教師びんびん物語



    はじめてサンジをうけもったのは、
    去年の春、サンジが高2のときだ。
    教室の隅で、ぼうっと窓の外を眺める
    その生徒を気にかけたはじめたのは、
    一体なにがきっかけだっただろう。
    いつも、サンジは窓の外を見てた。
    学期末の面談、夏休みの前に、はじめて教室でふたりきりになった。
    そこでおまえはいつも窓の外になにを見ているのだ、と彼に尋ねた。
    我ながら間抜けな質問だったと思う。
    その答えはこうだった。
    ユメ。
    寝てみるやつじゃないよ、将来のでもない。
    手の届かない、なくしてしまった、そういうもの。
    そのとき手元にあった資料によればサンジに両親はなく、祖父とふたり暮らし。
    彼には友人と呼べるようなものはなく、ひとり孤立している変わった生徒だと、
    資料には書かれていた。浮ついた、地に足のついていない、そんな性質の生徒。
    確かにサンジの容姿は見るものにそんな印象を与える、
    色素の薄い髪、小さく整った白い顔、ここではないどこかを映す瞳。
    ここではないどこかに属するようなその雰囲気。
    センセイはなにを見てるの、とサンジは言った。
    センセイはいつもなにを見てるの。
    生徒の顔?机?それとも、べつのどっか?
    センセイは、センセイっていう生き物だ。
    俺に言わせればセンセイたちのほうがよっぽど珍獣みたいだよ。
    拒絶しているのに、誰かに求めて欲しいと願う、
    そんな心に踏み込んでしまったのは、サンジ口から発せられた
    センセイ、という言葉のその響きが気に食わなかったからだ。
    のちに彼にそう言うと、じゃあ、あんときからセンセイは
    俺のこと、気にしちゃってたんだね、と笑った。
    いざ知ってみれば、彼は単なる普通の子供だった。
    取りたててなにがあるわけでもない、多少の生意気さと、
    ―それから、意外なほどの、
    「なあ、チャンネル、チャンネル貸して。」
    「チャンネルってなんだよ、リモコンて言え。」
    ソファーの上にだらしなく転がるサンジに、そう言うと、
    うちじゃリモコンをチャンネルって言うもん、と唇をとがらせ抗議する。
    意外なほどの、子供っぽさ、と甘えたがりのその性質。
    相手が許容すればするだけつけあがる、ということも、最近学んだ。
    「変な家。」
    「それよりさ、ヤバイよ、センセイ。」
    腹にクッションを抱えてサンジが言う。
    空になったビール缶を手でぐしゃり、と潰しながら、なにが、と先を促すと、
    わけのわからない答えが返ってきた。
    「今日弁当開けたら蓋の上にゴムが乗ってた。」
    「は?」
    「ジジイの無言の愛だ。体気をつけろ、と。脅しをかねた無言の愛だ。
    ヤバイだろー。こわいだろー。俺思わず涙にじんだ。こわすぎて。」
    「・・・・すげえじいさんだな。」
    1度だけ対面したことのあるサンジの祖父にあたるその人物を思い出した。
    気難しそうで、頑固を絵に描いたようなその人。
    外見が少しも似ていないことを不思議に思い、サンジに尋ねると、
    俺はババアに似たから、ババアはおフランス人なんだよ、と聞かされた。
    色の薄いその髪も、肌も、なるほど、そういう秘密があったのか、と納得した。
    彼は普通の子供だったが、やはり普通ではなかった。
    それは彼に異国の血が混じっているだとか、そういうたぐいのことではない。
    自分にとってだけ、普通ではない、と思える事柄、そう例えば―
    羞恥心というものを持ち合わせていないかのような行為の最中のその態度。
    もしくは、彼なりの想い表現方法であるような、淫乱なそのそぶり。
    「おまえ一生うちの敷居跨げねえな。」
    「おまえって言うなよ。先生って呼べ。」
    「なーにーがーセンセイだよ淫行教師。」
    「淫行教師ねえ。じゃあおまえはなんだよ。」
    「さあ?」
    「そういやおまえ、テスト出来たか?」
    「んー、ぜんぜん。」
    「ぜんぜん・・・徹夜で付き合ってやったのに・・ぜんぜん。
    おまえなあ、・・・・赤点だったらお仕置きな。」
    「きゃー!お仕置き!だから淫行教師だっつうだよ。」
    ぎゃっぎゃっぎゃ、と恐竜の子供みたいな声で笑いサンジは、
    淫行教師でもいいよ、しよう、一緒に気持ち良くなろう、と言う。
    恥ずかしげもなくそんなふうに言い、年上の大人をからかい、
    そして言葉どおりに乱れるその仕草。
    これが異国の血の成せる技か、と他人事のように思いながら、
    自分に圧し掛かる子供の重みを甘いこととして受けとめる、
    こういうことが淫行教師と呼ばれる所以であるなら、
    それもいいかもしれないなどと考える自分は、きっとこの普通で、
    あまりにも普通でない子供に身も、それから心まで、毒されているような気がするのだ。

    終わり

     

    はじめてのチュウ



    センセイ、唐揚げと竜田揚げの違いって知ってる?
    と、ドアの前にしゃがむサンジは言って、手袋をしていない手を擦り合わせた。
    あれはたしか、冬のはじめの土曜日で、小雪がちらつく寒い午後だった。
    鼻の頭が赤くて、風が吹くたびに手の紙袋の中から揚げ物の匂いがした。
    知らない、と言うと、センセイ、案外なんにも知らないんだね、と俺の上着
    のポケットから勝手に鍵を取り出し、勝手にドアを開けて、勝手に玄関に上がりこみ、
    唐揚げは小麦粉、竜田揚げは片栗粉、大きく言うと、それが違う、と、振り向いて、
    入らないの?と自分の家みたいに言って笑い、エアコンまでもを勝手につけた。
    唐揚げと竜田揚げをつまみにビールを飲んで、酔っ払ったサンジは
    我が物顔でベットに丸まり、すやすやとうらやましいほどのやすらかな寝息を立て
    次の日の朝までなにをやっても起きなかった。
    俺と、サンジの、はじまりはそれだった。
    寝入ってしまったサンジを置いて、そっと部屋を出るとマンションの廊下に、
    クリームシチューの匂いと炒め物の匂いがして、
    前にもそういえばこんな日があったなあ、と思ったのを覚えている。
    夕暮れの、1日の終わって行くのがかなしいかんじ。
    明日学校で会えるまで、離れ離れになってしまう
    大好きな友達の家からの帰り道の、あのかんじ。
    もっとずっと一緒に居れたらいいのに、と思う、放課後の光、
    ああ、そうか、と、そこではじめてサンジの、もしくは俺の、気持ちに気付いたのだ。
    その気持ちがたしかに恋に変わったのは、それから4ヶ月後の春だった。
    マンションの近くの公園で、なんとかフェスティバル、という祭りがあった日曜日、
    サンジはその公園を通ってうちへとやって来た。
    そのころには毎日のように彼はうちへと来るようになっていたのだが、
    ふたりの間に、とりたててなにがあるわけでもなかった。
    サンジがタッパーに入れて持ってくるおかずをつまみに飲んで、
    酔っ払ったサンジは俺のベットで丸くなり、次の日の朝早くに帰って行く。
    いったいなにがいいのか、うちにいる間のサンジはいつも楽しそうだった。
    教室の隅でいつも見る、つまらなそうな、ぼんやりした、あの表情とは
    まるで違い、それが彼を別人のように見せていた。
    だから、だろうか。
    そのときにも、彼が自分の生徒であるということに対する罪の意識は
    少しも、思い浮かばなかった。
    ただ、そのシャツから春の匂いがしたことだけを、ほのかに覚えている。
    はじめてのチュウ、君とチュウ、とサンジはその日のタッパーの中身、
    春野菜のグラタンを皿に開け、鼻歌を歌っていた。
    「はじめてのチュウは、涙が出るのかな、男でも。センセイは、泣いた?」
    台所に立つサンジの背中を見つめて聞いたその言葉に、驚いた。
    それほどにサンジに関する良くない噂は数え切れないほどあったからだ。
    噂によれば彼にはすでに9人の水子がいて、
    金持ちの親父の愛人をしているだの、奥様相手に一晩15万だの、
    妊娠中絶を繰り返させても停学にすらならないのは、
    彼は校長のお気に入りで、体で言うことを聞かせているからだ、だの、
    とにかく、虚像のサンジはとんでもない子供だったので、キスで泣く?
    と俺は聞き間違いかと、自分の耳をかなり疑った。
    泣いていない、と言うと、ふーん、そっか、と、
    後姿のままレンジのスイッチをポン、と押し、
    レンジのウィーン、と小さく音の鳴る中で、
    サンジはぽそり、と、泣くかな、と言った。
    ウィーン、と音が続き、サンジがゆっくり
    ソファーの俺のところにやって来たそのとき、
    チン、と皿のウィーンという回転が止んだ。
    その音を無視して伸ばされた手は、俺の頬を撫ぜ、
    センセイ、ではなく、ゾロ、とやわらかい発音で、名が呼ばれ、
    部屋にはかるくニンニクの匂いが立ち込めていた。
    泣くかな、と言ったサンジが、
    唇を離したその後、泣きもせず、
    センセイ、今日なんの日か知ってる?
    と、耳元で囁き空気の音で笑ったので、
    俺はそこではじめて、耳元の生意気な子供に
    まんまとしてやられたのだ、ということに気がついたのだった。

