パリの空の下オムレツの匂いは流れる その1
(教師びんびん物語シリーズ最終回)



シャルル・ドゴール行き714便に乗り込み、
シートに体をうずめると、とたんに疲れがどっと押し寄せて来た。

サンジの祖父がやっていたレストランを尋ねようと思ったのは
秋の終わり、あんなに暑かった夏がもう、
その気配も感じさせぬほどに遠くへ行ってしまった頃だった。
怒りも、さみしさも、消化され、穏やかに彼を思えるようになったそんな頃だ。
麻布の住宅街にあるそこになかなか辿りつくことが出来ず、
公衆電話から連絡を入れると、パティと名乗る
現料理長だという男が電話口で、迎えをやる、とそっけなく、言った。
迎えに来た男は俺をじろじろ見まわしたその後に、
みんなさ、サンジのことが好きだったんだ、ぽつりと言い、
着いて来い、と夜の静かな住宅地を先に進んだ。
想像していたよりもずっと立派なそのレストランのVIPルームに通され、
その5分後に、パティと名乗る男がやって来た。
あんた、サンジのパリの住所が知りたいって、どういうつもりか
聞かせてもらおうか、事と次第によっては悪いが、ただで帰す訳にはいかない。
静かにクラシックが流れる店内の薄いピンクの壁紙に目をやって、
それから、料理長の目を見据え、去年自分はサンジの担任だったこと、
夏休み中、サンジはうちに居たこと、
自分と彼は、世間的には間違いであるかもしれないが、
恋人と呼べるそんな関係であったこと、正直に全部、話した。
正直者はバカを見る、サンジが言っていたことを思い起しながら。
黙って俺の話を聞いていたいかつい料理長は、すべての話が終わると、
サンジは、きっとあんたが好きだったのだと思う、と小さく言った。
中学の頃のあいつはもう、目も当てられない反抗期の子供だった。
高校に入ってもそれは変わらずに、
家に帰って来ることなど週に数えるほどしかなかった。
変わったのは、ロロノア、あんたがいたからだ。
サンジは変わったよ、たしかに。
やさしくなった。いや、やさしい部分を
前から持っていたのはこのレストランの連中ならみんな知っている。
それが、あんたと出会った頃から前面に出てくるようになった。
このレストランの連中はなあ、みんなサンジが好きなんだ。
自分の子供みたいに思っている。
ロロノア、サンジはどうしようもなくひねた子供だ。
さみしかった子供時代とか、そういうものがそうさせたんだ。
料理長がそこまで話終えたとき、テーブルに前菜が運ばれてきた。
カニのサラダ、サンジの考案したメニューだ、皿を見つめ、料理長が言った。
コールスローみたいな味付けのそのサラダは、
ケンタッキーのコールスローなどとは比べものにならないほどに美味かった。
サンジは、料理が好きなんだ。
ときにはオーナーよりも的確なアドバイスをくれた。
サンジは、どんな言葉でも言い尽くせないほどに、いい子だった。
パリの住所が知りたいか、料理長は言って、俺の目を見た。
知りたい、彼に会いたい、この先がどうなるのだとしても、
彼に会わなければ、自分の気持ちは収まらないのだと、俺は言って、
料理長は、その俺をじっと見て、それからため息をひとつ吐いた。
サンジは、あんたが好きだって、言っていた。
オーナーもそれを知っている。
サンジを、まだ好きならば、行って、あいつに言ってやって欲しい。
この先も、変わらないのだと、言ってやってくれ。
サンジは、遠い昔に多くを失った。
だから、信じられないのだ。
今がずっと続くことが、信じられないんだ。
ロロノア、サンジは、本当に、いい子なんだ。
あんたにはもったいないほどにいい子だよ。

スチュワーデスが俺の傍へやって来て、言った。
ご気分でも・・・。
いや、いいんだ、大丈夫だ。
悪いが、なにかアルコールを貰えるだろうか。
ええ、すぐにお持ちします。
あの、本当にご気分は・・。
本当に大丈夫だ、眠ってしまえば楽になるだろう。
運ばれてきたアルコールを胃に流し込み、目を瞑った。
あまりにも速いスピードで飛ぶ飛行機は、
まるで空に停滞しているようだ。

