあまり良くないその感触は、裸足の足を擦り付ければかすかにくすぐったい。

遠い遠い春の日に、絨毯に顔を擦り付け、性器を擦って遊んだ。

いま思えはあれは覚えたての自慰以外の、なにものでもなかったけれど、

罪悪感の欠片もそのときサンジは持ち合わせてはいなかった。

サンジ、なにやってんの、幼い弟が、絨毯に擦り付けるサンジの顔を覗き込んで言った。

「おまえもしてみ、気持ちいいから」

そう言って、サンジは幼い彼の下着を脱がせ、親指ほどしかない性器に触れたのだ。

射精はなかったけれど、腰がむずむずと、はっきりと言えばそれは快楽で、ずっとこのまま

ここに触れていられたらいいなあ、と思いながら、ふわふわと体が浮いているような中、

サンジは弟の性器を擦り、恐る恐るながらも彼もサンジの性器に触れ、ふたりで絨毯に擦りつけた。

「これっていけないことだと思う」

ゾロが、絨毯に寝そべりながらそう言ったのを覚えている。

「だってお母さんが、おちんちんは人に見せちゃだめなのよって言ってたし」

「おにいちゃんにもだめなのかな?」

「だめだと思う」

幼い心にはそれはただ微熱のようで、ましてやどこかにほんのりと、甘ささえ含んでいた。

「じゃあもうやめよう、でも最後にもう1回しよう」

あんな無邪気に、彼に触れられたなんて、嘘みたいだった。

絨毯の匂いはあの頃から、変わることなく、おなじはずなのに。

     

     

ソファーにうずくまっていると、サンジ、と上から声がした。

何千回何万回と呼ばれたはずの名前。

「風邪引くぞ。」

どうしてこんなに柔らかい声で言うのだろう。

誰かが、と思った。

人におちんちんを見せてはいけません、それとおなじように、誰かが、注意してくれなくては、だめだ。

そうすればゾロだって、こんなやさしい声なんてすぐ、どこかへ捨ててしまえるし、

サンジの腹の底に圧し掛かる、なぜか甘さを含んだこの重さも、

溶けるようにしずかに痛みも伴わずして、やがてなくなってしまうだろうに。

「サンジ。」

大きな手が髪に触れ、躊躇した後に離れて行った。

窓の外にはピンク色の雲の連なる夕暮れが広がっている。

ぽつぽつと灯の灯り始めた団地の、たくさんの物語の中の

ちっぽけなたったひとつに過ぎないだろうふたりのこの恋には、明るい未来なんて、きっと待ってやしないのだ。 

     

     

     

おわり