    終わり





    恋のバカンス


    気が付いたらいつの間にか朝で、どうやら自分は
    プレステのコントローラーを握ったまま、眠っていたようだった。
    肩が不自然に凝っているうえに体のあちこちがぎしぎし鳴り、頭が重い。
    ベットを覗くとサンジのいつもの寝顔が見えて、
    そのやすらかな様子に思わず腹の底から大きなため息が出た。
    キスをしたのは、1度きり、しかもあれはエイプリルフール。
    こいつは都合のいい大人、都合のいい場所、としての認識しかないんだろう、
    と思ったら自分を取り巻く空気が重くなったような気がして、
    その考えを振りほどくようにほとんどやつあたりのように小さな頭を軽く叩くと、
    ボケたか、クソジジイ・・ゼラチンは大さじ2だ・・・と夢の中から返され、
    その声に自分の周り半径30センチ四方が
    窓の外の青空とうらはらに、どんよりと曇った。
    はぁー、と声で言い、起きそうにもないサンジを置いて
    より一層重くよどんだ空気とともに、こっそり部屋を抜け出した。
    情けねえ、誰の部屋だよ、とドアを背に呟き
    コンビニに行くために駐車場を横切りながら
    ふと上を見上げると、窓から小さな頭が覗いていて、
    センセー、俺にー、マミーとあんまんー、買ってきてー、
    と真夏にふさわしくないしかもサイアクな組み合わせを叫ぶ声がした。
    わかったよ、と聞こえないくらいの小さい声で返事をすると、
    走れー、早くしろー、とムカツク声が、セミのジージーいう声にかぶった。

    世間はいま、夏休みだ。

    「センセイ、あんまん忘れてる。」
    コンビニの袋をかさかさやってたサンジが顔を上げ、
    あからさまに不機嫌な視線で俺を見て、言う。
    「夏のコンビニにおいてあるわけないだろ。」
    「あんまん・・・あんまんじゃなきゃやだ・・・あんまん以外食べたくない。」
    あんまんひとつでこれだ。
    こんな子供に付き合っている自分がアホくさくやりきれなくなってきて、
    中華街でも行って来い、と突き放して言った。
    「行く。」
    はいっ、と勢いよく手を上げたかっこうで、言う笑顔のサンジ、
    不機嫌な顔はもうどこかへ行ってしまったらしい。
    まともにやりあっていたらきりがない。
    「行け。」
    「行こう。」
    ソファーに座る俺の腕をぎゅうぎゅう引っ張って、
    サンジは行こう、行こう、と繰り返す。
    「勝手に行けよ。」
    「連れてって。」
    「やだね。」
    ぷい、と横を見て言うと、テンションの下がったらしいサンジの、
    ケチ、という不機嫌な声がした。
    夏休みで暇を持て余しているのはわかるが、それを俺で潰されても困る。
    「なんとでも言え。」
    「ケチケチキンニク。ミドリンハゲ。バカインポマン。」
    ぴき、と額に青筋が立ったのが、自分でもわかった。
    インポなら苦労しねえだろうが、バカ、と思いきり言ってやりたい気がした。
    頭が痛い。きっとエアコン付けっぱなしがよくなかったのだろう、と思いたい。
    「誰がインポだ。」
    「なんでそこでキレんの?うわー、図星?」
    「んなわけあるかよ。
    いーからおまえもう中華街行け。そいでみやげに
    いつもお世話になってます、ありがとう、
    って北京ダックの2、3羽でも持って帰って来い。」
    しっしっ、と手でやる俺の顔を覗き込んだサンジは
    なぜか気の毒そうな表情をしている。
    「センセイ、なんか、卑屈になってない?」
    「なってねえよ。」
    「拗ねちゃったの?」
    「おまえがだろ?」
    じゃあさ、とサンジが、センセイ、チュウしたげるから機嫌直して、と
    にっこり笑うので、横を向いたまま、そんなんで直るかよ、
    と返した声がほんとうにサンジの言うとおり
    まるで拗ねているみたいに聞こえ、思わず頭の痛みが増した。
    「大丈夫、機嫌なんてすぐに直っちゃうくらいのチュウしたげるから。」
    白くて小さい顔が近づき、唇を食むようにして、
    色の薄い瞳が目の前で、開けろ、と催促した。
    緩く開くと、ぬるい温度の舌が入り込み、逃げる俺の舌を追って、動き出す。
    子供はベロチュウなんかすんじゃねえよ、と、その顔を離し、言うと、
    じゃあ、センセイが大人のキスして、えへ、というバカ丸だしで笑うので、
    大人をナメルと痛い目見るぞ、と言いながら、3度目のキスをした。
    しっかり数えてしまっている自分のほうがよっぽど子供かもしれない、
    と少し思い、やけくそみたいに、ぬるく赤い、舌を吸った。
    ちゅっと、大きな音を立て、唇を離すとサンジが、
    機嫌直った?と聞き、ねえ、中華街行こう、と続ける。
    「北京ダックは食わねえぞ。」
    ジージー、セミの声がして、
    窓の外には強い光と濃い影の、眩しい夏の光景が見えた。
    「ケチ。」
    「バンバンジーで我慢しろ。」
    キスのせいでやけに頭が重くて、出て行かない熱が溜まっているみたいだった。
    意識をそこから逃がすために、バンバンジーとチンパンジーは似ているな、
    と考えていたら、サンジが、きゃっきゃっ、と浮かれた様子で、ふたたび
    片手を上げ、うん、する、あんまんも食べる、と笑った。
    こいつが楽しいのならバンバンジーでもチンパンジーでも
    あんまんでもなにまんでももうなんでもいいか、と暑さと熱にやられた頭で思う。
    「センセイ。」
    「あ?」
    「あのさ、・・・ゾロって呼んでもいい?」
    初めて、俺の顔色をうかがうみたいにサンジが唐突にそう言ったので、
    らしくないだろ、と思いながら小さい頭の薄い髪をぐしゃぐしゃにして、
    勝手にしろ、とそっぽを向いて、言った。耳の赤くなっているのが
    彼に気付かれてしまわないといいと思いながら。
    思いっきり目をつむった笑顔で手を上げて、うん、する、と元気よくサンジは返事をする。
    教室でこいつがこんなふうな返事をしているのは見たことがない。
    なにがそんなに嬉しいのか、子供はまったく単純でいいよな、と
    車の鍵をチャラリ、と言わせ、行くぞ、と声をかけた。
    「うん、ゾロ。」
    「無駄に呼ぶな。」
    「うん、ゾロ、あのさ。」
    「なんだよ。」
    「俺のことも呼んでよ。」
    そう言って腕にまとわりつく、生意気で、暇を持て余した、夏休みの子供。
    玄関のドアを開け、夏の空気を吸い込み、大きく深呼吸をして、
    俺も大概甘いよな、と自嘲してから、いままでとは違う、
    少しだけの特別な響きと共に、後ろの彼の、名前を呼んだ。
    「サンジ。」
    「なに?」
    「・・・中華街の行き方教えろ。」
    うだるような暑さのなか太陽が背中を焼き、そうして、
    強い光の中でさえ、その肌の白は、負けないくらいの光を放つだろう。
    今年の夏は、きっと、忘れられないものになるはずだ。