俺は11年前の夏をいまでも覚えている、
と料理長は言い、スープ―サンジの得意だったという
ジャガイモのポタージュ―をすする俺をよそに、
ごつい指でエスプレッソの小さいカップを持ち上げた。
記録的な猛暑の夏だった。
レストランの入り口に置き去りにされた
あの小さな子供を、俺はいまだに忘れることが出来ない。
唇を噛んで、必死になにかを耐えていたその子供がサンジだ。
サンジは母親に捨てられた。
オーナーは、サンジの父方の祖父だ。
母親は身寄りのない女だったから、
とりあえず、ってことでレストランに置いて行ったんだろうな。
サンジの父親は早くに亡くなったんだ。
そのときにオーナーが引き取るっていう話も出た。
だけど母親は自分が育てると言って譲らなかった。
それなのに、だ。
自分に好きな男が出来ると、
・・・そいつはアルゼンチンの男だったんだが、
サンジを捨てて地球の裏側まで行っちまった。
だからあいつは夏が嫌いなんだ。本当に、大嫌いだったんだ。
ロロノア、一時の熱に浮かされたような気持ちで、
サンジに会いたいっていうのなら、止めて欲しい。
サンジの気持ちが俺にはわかるよ。
捨てられるまえに、今度は自分から捨てたんだ、とても、大切なものを・・・。
そこまで言って料理長は持ち上げたままのカップから、エスプレッソをすすった。
サンジが淹れるエスプレッソは特別に美味いんだ。
最後にそう言って、料理長は厨房に帰って行き、
テーブルの上には、パリの住所が書かれた紙が乗っていた。

 

パリの空の下オムレツの匂いは流れる その2



飛行機はゆっくりと厚い雲間を抜けて、異国の地へと下降してゆく。
みれんがましい男だと迷惑がられても、もう1度、サンジに会いたかった。
休暇願いはすぐに受け入れられた。
赤い頭の校長は、うれしいようにも、かなしいようにもとれるそんな表情で
目を細めながら、人生なんて、後悔ばかりだ、後悔のない人生なんて
ありえない、ロロノア、おまえは掴むべきものを知っているはずだ、
ちゃんと、捕まえて来い、穏やかにそう言って、
なんなら辞職願いも一緒に受けとってやろうか、と笑った。
もしかしてすべては筒抜けなのかも知れない、と思う。
狭い街で、サンジは俺の部屋へ通っていたのだ。
誰が知っていてもおかしくはない。
けれど、たとえ自分達の想いが間違っていようとも、
それを決めるのは、他人ではない、他ならぬ、俺達だ。
自分達が間違っているなどと思いさえしなければ、きっと、大丈夫。
手をきつく握り込んだ。
ご気分はいかがですか。
さきほどのスチュワーデスが俺のもとへやって来て、言った。
ああ、大丈夫だ、ありがとう。
肩の力を抜くことも必要ですよ、どうぞよいご旅行を。
スチュワーデスはそう言ってやわらかに微笑んだ。
ありがとう。
彼女の後ろ姿にそう言ってから、
何度も頭で反芻した住所を、もう1度、口の中で繰り返した。
それから、彼の名も。


タクシーに乗り込んで、住所を言うと、
運転手は軽く頷き、そして車が走り出した。
とうとうこんなところまで来てしまった。
自分がこんなふうな行動を起こせる人間だった
ということを25年目にして、はじめて知った。
さようなら、と言われても、電車で2駅の距離でさえも、
自分はこんなふうに未練がましく
去って行った誰かを追いかけるような真似をする人間ではなかった。
執着しているのだろうか、と思う。
最後までなつかなかった、気まぐれで生意気なあんな子供に、
もしかすると自分は、意地になっているのかもしれかった。
なつかない動物をなつかせようと、意地になる、サーカスの団長。
まるでピエロだ。
しばらく首都高にも似た道路を走ると
車窓の向こうに大きなスタジアムが見え、
運転手がちらりとこちらを振り向き、なにかを言った。
わからない、という顔をすると、
ここで去年の春に日仏戦をやったのだ、
たどたどしい英語でそう言い、フランスの圧勝だった、と笑った。
悪いけどサッカーは興味がないんだ。
珍しいね。じゃあ、あんたはなんに興味があるんだい?
そうだな、これから会いに行くやつ、だな。
恋人かい?
ああ。
そりゃいいね。
あんたのいい人が待ちくたびれてしまわないように飛ばすとするか。
そうして車はしだいに加速してゆく。
距離が、どんどん近づいて行くのを感じた。