    終わり



    ブルーライトヨコハマ


    動く歩道を早足で歩き、サンジはその終わりにかならずつんのめる。
    そして、ゾロゾロ、早く、と後ろを振り向き、
    間にいる人間が自分をじろじろ見るのを気にもせずに俺を呼ぶ。
    ランドマークで、ご飯を食べよう、夕方サンジが突然言い出した。
    ゾロ、ほんとーに、家が好きだよね、でもたまには外で食べよう。
    夏休みに入ってから、2・3回しかサンジは実家に帰っていない。
    おまえ、家の人に怒られないのか、と1度だけ尋ねたことがある。
    すると、ん゛ー、ばいびょうぶ、と口に冷麺を詰め込んだままの
    気の抜けそうな返事が返って来て、なにがどんなふうに大丈夫なのか、
    それ以上サンジは言わなかったし、俺も訊かなかった。
    夏休み中、サンジは俺の部屋で飼い猫のように暮らしている。
    空気を読むのがうまいのか、必要以上に寄って来ないし、
    ほっといて欲しいときはきちんと相手をほっといて、
    ほっといたまま空気みたいにそこにいる。
    そして思い出したように、俺に構う。
    昨日は物まねクイズに参加させられた。
    ライクアバージン♪と変な振り付けで歌うので、
    マドンナ、と言ったら、ぶっぶっぶうー、
    マドンナの物まねをするナタリーポートマンでしたー、
    などと返されて、痛む頭を抱え、つくづくと、
    アホに付き合ってたらキリがない、と思った。
    普段は、広告の裏に変な絵を描いたり、料理をしたり、
    思いついたレシピをノートの端に書きなぐったり、
    ―サンジの祖父はレストランのオーナーで、卒業後、
    サンジはそこに就職するのだと言う、だから、
    高3の夏休みにこんなにも暇を持て余しているのだ―
    本だなから勝手に本を取って来て読んだり、
    飽きたらソファーに丸まって、昼寝をしたり、
    ふらり、とどこかへ出かけては、ふらりとまた帰って来る。
    そのときの挨拶は、ただいま、だ。
    お邪魔します、ではなく、ただいま。
    その正しい発音に、相手の―俺の胸のどっかに、
    言い知れない感情が沸き起こるのを、サンジは知っているだろうか。
    「ここ、空いてて案外穴場なんだ。
    な、な、上の高いレストランいかなくても夜景綺麗だろー?」
    イタリアンとか、和食とか、ファミレスみたいな品揃えの
    セルフサービス形式のレストランの窓からは、港の明かりと、
    みなとみらいの観覧車と、車のテールランプが見えて、
    サンジが、あとであの観覧車乗ろう、と言った。
    ときおり人が振り返ってサンジを見る。
    そして俺と、サンジと、見比べたあとに、ひそひそとなにかを話すそれを、
    淫行教師とか言われてたら笑うな、と他人事のように思う自分がいる。
    サンジはいったいなにを思うのだろうと、真剣にメニューを見比べている横顔
    を覗くと、鶏肉と、魚どっちがいいかな、と言って、その眉間には軽く皺が寄っていた。
    きっと、彼には関係ないのだ。自分に関係のあることしか関係がないのだろう。
    教師と生徒という関係であっても、なぜか気が楽なのは、こいつがこんなふうだからだ、と思う。
    堂々としているというか、他人というものはもともと視界に入っていないのか、
    わたしちっとも間違ってません、と彼を取り囲む空気がそんなふうにいっている。
    年下になぐさめられてどうするのだ、と情けなく思いつつも、
    魚、と言うと、じゃあ鶏肉にする、とサンジは言う。
    「おまえが訊くから言ったんだろ?魚にしろよ。」
    「いいの。」
    「なにが。」
    「センセイは学校の外くらい生徒に言うこと聞いて貰えなくてもいいの。」
    「どんな理屈だ。」
    「俺の理屈。」
    「何様だよ・・・。」
    「俺様?っていうか王子様?」
    にへ、とバカっぽい顔で笑うので、バカ王子、と
    メニューを見ながら適当に返すと、ぷーん、と拗ねた声がした。
    「ぷーん。いい、もう、ぜったい、鶏肉にしよう。」
    「拗ねてるのか腹空かせてるのか怒ってるのかはっきりしろよ。」
    「拗ねてないし怒ってもねえよ。」
    少しだけ責めるようにサンジの目が俺を見る。
    「腹空いてると人間短気になるもんな。」
    「違うだろー?じゃれてんだろ。」
    「・・・おまえ・・わかりにくいんだよ。」
    ため息まじりにそう言うと、わかりやすくてどうすんだよ、
    といまだ責めるような目で身長のあまり変わらない
    サンジが、少し上目遣いの視線を寄越した。
    「俺が助かるだろ。」
    「どうせ前の彼女とかと比べてあいつのあのときと一緒だったー、
    とか思うんだろ、おまえなんかなー、北海道に帰っちまえ。」
    「俺、実家は福島なんだけど。」
    「寝ぼけるなよ、マリモの故郷は北海道だ。」
    「わかったわかった、拗ねんな。来週連れてってやるよ。」
    そう言ったら、目をキラキラさせて、ウニ?とサンジが訊き返す。
    「なにがウニ?」
    「カニ!?」
    その目はキラキラと期待に満ち溢れている。
    思考が飛躍しすぎているような気がして、あのな、とため息と共に言った。
    「北海道の話じゃねえぞ。」
    「じゃーどこだよ。」
    「福島。」
    「いーやーでーすー。行きませんー。
    盆地は夏は暑いんだって地理で習いましたー。」
    「おまえ、少しは感動するとか、照れるとか、はっとするとかねえのか。」
    「どこ見てんだよ。 充分感動してるし、照れてるし、はっとしてんだろ?」
    そう言う逆ギレのサンジは
    いつもと少しも変わりのない表情だったが、
    目の下がほんのりと赤かった。
    「わかりにくいんだよ。」
    「学習しろ、マリモ頭。」
    「そういうのって鳥頭って言わねえか?」
    「センセー、そういう生徒の個性を否定するよな発言はいけないと思いますー。」
    目の下の赤いままのサンジが唇を尖らせて、アホなことを言う。
    「とりあえず、魚な。」
    頭を撫でてそう言うと、あー、もうすぐ観覧車終わっちゃうかも、
    と窓の外に視線を移したサンジが、観覧車ー、と残念そうに、呟いた。
    これは、きっと、彼なりの照れ隠しなのだろう。学習能力はこれでも高いのだ。
    「また今度でいいだろ。それに」
    「それに?」
    「夏休みははじまったばっかだしな。」
    笑って顔を覗きこむと、むー、とした顔のサンジが、こちらを軽く睨み、
    俺の手を頭に乗せたまま、チキン下さい、とカウンターの奥に声をかけた。