紙に書かれた住所にあったのは、
うすいクリーム色の外壁の小奇麗なレストランだった。
深呼吸をひとつして、ドアを押して中に入ると、
ウエイターがやって来て、フランス語で何かを言った。
サンジ、というやつはここにいるか、自分は日本から来た、彼の友人だ。
英語でそう伝えると、ウエイターは俺を不躾にじろじろ眺めまわし、
それから、少し待て、と言って、奥へ引っ込んだ。
「あー、ゾロ。」
後ろから突然声がして、驚いた。
「なにやってんの?旅行?」
振り向くと、見たことのないセーターとジーンズと
ダッフルコートの妙にすがすがしい笑顔のサンジが、いた。
「目の下とかクマ酷いよ。飛行機眠れなかった?」
実物が目の前にいるというのに、突っ立ったまま、
コートの袖口から覗くセーターの毛玉とか、靴の汚れとかに、呆然と目をやった。
そういうものを見るために、こんなところまでやって来たわけではないのだが。
「つーかついてねえな、おまえ。いまストでルーヴルは入れねえぞ。」
矢継ぎ早の言葉に、なにを返せばいいのかわからず立ち尽くしていると、
さきほどのウエイターがやって来て、サンジになにかを言った。
その言葉に笑って、2・3言返すと、
外、出よう、とサンジは俺の腕を引いてドアを押した。
静脈の浮いた、白い手、サンジの手だ。


「フランス語出来たのか。」
「出来ないよ。日常会話はなんとなく・・・かな。
ちょっとは知ってたし、それにばばあがフランス語しか喋れないからなー、
ま、人間せっぱつまったらなんでも出来るようになるってことだ。
おまえみたいに。なー、ゾロ。」
「・・・・おまえ、俺になんか言うことねえのか。」
「なに?あ、そっか。ひさしぶり!」
にっこりと笑って、サンジが言う。
曇った空には低く雲がたれこめている。
「違えよ。」
知らない街の匂い。
久しぶりのサンジは、いままでの少し浮いた、なじめないあの様子が
どこかへ言ってしまったかのように、まわりの風景にぴたりとはまり込んでいた。
たしかに、彼には、この国の血が混じっているのかもしれない。
「じゃーなんだよ。なぞかけか?」
「違うつってんだろ。ごめんなさいだよ。あやまれ。」
「なんで?」
「突然いなくなりやがって、てめえ、俺のことなんだと思ってんだよ。」
犬を散歩させた中年の女が俺達をじろじろ見ながら去って行く。
足元の石畳見つめ、サンジが呟くように言った。
「だから前にも言ったじゃん、ガッコのセンセイだって。」
「ったく。おまえはなんなんだよ。
俺は、教師はやめだ。おまえはもううちの生徒じゃないしな。」
そう言うと、サンジはぱっと顔を上げ、
驚いたような、困ったような、ひどく幼い顔をした。
「ガッコ辞めたの?」
「おまえほんと頭悪いよな。」
「なんだよ、失礼だな。」
「おまえが、俺のこと、なんと思ってようとも、
俺にとっておまえは生徒じゃねえから。」
「・・・ふうん。」
「もっと他になんかねえのか。」
「んー・・・ごめん、ない。」
レストランのドアのほうから、ディナーの仕込みだろうか、
食欲をそそる香ばしい匂いが流れてくる。
「てめえな。・・だいたいなんで黙って行くんだよ。
一言なんかあるだろうが。言えばほかにやりようがあっただろ?
マイルだってがんがん貯まっちまったかもしれねえだろ。」
「おまえ意外にせこいな・・・あれだよ、
だれもいない海ふたりの愛を確かめたくって、ってやつ。」
サンジは、言って、困った顔をしながら、笑った。
泣き出しそうにも見える顔だった。
「わけわかんねえ話はやめろよ。」
「あなたの腕をすり抜けてみたの。」
小さく、言葉が呟かれる。
足元の歩道を蹴りながら、サンジは、南沙織、なつかしいだろ、と続けて言った。
「バカか、そんなことしてなんになんだよ。」
「わかんねえ。」
「自分でもわけわかってねえことすんな。ドアホ。」
「アホ言うな。・・・立ち話もなんだからさ、部屋に来る?荷物も大変だし。」
そうサンジは言って、俺の返事も待たずにレストランの隣の小さなドアを押す。
その後ろ姿に、ふと、あんなに一緒にいたくせに、
サンジの部屋に行くことはこれがはじめてであることに気付いた。
「大丈夫だよ、ジジイはここには住んでない。
レストランにも今日は顔出さないからさ。」
薄暗い階段の横のエレベーターは、昔映画で見たように、
でかい音を立てる、旧式のエレベーターだった。