    終わり



    六本木心中


    「ぜったい、ふりむくなよ。ふりむいたら絶交だぞ。絶交。
    絶交されたくなかったらふりむくんじゃねえぞ。な、わかったか?」
    背中越しのサンジがぎゃんぎゃん言う声がせまい浴室に反響する。
    「・・・・わかったよ。」
    小さく言った声もかすかに反響して聞こえる。
    「よーし。じゃあ、100まで数えろ。」
    背中から、声がする。
    ぴたりとついたそこからとくとくと心臓の音がするのと、
    しめった肌の感触に、体温がじわりと上がるのを、感じた。
    ごまかすように、でかい声を出す。
    「はぁー。」
    「これみよがしなのやめろよ。」
    背中の声が、言う。
    「なにがダメなんだよ。」
    ぱしゃんはしゃん、とサンジが水面を叩く音がして、
    ときどき動く背中の奥では変わらないリズムが刻まれる。
    「どうしてもー。」
    「どうしてもの理由を言え。」
    「どうしてもに理由なんかあるかよ。」
    「はぁー。」
    「いーちにーいさーん。」
    「なあ。」
    「んー?」
    「しりとりしねえ?」
    我ながらアホな提案だ。
    けれど、背中の肌の感触とか、心臓のリズムとか、
    そういうものから意識を反らしたかった。
    「やりませんんんー。百まで数えるんですう。」
    間延びした語尾を相手にせず、しりとり、と
    うむを言わせぬ語調で言った。
    俺もこいつに甘いが、こいつもなんだかんだで俺に甘い。
    甘いというのとは少し違うかもしれない。
    「うー・・・りんご。」
    「ごま。」
    「まる。」
    「それ・・」
    「まーるー。はい、つぎ。」
    「ルビー。」
    「ビール。」
    「ルばっかじゃねえかよ。」
    「ル。」
    サンジが言葉を発するたびに背中の感触が少し変わって、
    それがまた、体温を上げることになるのを、止めたかった。
    なにが楽しくておとなしくしりとりなんかしているのだったか、
    そうだ、ふりむいたら絶交などとこいつがアホなことを言うからだ。
    アホくせえ。本気でアホくせえ。
    だいたい、ナイターを見てた俺に
    一緒にお風呂はいろ、なんてかわいこぶって言ったのは
    こいつだろ、なのになんでこんな状態で生殺しなんだ、
    間違ってねえか、7回の裏から、ゲームは一体あれからどうなった、
    というかそこは問題じゃねえ、どうでもいい、脱生殺しだ、問題はそこだろ。
    「・・サンジ。」
    「ルじゃねえぞー。」
    「おまえさ。」
    「強引だな、おい。」
    「なんでヤらしてくんねえの。」
    「おまえ、あれだな。」
    「なんだよ。」
    「100%自分が突っ込むと思ってんだろ。やなやつ。」
    「そりゃそうに決まってんだろ。年上は敬えよ。」
    「それではセンセイから質問です、はい、ロロノアくん。」
    「アホくせえ。」
    「ロロノアくんの夜のオカズはなんですか。」
    「なんの質問だよ。」
    「聞かれたことには答えましょう。」
    「100数えなくていいのか。」
    「なんだよ。」
    「質問の意図がさっぱりだ。」
    「うわ、おまえ、あったまわり。
    だーかーらー、ゾロが俺オカズにして、
    想像して、俺一体どんなことなってんの、いやーん、
    ってくらいにもうサルみたいにかわいそうなくらい
    シコシコやってるレベルだったら
    同情してあげなくもないっておはなしですー。」
    小バカにされている。
    バカにされているよりもっとバカにされてるかんじだ。
    子供のくせに、生徒のくせに、大人を、教師を、
    一体なんだと思っているのだ。
    「おまえ、俺のことなんだと思ってんだよ。」
    「ガッコのセンセイ。」
    「はぁー。」
    「ため息ひとつ吐くごとに幸せはひとつづつ逃げて行くんだぞ。」
    「サンジ。」
    「あ、ふりむいた。ひどい。約束破ったわね。絶交よー。」
    絶交よー、と言うサンジの手のひらを合わせたところから
    水鉄砲の形で顔面にお湯が飛んでくる。
    手で顔を擦り、目を開けると、目のまえに
    意地悪く笑ったほんのりと赤い顔があった。
    「なんでふりむいたらだめなんだよ。」
    「なんとなく。」
    「サンジ。」
    キスをすると、ん、とその唇の端から声が漏れる。
    キスの最中に声を出すのはこいつのくせだ。
    鼻から抜けるような声。
    こいついっつもこうなんだろうか、と
    はじめてのときに少し思い、
    自分よりも短い彼のいままで、
    人生のこれまでのことを考えて
    軽く落ち込んだことをこいつは知らない。
    のぼせような頭のくらみを感じ、唇を離すと、
    サンジが、にへえ、としまりのない
    さきほどよりも赤い顔で笑い、言う。
    「っていうか、俺さ、風呂上がりとか、ヤバいじゃん。
    もう色気ふりまいちゃって、しょうがないからー、
    入浴中はなおさらヤバいってかんじだろー?
    おまえが気の毒かなー、と思ってやったのに、
    ふりむいてんじゃねえぞ、淫行教師。」
    「おまえのその自信はどっからくんだよ。」
    「どっからってそりゃ、この足に当たってるモノから?」
    生意気な顔で言って、サンジは俺の半勃ちのに、膝で触れる。
    「・・・・死ねよ。」
    「やだね。死んだらおまえ泣くし。」
    膝で触れながら、人の頬をひっぱる。
    誘ってるのか、遊んでるのか、
    非常に判断に困るそんな態度だ。
    「泣くかよ。」
    「ぜったい泣くね。
    おいおい泣くね。めそめそ泣くね。
    それにさー、おまえの場合
    後追いとかしかねないから怖いよなー。
    というわけだ、どう考えても俺死ねないだろ。」
    頬をひっぱったり、離したり、せわしなく動く手は、
    いつもの温度の低いそれとは違い、
    湯で温まり、指先はピンクの色をしている。
    その仕草に、非難がましい目を送る。
    「なんだよその目。つーか、この当たってるモノどうにかしろよ。
    気になってゆっくり湯船に浸かれないだろー。」
    「同情されるのは好きじゃねえんだ。」
    頬をひっぱる手を握り込んで、その目を捉えて、言った。
    「ふうん。」
    「でも、」
    言いかけた言葉を、ま、俺も
    同情なんてするの嫌いだしー?浴室によく響く声がさえぎった。
    くじけてしまわぬように、握り込んだ手に力をなおさらこめて、言う。
    「オカズじゃなくて実物がいい。」
    そう言うと、サンジは、にや、としてから、
    でもむかしっから、正直者は大抵バカを見るんだよな、と舌を出す。
    この生意気な子供は大人をからかうのを趣味にしている。
    こうして大人をらかい、煽るのだ。
    「てめえ、殺すぞ。」
    「わりぃな、無理心中は趣味じゃねえよ。」


    終わり





    Memory 青春の光



    サンジがいなくなった。
    テーブルの上にメモだけ残して、サンジは
    ここへやって来たときとおなじくらいのそっけなさでいなくなった。
    最初の3日は実家へ帰っているのだろう、と思うことにした。
    6日目、だんだんともうあいつは帰って来ないのではないかと
    いう思いが沸き起こり、不安が背中を這い上がってきた。
    8日目からはかなしいよりも、さみしさよりも、怒りのほうが、強くなった。
    10日目は、2学期のはじまりだった。

    「先生は御存知かと思っていましたわ。」
    2学期のはじまりのその日、
    学校にもサンジは姿を見せなかった。
    サンジの担任のポーラに声をかけると、まあ、
    御存知なかったんですか、と驚かれた。
    日の差さない教員室前の薄暗くひんやりとした廊下。
    生徒が俺とポーラの横をばたばたと走って行く。
    「はぁ・・なにを、ですか。」
    「あの子、前期で学校辞めてるんですよ。」
    「はあ?」
    「夏が終わったら、フランスに行くそうです。
    もう春には話が出ていましたので・・・
    ロロノア先生なら、もうとっくに御存知だと、私・・。」
    そう言って、ポーラは俺の顔色を探るようなそぶりをみせた。
    なにかを、知っているのだろうか。
    けれど、なにを知っていても、もう、どうすることも出来ない。
    だって、もうサンジはいないのだから。
    「なんで、フランスですか?」
    「あの子のおじいさまが、フランス人と再婚なさったそうなんです。
    再婚って言っても、本当に、再婚と言いますか、
    前の奥様ともう1度御結婚されたそうで、それで
    フランスに奥様とお住みになるのに、あの子も着いて行くみたいですよ。
    まあ、あの子には合っていると思いますけど、フランス。」
    そこで、ふと、思い当たった。
    フランス語。流れるような綺麗な文字の。
    「フランス・・・・。だからか・・・あのアホ。」
    「アホ・・ですか?」
    「いえ、すみません、こっちの話で・・。
    お引止めしてすみませんでした。」
    ポーラに背を向けて、廊下を歩きながら
    メモに書かれた言葉を思い出していた。
    汚い日本語の最後にぽつん、と書かれた
    綺麗な文字のフランス語、
    わざわざ辞書を買ってきて言葉の意味を調べたのだ。
    かっこつけているつもりか、おちょくられているのか、
    わからなかったけれど、意味は知りたかった。


    センセイ、俺が死んだら
    きっと泣くって思ってたけど、
    もしかしていまも泣いてる?
    それともまだ
    なんかの遊びだと思ってる?
    でも今回は、遊びでも冗談でもないんだ。
    ほんとうのほんとう。

    書くまえはいっぱいいろんなこと思ってて、
    この紙100枚くらいに
    いろんなこと書いてやろう、って思ってたのに、
    いざとなると不思議ですね、なにも思い浮かびません。
    いろんなことが楽しかったのに、いろんなことで笑ったのに、
    そんなこと全部どっかに行っちゃうくらいに、いまはさみしいです。

    もう、夏休みが終わります。夏も、すぐに終わるでしょう。
    セミが、夏を惜しむように、
    最後の力を振り絞り、羽を擦り合わせて鳴いています。
    ずっと、夏が、好きではありませんでした。
    でも、きっと、今年の夏だけは、
    ずっとずっと、愛することが出来ると思います。

    ありがとう。
    夏を好きになれたことに、ありがとう。
    いろんなことに、ほんとうに、ありがとう。


    追伸

    緑色は趣味が悪いから、
    別の色に変えたほうがいいよ。

    サンジ


    その手紙の終わりに、小さく、綺麗にフランス語が書かれていた。
    注意しなければ気付かないほどの、小さな、文字。

    あなたがわたしを忘れてしまってもかまわない
    わたしはあなたを忘れないのだから


    午前の早いうちに授業の終わった誰もいない教室で、
    窓際のサンジの席に座り込んだ。
    窓の外には高い高い空が広がっている。
    雲がゆっくりと移動し、空の模様は
    少しづつゆっくりと変化して行く。
    フランスの空も、こんなふうに青いだろうか。
    いつも、サンジは、窓の外をぼんやり眺めていた。
    その彼に、窓の外になにを見ているのだ、とそう訊いた。
    ―ユメ。
    ―手の届かない、なくしてしまった、そういうもの。
    彼のいつかの言葉を思い出し、そうして青い空に流れ行く雲を追った。
    遠い空を眺め彼が思うのが、俺だったならいい。
    なくしてしまった。手の届かない。
    けれど、そんなユメに似た、もの、いまそれは、俺にとっての、サンジだ。
    彼にとっては、どうだろうか。
    ―あなたがわたしを忘れてしまってもかまわない
    忘れるわけがないだろう、おまえ、どれほど
    俺の生活をかきまわしたと思っているんだ。
    静かに席を立ち窓を開けると、夏の名残の暑さがむっとたちこめ、
    そこではじめて、俺のもとに、ほんとうのさみしさが、やって来た。


    終わり

     

     

     


    パリの空の下オムレツの匂いは流れる その1
    (教師びんびん物語シリーズ最終回)