 

 

パリの空の下オムレツの匂いは流れる その3




雑然と物の積め込まれたその部屋は
壁の白い、ベッドと、簡単なキッチンの狭い場所で、
薄くかすかに生活の匂いがした。
「椅子ないんだ。ベッドに座っててよ。いまコーヒー淹れるから。」
「エスプレッソがいい。」
「え?なんで?好きだったっけ?」
「エスプレッソくれ。」
「いいけど。・・・じゃ待ってろよ。」
ベッドに腰掛け、横を見ると、
俺の写真が貼ってあるのに気付いた。
大口を開けた、眠っている俺の写真。
いつのまにこんなものを撮ったのだろう。
寝顔の額に大きく、肉、と書かれている。
なにがしたいんだあいつはいったい。
「あーー!!!」
すると、突然、サンジのでかい声がしたかと思うと、
ベットにいきなりダイブし、そして写真をひっぱがし、俺の上に跨りながら、
見た?見た?見てないよね?つーか見た?やっぱ見た?見たでしょ?ねえ?
と写真を後ろ手に隠し、しつこいくらいに、焦った様子で繰り返した。
「見た。」
にやり、と笑うと、いまのなしね、なしって言うまで抓るからね、
と、写真を床に落としたその手で頬をすごい力で抓られた。
「痛え。痛え、痛え。わかったって、なし、なし、なし。いまのなし。」
よーし、そう言って、手の力が緩められた。
「痛えってことは夢じゃねえってことだよな。」
抓っていた両手を握り込み、上を見上げると、
長い前髪が顔にかかり、サンジが顔を覗きこんで、
なに言ってんの、と笑ってから、エスプレッソはあとにしよう、とキスをする。
何度も、何度も、瞼も、鼻も、頬も、唇も、すべてに、何度も。
コーヒーの豆の匂いが、キッチンのほうから、ほのかに香る。
何度も、繰り返したあとで、サンジは顔を離し、ゾロだ、とぽつんと言った。
「ゾロだなー。」
「なんだよそれ。」
「まんまだよ。」
頬をべたべたと触る手は、ひんやりとして、熱を持たない。
そうだ、サンジの手だ。サンジの手の温度だ。
「わっかんねえ。」
そんなふうに言いながらも、サンジのいうところの意味は、理解出来る気がした。
「単細胞マリモには俺の複雑な心なんてわかりっこねえんだよ。」
「言ってろ、ハゲ。」
何度も、やわらかくキスが落とされる。
「ハゲてねえよ。」
「ハゲてんだろ、薄過ぎて頭皮見えそうなんだよ、てめえの髪。」
「・・・なんか、ケツに当たってるモン既に固いんだけど。溜まってんの?」
腰を揺すって、ケツを俺のに押し付けて、サンジは笑う。
さっきからその手は俺の上着ををぎゅう、と握って離さない。
「どっかアホがヤらしてくんねえからな。」
「ひとりでしなかったの?」
「オカズじゃ嫌だって言っただろ。」
「それは前の話じゃん。」
「てめえはなあー、ほんとに・・・・、教師泣かせた罰として、
めちゃくちゃにしてぐちゃぐちゃにしてひいひい言わせてやるから覚悟しとけよ。」
「どーこーのエロ親父だよ。つーか泣いたんだ?かわいー、ゾロ。」
なで肩の、幅の狭い肩を揺らしてサンジは、おかしくてしかたがない、と笑う。
天井に足音が聞こえる。そして人の気配。
俺の知らない場所で繰り返された彼の生活、その匂い。
「かわいいとか言うな。」
「んー、でも、かわいい。こんなとこまで来ちゃうし、かっわいい。」
頭ごと抱きすくめられる。
ハゲた頭をゆっくりと確かめるように撫でた。
「ばっかじゃねえの。」
「んっ・・なんか俺ももうかちんかちん。」
俺の手を、そこへもって行き、ね、かちんかちん、と繰り返す。
「しょうがねな、若いってのはそういうもんだ。」
冷えた手とは違い、サンジの口の中はとても温かかった。
絡み合う舌、濡れた唇を離し、糸を引かせたまま、
おっさん臭え、サンジは笑い、それから、もう1度キスをする。
「ま、少なくともおまえよりはおっさんだからな。」
「そうだなー、8つも違うもんな。」
言いながらサンジは次々に服を脱ぎ捨てる。
スチーム暖まりきらない部屋の温度に、鳥肌の立っているのがわかる。
「ま、それくらいになるとだ、
おまえなんか知らないことも知ってんだ、偉いからな。」
起き上がって、上着を脱ぎ捨てた。
脱ぎ捨てたところに、さっきの写真がある。
大口を開けた間抜けな寝顔。
あっという間に下着だけになったサンジが、
なにそれ、と抗議がましい声で言う。
白い体が午後の日差しに照らされ、彼をまるで
夢のなかでしつらえられたマネキン人形のように見せる。
それでもこいつは熱の通った、そして名を与えられた、
生意気でなつかない、人形ではない、人という動物だ。
サンジ、という名前の。
「真実の愛なんてどこにもねえってことだよ。」
セーターも全部脱ぎ捨ててから、そう言って、キスをする。
どろどろの、ぐちゃぐちゃの、下半身直撃、とサンジの言っていたやつだ。
それでも、そんなどろどろでも、ぐちゃぐちゃでも、
胸のつまるこんな想いが沸き上がってしまうのは、たぶん―
「んー・・・なんかヤってることと言ってること違くない?」
とろん、とした目のサンジが言って、くしゅん、とひとつくしゃみをした。
「けどな、続きがあんだよ。」
そうだ、教師と生徒だとか、恋人だとか、
この関係につけられる名前がなんであっても、かまわない。
唇に、耳に、首筋に、鎖骨に、キスをして、
きゅっと、乳首を摘むと、弱く抗議の声が上がる。
「あっ・・ちょっ、・・。」
「真実の愛なんてどこにもねえけど、でも、
世の中信じたもん勝ちだってことってことだ。
そっちがほんとうの真実だな。知らなかっただろ、おまえアホだから。」
「なんで、そんなに、ペラペラ・・、喋ってんの?ゾロ、キモ・・イ。」
とぎれとぎれに、生意気な口をきくその目の下はうっすらと赤い。
「手は動いてんだろ、貧乳。」
「うわひっでえ、つーかさ、手だけじゃなくて
喋ってる暇あんだったら、キスしろよー、キースー。」
唇をとがらせたまま、寄ってきた顔に、舌出せよ、言って、絡め、
サンジは、合間に、相変わらずの鼻にかかった声を漏らす。
天井の上で人の気配が続く以外は、とても静かな場所だった。
車の音も聞こえない。世界から切り離されたように感じるほどに、
しんと静かな部屋に、サンジの湿った息が、流れる。
その首筋からはシャンプーの残り香と、タバコの―
「おまえ、タバコ吸ってたか?」
「んん、たまに。でもさ、こっち高いんだよ、タバコ。
シケモクとか生まれてはじめてしたけど、すっげえまずいの。」
「未成年のくせにな。」