    シャルル・ドゴール行き714便に乗り込み、
    シートに体をうずめると、とたんに疲れがどっと押し寄せて来た。

    サンジの祖父がやっていたレストランを尋ねようと思ったのは
    秋の終わり、あんなに暑かった夏がもう、
    その気配も感じさせぬほどに遠くへ行ってしまった頃だった。
    怒りも、さみしさも、消化され、穏やかに彼を思えるようになったそんな頃だ。
    麻布の住宅街にあるそこになかなか辿りつくことが出来ず、
    公衆電話から連絡を入れると、パティと名乗る
    現料理長だという男が電話口で、迎えをやる、とそっけなく、言った。
    迎えに来た男は俺をじろじろ見まわしたその後に、
    みんなさ、サンジのことが好きだったんだ、ぽつりと言い、
    着いて来い、と夜の静かな住宅地を先に進んだ。
    想像していたよりもずっと立派なそのレストランのVIPルームに通され、
    その5分後に、パティと名乗る男がやって来た。
    あんた、サンジのパリの住所が知りたいって、どういうつもりか
    聞かせてもらおうか、事と次第によっては悪いが、ただで帰す訳にはいかない。
    静かにクラシックが流れる店内の薄いピンクの壁紙に目をやって、
    それから、料理長の目を見据え、去年自分はサンジの担任だったこと、
    夏休み中、サンジはうちに居たこと、
    自分と彼は、世間的には間違いであるかもしれないが、
    恋人と呼べるそんな関係であったこと、正直に全部、話した。
    正直者はバカを見る、サンジが言っていたことを思い起しながら。
    黙って俺の話を聞いていたいかつい料理長は、すべての話が終わると、
    サンジは、きっとあんたが好きだったのだと思う、と小さく言った。
    中学の頃のあいつはもう、目も当てられない反抗期の子供だった。
    高校に入ってもそれは変わらずに、
    家に帰って来ることなど週に数えるほどしかなかった。
    変わったのは、ロロノア、あんたがいたからだ。
    サンジは変わったよ、たしかに。
    やさしくなった。いや、やさしい部分を
    前から持っていたのはこのレストランの連中ならみんな知っている。
    それが、あんたと出会った頃から前面に出てくるようになった。
    このレストランの連中はなあ、みんなサンジが好きなんだ。
    自分の子供みたいに思っている。
    ロロノア、サンジはどうしようもなくひねた子供だ。
    さみしかった子供時代とか、そういうものがそうさせたんだ。
    料理長がそこまで話終えたとき、テーブルに前菜が運ばれてきた。
    カニのサラダ、サンジの考案したメニューだ、皿を見つめ、料理長が言った。
    コールスローみたいな味付けのそのサラダは、
    ケンタッキーのコールスローなどとは比べものにならないほどに美味かった。
    サンジは、料理が好きなんだ。
    ときにはオーナーよりも的確なアドバイスをくれた。
    サンジは、どんな言葉でも言い尽くせないほどに、いい子だった。
    パリの住所が知りたいか、料理長は言って、俺の目を見た。
    知りたい、彼に会いたい、この先がどうなるのだとしても、
    彼に会わなければ、自分の気持ちは収まらないのだと、俺は言って、
    料理長は、その俺をじっと見て、それからため息をひとつ吐いた。
    サンジは、あんたが好きだって、言っていた。
    オーナーもそれを知っている。
    サンジを、まだ好きならば、行って、あいつに言ってやって欲しい。
    この先も、変わらないのだと、言ってやってくれ。
    サンジは、遠い昔に多くを失った。
    だから、信じられないのだ。
    今がずっと続くことが、信じられないんだ。
    ロロノア、サンジは、本当に、いい子なんだ。
    あんたにはもったいないほどにいい子だよ。

    スチュワーデスが俺の傍へやって来て、言った。
    ご気分でも・・・。
    いや、いいんだ、大丈夫だ。
    悪いが、なにかアルコールを貰えるだろうか。
    ええ、すぐにお持ちします。
    あの、本当にご気分は・・。
    本当に大丈夫だ、眠ってしまえば楽になるだろう。
    運ばれてきたアルコールを胃に流し込み、目を瞑った。
    あまりにも速いスピードで飛ぶ飛行機は、
    まるで空に停滞しているようだ。

    俺は11年前の夏をいまでも覚えている、
    と料理長は言い、スープ―サンジの得意だったという
    ジャガイモのポタージュ―をすする俺をよそに、
    ごつい指でエスプレッソの小さいカップを持ち上げた。
    記録的な猛暑の夏だった。
    レストランの入り口に置き去りにされた
    あの小さな子供を、俺はいまだに忘れることが出来ない。
    唇を噛んで、必死になにかを耐えていたその子供がサンジだ。
    サンジは母親に捨てられた。
    オーナーは、サンジの父方の祖父だ。
    母親は身寄りのない女だったから、
    とりあえず、ってことでレストランに置いて行ったんだろうな。
    サンジの父親は早くに亡くなったんだ。
    そのときにオーナーが引き取るっていう話も出た。
    だけど母親は自分が育てると言って譲らなかった。
    それなのに、だ。
    自分に好きな男が出来ると、
    ・・・そいつはアルゼンチンの男だったんだが、
    サンジを捨てて地球の裏側まで行っちまった。
    だからあいつは夏が嫌いなんだ。本当に、大嫌いだったんだ。
    ロロノア、一時の熱に浮かされたような気持ちで、
    サンジに会いたいっていうのなら、止めて欲しい。
    サンジの気持ちが俺にはわかるよ。
    捨てられるまえに、今度は自分から捨てたんだ、とても、大切なものを・・・。
    そこまで言って料理長は持ち上げたままのカップから、エスプレッソをすすった。
    サンジが淹れるエスプレッソは特別に美味いんだ。
    最後にそう言って、料理長は厨房に帰って行き、
    テーブルの上には、パリの住所が書かれた紙が乗っていた。

     

    パリの空の下オムレツの匂いは流れる その2



    飛行機はゆっくりと厚い雲間を抜けて、異国の地へと下降してゆく。
    みれんがましい男だと迷惑がられても、もう1度、サンジに会いたかった。
    休暇願いはすぐに受け入れられた。
    赤い頭の校長は、うれしいようにも、かなしいようにもとれるそんな表情で
    目を細めながら、人生なんて、後悔ばかりだ、後悔のない人生なんて
    ありえない、ロロノア、おまえは掴むべきものを知っているはずだ、
    ちゃんと、捕まえて来い、穏やかにそう言って、
    なんなら辞職願いも一緒に受けとってやろうか、と笑った。
    もしかしてすべては筒抜けなのかも知れない、と思う。
    狭い街で、サンジは俺の部屋へ通っていたのだ。
    誰が知っていてもおかしくはない。
    けれど、たとえ自分達の想いが間違っていようとも、
    それを決めるのは、他人ではない、他ならぬ、俺達だ。
    自分達が間違っているなどと思いさえしなければ、きっと、大丈夫。
    手をきつく握り込んだ。
    ご気分はいかがですか。
    さきほどのスチュワーデスが俺のもとへやって来て、言った。
    ああ、大丈夫だ、ありがとう。
    肩の力を抜くことも必要ですよ、どうぞよいご旅行を。
    スチュワーデスはそう言ってやわらかに微笑んだ。
    ありがとう。
    彼女の後ろ姿にそう言ってから、
    何度も頭で反芻した住所を、もう1度、口の中で繰り返した。
    それから、彼の名も。


    タクシーに乗り込んで、住所を言うと、
    運転手は軽く頷き、そして車が走り出した。
    とうとうこんなところまで来てしまった。
    自分がこんなふうな行動を起こせる人間だった
    ということを25年目にして、はじめて知った。
    さようなら、と言われても、電車で2駅の距離でさえも、
    自分はこんなふうに未練がましく
    去って行った誰かを追いかけるような真似をする人間ではなかった。
    執着しているのだろうか、と思う。
    最後までなつかなかった、気まぐれで生意気なあんな子供に、
    もしかすると自分は、意地になっているのかもしれかった。
    なつかない動物をなつかせようと、意地になる、サーカスの団長。
    まるでピエロだ。
    しばらく首都高にも似た道路を走ると
    車窓の向こうに大きなスタジアムが見え、
    運転手がちらりとこちらを振り向き、なにかを言った。
    わからない、という顔をすると、
    ここで去年の春に日仏戦をやったのだ、
    たどたどしい英語でそう言い、フランスの圧勝だった、と笑った。
    悪いけどサッカーは興味がないんだ。
    珍しいね。じゃあ、あんたはなんに興味があるんだい?
    そうだな、これから会いに行くやつ、だな。
    恋人かい?
    ああ。
    そりゃいいね。
    あんたのいい人が待ちくたびれてしまわないように飛ばすとするか。
    そうして車はしだいに加速してゆく。
    距離が、どんどん近づいて行くのを感じた。


    紙に書かれた住所にあったのは、
    うすいクリーム色の外壁の小奇麗なレストランだった。
    深呼吸をひとつして、ドアを押して中に入ると、
    ウエイターがやって来て、フランス語で何かを言った。
    サンジ、というやつはここにいるか、自分は日本から来た、彼の友人だ。
    英語でそう伝えると、ウエイターは俺を不躾にじろじろ眺めまわし、
    それから、少し待て、と言って、奥へ引っ込んだ。
    「あー、ゾロ。」
    後ろから突然声がして、驚いた。
    「なにやってんの?旅行?」
    振り向くと、見たことのないセーターとジーンズと
    ダッフルコートの妙にすがすがしい笑顔のサンジが、いた。
    「目の下とかクマ酷いよ。飛行機眠れなかった?」
    実物が目の前にいるというのに、突っ立ったまま、
    コートの袖口から覗くセーターの毛玉とか、靴の汚れとかに、呆然と目をやった。
    そういうものを見るために、こんなところまでやって来たわけではないのだが。
    「つーかついてねえな、おまえ。いまストでルーヴルは入れねえぞ。」
    矢継ぎ早の言葉に、なにを返せばいいのかわからず立ち尽くしていると、
    さきほどのウエイターがやって来て、サンジになにかを言った。
    その言葉に笑って、2・3言返すと、
    外、出よう、とサンジは俺の腕を引いてドアを押した。
    静脈の浮いた、白い手、サンジの手だ。


    「フランス語出来たのか。」
    「出来ないよ。日常会話はなんとなく・・・かな。
    ちょっとは知ってたし、それにばばあがフランス語しか喋れないからなー、
    ま、人間せっぱつまったらなんでも出来るようになるってことだ。
    おまえみたいに。なー、ゾロ。」
    「・・・・おまえ、俺になんか言うことねえのか。」
    「なに?あ、そっか。ひさしぶり!」
    にっこりと笑って、サンジが言う。
    曇った空には低く雲がたれこめている。
    「違えよ。」
    知らない街の匂い。
    久しぶりのサンジは、いままでの少し浮いた、なじめないあの様子が
    どこかへ言ってしまったかのように、まわりの風景にぴたりとはまり込んでいた。
    たしかに、彼には、この国の血が混じっているのかもしれない。
    「じゃーなんだよ。なぞかけか?」
    「違うつってんだろ。ごめんなさいだよ。あやまれ。」
    「なんで?」
    「突然いなくなりやがって、てめえ、俺のことなんだと思ってんだよ。」
    犬を散歩させた中年の女が俺達をじろじろ見ながら去って行く。
    足元の石畳見つめ、サンジが呟くように言った。
    「だから前にも言ったじゃん、ガッコのセンセイだって。」
    「ったく。おまえはなんなんだよ。
    俺は、教師はやめだ。おまえはもううちの生徒じゃないしな。」
    そう言うと、サンジはぱっと顔を上げ、
    驚いたような、困ったような、ひどく幼い顔をした。
    「ガッコ辞めたの?」
    「おまえほんと頭悪いよな。」
    「なんだよ、失礼だな。」
    「おまえが、俺のこと、なんと思ってようとも、
    俺にとっておまえは生徒じゃねえから。」
    「・・・ふうん。」
    「もっと他になんかねえのか。」
    「んー・・・ごめん、ない。」
    レストランのドアのほうから、ディナーの仕込みだろうか、
    食欲をそそる香ばしい匂いが流れてくる。
    「てめえな。・・だいたいなんで黙って行くんだよ。
    一言なんかあるだろうが。言えばほかにやりようがあっただろ?
    マイルだってがんがん貯まっちまったかもしれねえだろ。」
    「おまえ意外にせこいな・・・あれだよ、
    だれもいない海ふたりの愛を確かめたくって、ってやつ。」
    サンジは、言って、困った顔をしながら、笑った。
    泣き出しそうにも見える顔だった。
    「わけわかんねえ話はやめろよ。」
    「あなたの腕をすり抜けてみたの。」
    小さく、言葉が呟かれる。
    足元の歩道を蹴りながら、サンジは、南沙織、なつかしいだろ、と続けて言った。
    「バカか、そんなことしてなんになんだよ。」
    「わかんねえ。」
    「自分でもわけわかってねえことすんな。ドアホ。」
    「アホ言うな。・・・立ち話もなんだからさ、部屋に来る?荷物も大変だし。」
    そうサンジは言って、俺の返事も待たずにレストランの隣の小さなドアを押す。
    その後ろ姿に、ふと、あんなに一緒にいたくせに、
    サンジの部屋に行くことはこれがはじめてであることに気付いた。
    「大丈夫だよ、ジジイはここには住んでない。
    レストランにも今日は顔出さないからさ。」
    薄暗い階段の横のエレベーターは、昔映画で見たように、
    でかい音を立てる、旧式のエレベーターだった。

     

     