その肌に舌を這わせると、サンジの身体はおもしろいようにぴくぴくとなる。
寒さで小さくなって尖った乳首に吸いついた。
サンジの肌の匂い、なつかしい、艶かしい。
「でもあん、ま・・、吸うとな・・、
ジジイが、うるせ・・んだよ、りょり・・に・・にタバコ、は、ごは、っとだっ・・て。」
「なに言ってんのかわかんねえよ、しっかり喋れ。」
「おま、の、せいだ、ろ。」
「じゃ、やめるか。」
「だ、や・・な、・・で、きゅっ・・し・・て、し・・たも・・触っ、て。」
「すげえ、ぐしょぐしょ。ひとりでヤってなかったのかよ。」
下着の上からなぞると、目の下の赤い、
迫力のない顔が睨みつけ、色の薄い瞳が滲んで、俺を映す。
「は・・・んッ、・・んぅっ・・、そういうこと言うなドスケベ親父。」
「お互い様だろ。」
下着を脱がせて、擦り上げた。
ぐじゅぐじゅと厭らしい音が鳴り、白い喉元が反りかえる。
「ゾロ、ゾロ。」
行為の最中にはいつも、まるで、そこにいることを
確認したがっているみたいにサンジは何度も俺を呼ぶ。
「ゾロ、・・・ゾロっ。」
白い肌が震え、閉じた目からは涙が頬を伝う、
懐かしく、いとおしい、サンジの、嬌態。
手のひらのなかの温度。
「や、も、イく・・・。」
「早えな。」
「うっせ、え、ミドリ・・ぃ。」
「太ももビクビクしてんぞ。やべえな。」
「じっきょ、ちゅっ、け、すんな、よ。」
「な、おまえ、なんで驚かなかったんだよ。」
「なに、があ?」
「めちゃくちゃ普通だっただろ、俺来たとき。」
「ん・・、だッ、て、さっきみ、せ、に・・いた、
あい・・つとさ、・・はぁ、きの、ぅ、教会行ったんだ、あっ、ぁ・。」
「ほーう?」
「観光客いっぱいいてえ、」
「それで?」
「あ、も、ほんと、ダメ、あっ、あ・・あッ、ん。」
「すげえいっぱいでたな。よしよし。」
頭を撫でると、その手を振り解かれる。
頬なんて赤く染まり、迫力などひとつもないのに、
サンジは、おまえ、ばかか、といまだ生意気な口を聞く。
「後ろ向いてケツこっち向けろよ。」
「んー、そんでな、んあッッ、やだ、ゾロ、ぞ・・。」
「そんでどうしたんだよ。」
「ひっ、は、・・ぁ、っぁ、」
枕をぎゅっと握る手にくっきりと浮かび上がる、静脈の青。
丸い頭が、揺れる。
「続けろよ。」
「んっ・・、」
「だ、・・め、む、りぃ・・」
「教会行って、どうしたんだよ、サンジ。」
「ッぞ、ろ・・ぁ・・、ゆび、増やして、」
赤い顔が振り向いて言う。
「きょうか、いの、ひかりが、言った、んだ、
だいじょ、うぶ、こ、ううんがぁ、あっ、や、って、く・・。」
「すっげえ幻聴だな。あー、だからあいつ、おまえになんか言ったのか。」
「んぅぅ、こううんが、やってきたねぇってぇ・・いった・・・ん・」
「挿れるぞ。」
「あ、まっ、って・・・ぁ、・・・はぁっ」
「わりぃな、もう入っちまった。」
「ばかいんこ・・きょ・・し・・おま・・し、ね、
く、そ・・ぼ・・け、まり、も」
「教師はやめだって言っただ、ろ。」
何度か突き上げると、ふたたび、あっけなくサンジは達した。
「後ろだけでイくんじゃねえよ、淫乱。」
身体をこちらに向けさせ、キスをすると、白いその腕が首に回された。

 

ベッドの上でトマトとチーズのパスタを食べた。
こっちの野菜はちゃんと野菜の味がして、
だからそういうシンプルなのでも美味いんだ、と言う言葉に
そうかもしれないが、でも作ったのが他のやつならここまでじゃねえ、
と思い、それを口にするとサンジは、うへへへへ、と、
とてもうれしそうに奇妙な笑い声をたて、足をばたばたとさせた。
サンジはパスタを食べる俺を見ながらワインをお湯で割って飲んでいる。
カップを見つめる俺に気付くと、
ふつうに飲んだら眠くなっちゃうから、と言い、少しだけ照れた。
その顔に、ソファーやベッドで丸くなる姿を思い出し、
懐かしい、会いたかった人が目の前にいる実感が、唐突にやって来て、
情けないことに涙が出そうになってしまい慌てて残りのパスタを口の中に突っ込んだ。
静かな午後の、胸のつまるような時間。
トマトとチーズとワインの交じり合った味のキスの後に、
3ヶ月ぶんの責任を取れ、とその鼻をつまむと、
借金取りみたいなこというな、鼻声の、少し酔っ払った顔が睨み、
そして、それから、色の薄い瞳がゆっくりと笑顔の形に変化した。



「もー無理。あーあーだりーだりーちょーだりーよー。
な、ギネスに載ってる長時間勃起し続けた男が、
勃起してる間にみた映画知ってるか?」
気付くと午後の日差しはどこかへ行ってしまい、
窓の外には暗い、夜の気配と霧がたち込めていた。
「なんだよそれ、世界一くだんねえ豆知識だな。」
「名犬ラッシー。」
「ラッシー・・ある意味すげえな。」
「そうだ、ラッシー飲む?」
「犬?」
「じゃねえよ、ヨーグルトと牛乳と、蜂蜜のやつー。」
毛布にうずくまり、サンジは俺の髪を撫でる。
何度も、何度も、何度も、繰り返し、何度も。
「エスプレッソ飲む。」
「おまえ妙にエスプレッソにこだわるな。」
「特別に美味いんだとよ。」
「え?」
サンジの驚いた顔は今日で2度目だ。
ひどく幼い、素の表情。
「おまえの淹れたやつ。」
「誰から聞いたの?」
「パティ。」
言うと、サンジは、そっか、だからここがわかったんだ、
と納得したように、なんども頷いた。
それから、やきもちなのか、拗ねてるのか、
どっちにしろ今日のゾロかわいいなー、と
からかう笑顔で笑い、髪を撫でた。
「淹れろよ。」
「んー、悪いけど立てない。膝がくがく言ってる。」
「なっさけねえな。」
「おまえのせいだろ淫行教師。
キッチン連ーれーてーけー、ばーか。」
耳を抓り上げた上に耳元で大声で
サンジは言い、その顔を押しのけて、頭を叩くと、
ひゃひゃひゃひゃひゃ、と変な笑い声を立てる。
「黙れ。しかも面倒臭え。」
「なー、セーヌ川行こうぜ、セーヌ川。」
「なんだよ、おまえ、歩けねえんだろ?」
「おんぶして連れて行けー。」
毛布ごと俺の上に乗っかって、連れて行けー、などと
しつこいサンジの小さな頭は腹の上をごろごろと転がる。
「やだね。」
「だー、おっまえ、なんもわかってねえな。」
「なにをだよ。」
「恋人同士はなー、セーヌ川のほとりで愛を語り合うんだぞー。」
「悪いが語るほどのもんはねえ。」
「それとなー、ゾロ、なぜ人は登るのか、
そこに山があるからだーって言葉知ってるか?」
毛布から出た腕がひらひらと舞い、指が宙に山の形を描く。
「なんだよ、少ねえ豆知識大披露大会かよ。」
「ぜんっぜんそうじゃねえ。山があったらな、登るんだよ。」
「もっとわかりやすく言えよ。」
「日本語学校になあ、空きがあるってよ。」
「は?」
「教師として、来てみませんか、って。」
「てめえな・・」
「人生の山場だな、ゾロ。」
「勝手に人の人生、設計してんじゃねえぞ、ハゲ。」
「セーヌ川行こうなー。」
「人の話聞けよ。」
「寒いからコート羽織れよー。」
「そのまえにてめえはまずケツを仕舞え。」
「明日の朝はエスプレッソとクロワッサンと、オムレツだぞー。」
「耳悪りいのか、薄らハゲ。」
「うっせえな、ホモ。」
「その言葉そっくりそのまま返してやるよ。」
そう言うと、にま、と笑う、変な顔と目が合った。
にま、と笑い、サンジは毛布の中にもぞもぞと入り込んだかと思うと、
そのまま、モモンガ、とアホなことを言って飛び上がり、腹の上に落ちてくる。
そして、頭からかぶった毛布ごと抱きつくサンジのこもった声が、中から、した。
「ゾロ、おまえ、」
「なんだよ?」
「俺のことほんと好きな。」


夜中、ふと目を覚ますと街灯の明かりが部屋の中へと入り込み、
サンジの、頼りのない肩を、広がる髪を、薄く照らしていた。
静かな呼吸だけが流れ、あたりにはあいかわらず車の流れる音さえしない。
ふいに、涙が頬をよぎり、街灯の明かりに照らされた髪をやわく、撫でた。
目の淵からから零れるままのそれは、シーツへと染み込んで行く。
ここは、教室でも、俺の部屋でもなく、誰も知らない、静かで、遠い場所だ。
出会えて良かったとか、この夜にも彼を生かし、動かしている、
その皮膚の下のけなげな器官だとか、11年前の夏の子供だとか、
生意気な笑顔だとか、静脈の浮く、白い手だとか、
そのすべてが腹の底へとやって来て、そこをぎゅう、と握り込むように、
締め上げるので、シーツの染みは乾くことなく、なおさらに広がって行った。
「サンジ。」
空気をほんのりと揺らすほどの
かすかな音で、起きない彼の名前を呼んだ。
引き千切られるような痛みにも似た
その想いとおなじくらいに、繰り返し、繰り返し、
足音さえも車の音も聞こえてこない、静かな部屋に
呼ぶ声は響き、彼の寝息が、穏やかに安らかに続いていった。



終わり

 

 

 

トワ・エ・モア
(教師びんびん物語シリーズ最終回<裏>)



生まれてはじめて目にした
実物のセーヌ川は灰色く澱んでいた。
「愛の言葉を喋れー。」
サンジは足をぶらぶらさせてベンチに座っている。
この寒さでこんなところに来ようと思う酔狂は
俺達くらいなものらしく、まわりのベンチには誰もいない。
朝早くにサンジの部屋にじいさんが尋ねてきて、
おもむろに、ロロノア、夕飯はなにがいい、と訊くので、
毛布に包まったまましどろもどろで、お任せします、と返事をした。
じいさんが帰って行くと、いま寿命縮んだだろ、とサンジは笑って、
チンコも縮んだな、と、俺のにオハヨウ、と声をかけ、咥え込んだ。

「なんかねえのかよー。」
「さみぃ。」
「あたりまえのこと言ってんじゃねえぞー。」
エッフェル塔が遠くに見えて、パリだ、と思った。
「トワの愛でも誓ってみろってんだぼけー。」
「うっせえぞ、あほう。」
「toi et moi。」
「日本語喋れ似非ガイジン。」
「トワエモア。あなたと、わたし。」
「あー?」
「っていう意味でーす。」
「ガイジン調で喋るの止めろ。」
「トワって音は一緒なのになー、意味は違うのなー。」
鼻水をずずーと啜り上げ、鼻の頭を赤くしてサンジは笑う。
握った手は冬の冷気でひんやりとして、指先が赤い。
船の一隻も通らないのは、水嵩が増していて、
橋の下を通れないからだ、とさきほどサンジが言っていた。
誰もいなくて、朝市で買ってきた中華料理みたいな
おかずのパックだけが手に温かさを伝える。
サンジと顔見知りらしいベトナム人の女が、なにかを言って、
サンジは不満そうにそれになにかを返していた。
フランス語のそのやりとりが俺にはわからなかったが、その場を離れるとすぐに、
おまえの緑かっこいいって、世界は広いな、人の趣味も幅広いぜ、
とサンジはおもしろくなさそうな変な顔をして、おかずのパックの入った袋を押しつけた。
「帰りてえ。」
「だらしねえぞー。」
「・・・るせえな。」
「おまえずいぶんと短気だな。」
灰色の雲の重なる青空はサンジの目の色によく似ている。
握った手に、ほんの少しだけの力を加えた。
「残念だが。」
「んー?」
「てめえにもう逃げ道はねえ。」
「はいー?」
「どこ逃げようと見つけ出して
一滴残らず搾りとったあげく掘りまくってやるから覚悟しとけ。」
「お、愛の誓い?」
「さみぃから行くぞ。」
「なーいまの、トワの誓いってやつー?」
「いいからさっさと立ち上がれ、ハゲ。」
「はーい。」
「アホか。」
「やーん、センセー、怒っちゃいやーん。」
「センセイって言うな。」
「だってセンセイだもーん。」
「川に蹴り落とすぞ。」
「なー、スキップして帰ろうか。」
俺の顔を覗きこんで、誰もみてないし、
ウキウキしてるから、手をつないでスキップしよう、とサンジが言う。
「置いてくぞ。」
「待てよ、ナキムシ。」
人生は、はじまりの連続であり、
終わりがどこにあるのかなんて、誰も知らない。
それに、この愛はきっとまだ、はじまってもいないのだ。
なにもかも、すべてはこれからなのだ。
そう思いながら、となりでスキップをするアホな子供の
すっかり冷え込んでしまった小さな頭を掴み、強引に引き寄せた。


終わり