    パリの空の下オムレツの匂いは流れる その3




    雑然と物の積め込まれたその部屋は
    壁の白い、ベッドと、簡単なキッチンの狭い場所で、
    薄くかすかに生活の匂いがした。
    「椅子ないんだ。ベッドに座っててよ。いまコーヒー淹れるから。」
    「エスプレッソがいい。」
    「え?なんで?好きだったっけ?」
    「エスプレッソくれ。」
    「いいけど。・・・じゃ待ってろよ。」
    ベッドに腰掛け、横を見ると、
    俺の写真が貼ってあるのに気付いた。
    大口を開けた、眠っている俺の写真。
    いつのまにこんなものを撮ったのだろう。
    寝顔の額に大きく、肉、と書かれている。
    なにがしたいんだあいつはいったい。
    「あーー!!!」
    すると、突然、サンジのでかい声がしたかと思うと、
    ベットにいきなりダイブし、そして写真をひっぱがし、俺の上に跨りながら、
    見た?見た?見てないよね?つーか見た?やっぱ見た?見たでしょ?ねえ?
    と写真を後ろ手に隠し、しつこいくらいに、焦った様子で繰り返した。
    「見た。」
    にやり、と笑うと、いまのなしね、なしって言うまで抓るからね、
    と、写真を床に落としたその手で頬をすごい力で抓られた。
    「痛え。痛え、痛え。わかったって、なし、なし、なし。いまのなし。」
    よーし、そう言って、手の力が緩められた。
    「痛えってことは夢じゃねえってことだよな。」
    抓っていた両手を握り込み、上を見上げると、
    長い前髪が顔にかかり、サンジが顔を覗きこんで、
    なに言ってんの、と笑ってから、エスプレッソはあとにしよう、とキスをする。
    何度も、何度も、瞼も、鼻も、頬も、唇も、すべてに、何度も。
    コーヒーの豆の匂いが、キッチンのほうから、ほのかに香る。
    何度も、繰り返したあとで、サンジは顔を離し、ゾロだ、とぽつんと言った。
    「ゾロだなー。」
    「なんだよそれ。」
    「まんまだよ。」
    頬をべたべたと触る手は、ひんやりとして、熱を持たない。
    そうだ、サンジの手だ。サンジの手の温度だ。
    「わっかんねえ。」
    そんなふうに言いながらも、サンジのいうところの意味は、理解出来る気がした。
    「単細胞マリモには俺の複雑な心なんてわかりっこねえんだよ。」
    「言ってろ、ハゲ。」
    何度も、やわらかくキスが落とされる。
    「ハゲてねえよ。」
    「ハゲてんだろ、薄過ぎて頭皮見えそうなんだよ、てめえの髪。」
    「・・・なんか、ケツに当たってるモン既に固いんだけど。溜まってんの?」
    腰を揺すって、ケツを俺のに押し付けて、サンジは笑う。
    さっきからその手は俺の上着ををぎゅう、と握って離さない。
    「どっかアホがヤらしてくんねえからな。」
    「ひとりでしなかったの?」
    「オカズじゃ嫌だって言っただろ。」
    「それは前の話じゃん。」
    「てめえはなあー、ほんとに・・・・、教師泣かせた罰として、
    めちゃくちゃにしてぐちゃぐちゃにしてひいひい言わせてやるから覚悟しとけよ。」
    「どーこーのエロ親父だよ。つーか泣いたんだ?かわいー、ゾロ。」
    なで肩の、幅の狭い肩を揺らしてサンジは、おかしくてしかたがない、と笑う。
    天井に足音が聞こえる。そして人の気配。
    俺の知らない場所で繰り返された彼の生活、その匂い。
    「かわいいとか言うな。」
    「んー、でも、かわいい。こんなとこまで来ちゃうし、かっわいい。」
    頭ごと抱きすくめられる。
    ハゲた頭をゆっくりと確かめるように撫でた。
    「ばっかじゃねえの。」
    「んっ・・なんか俺ももうかちんかちん。」
    俺の手を、そこへもって行き、ね、かちんかちん、と繰り返す。
    「しょうがねな、若いってのはそういうもんだ。」
    冷えた手とは違い、サンジの口の中はとても温かかった。
    絡み合う舌、濡れた唇を離し、糸を引かせたまま、
    おっさん臭え、サンジは笑い、それから、もう1度キスをする。
    「ま、少なくともおまえよりはおっさんだからな。」
    「そうだなー、8つも違うもんな。」
    言いながらサンジは次々に服を脱ぎ捨てる。
    スチーム暖まりきらない部屋の温度に、鳥肌の立っているのがわかる。
    「ま、それくらいになるとだ、
    おまえなんか知らないことも知ってんだ、偉いからな。」
    起き上がって、上着を脱ぎ捨てた。
    脱ぎ捨てたところに、さっきの写真がある。
    大口を開けた間抜けな寝顔。
    あっという間に下着だけになったサンジが、
    なにそれ、と抗議がましい声で言う。
    白い体が午後の日差しに照らされ、彼をまるで
    夢のなかでしつらえられたマネキン人形のように見せる。
    それでもこいつは熱の通った、そして名を与えられた、
    生意気でなつかない、人形ではない、人という動物だ。
    サンジ、という名前の。
    「真実の愛なんてどこにもねえってことだよ。」
    セーターも全部脱ぎ捨ててから、そう言って、キスをする。
    どろどろの、ぐちゃぐちゃの、下半身直撃、とサンジの言っていたやつだ。
    それでも、そんなどろどろでも、ぐちゃぐちゃでも、
    胸のつまるこんな想いが沸き上がってしまうのは、たぶん―
    「んー・・・なんかヤってることと言ってること違くない?」
    とろん、とした目のサンジが言って、くしゅん、とひとつくしゃみをした。
    「けどな、続きがあんだよ。」
    そうだ、教師と生徒だとか、恋人だとか、
    この関係につけられる名前がなんであっても、かまわない。
    唇に、耳に、首筋に、鎖骨に、キスをして、
    きゅっと、乳首を摘むと、弱く抗議の声が上がる。
    「あっ・・ちょっ、・・。」
    「真実の愛なんてどこにもねえけど、でも、
    世の中信じたもん勝ちだってことってことだ。
    そっちがほんとうの真実だな。知らなかっただろ、おまえアホだから。」
    「なんで、そんなに、ペラペラ・・、喋ってんの?ゾロ、キモ・・イ。」
    とぎれとぎれに、生意気な口をきくその目の下はうっすらと赤い。
    「手は動いてんだろ、貧乳。」
    「うわひっでえ、つーかさ、手だけじゃなくて
    喋ってる暇あんだったら、キスしろよー、キースー。」
    唇をとがらせたまま、寄ってきた顔に、舌出せよ、言って、絡め、
    サンジは、合間に、相変わらずの鼻にかかった声を漏らす。
    天井の上で人の気配が続く以外は、とても静かな場所だった。
    車の音も聞こえない。世界から切り離されたように感じるほどに、
    しんと静かな部屋に、サンジの湿った息が、流れる。
    その首筋からはシャンプーの残り香と、タバコの―
    「おまえ、タバコ吸ってたか?」
    「んん、たまに。でもさ、こっち高いんだよ、タバコ。
    シケモクとか生まれてはじめてしたけど、すっげえまずいの。」
    「未成年のくせにな。」
    その肌に舌を這わせると、サンジの身体はおもしろいようにぴくぴくとなる。
    寒さで小さくなって尖った乳首に吸いついた。
    サンジの肌の匂い、なつかしい、艶かしい。
    「でもあん、ま・・、吸うとな・・、
    ジジイが、うるせ・・んだよ、りょり・・に・・にタバコ、は、ごは、っとだっ・・て。」
    「なに言ってんのかわかんねえよ、しっかり喋れ。」
    「おま、の、せいだ、ろ。」
    「じゃ、やめるか。」
    「だ、や・・な、・・で、きゅっ・・し・・て、し・・たも・・触っ、て。」
    「すげえ、ぐしょぐしょ。ひとりでヤってなかったのかよ。」
    下着の上からなぞると、目の下の赤い、
    迫力のない顔が睨みつけ、色の薄い瞳が滲んで、俺を映す。
    「は・・・んッ、・・んぅっ・・、そういうこと言うなドスケベ親父。」
    「お互い様だろ。」
    下着を脱がせて、擦り上げた。
    ぐじゅぐじゅと厭らしい音が鳴り、白い喉元が反りかえる。
    「ゾロ、ゾロ。」
    行為の最中にはいつも、まるで、そこにいることを
    確認したがっているみたいにサンジは何度も俺を呼ぶ。
    「ゾロ、・・・ゾロっ。」
    白い肌が震え、閉じた目からは涙が頬を伝う、
    懐かしく、いとおしい、サンジの、嬌態。
    手のひらのなかの温度。
    「や、も、イく・・・。」
    「早えな。」
    「うっせ、え、ミドリ・・ぃ。」
    「太ももビクビクしてんぞ。やべえな。」
    「じっきょ、ちゅっ、け、すんな、よ。」
    「な、おまえ、なんで驚かなかったんだよ。」
    「なに、があ?」
    「めちゃくちゃ普通だっただろ、俺来たとき。」
    「ん・・、だッ、て、さっきみ、せ、に・・いた、
    あい・・つとさ、・・はぁ、きの、ぅ、教会行ったんだ、あっ、ぁ・。」
    「ほーう?」
    「観光客いっぱいいてえ、」
    「それで?」
    「あ、も、ほんと、ダメ、あっ、あ・・あッ、ん。」
    「すげえいっぱいでたな。よしよし。」
    頭を撫でると、その手を振り解かれる。
    頬なんて赤く染まり、迫力などひとつもないのに、
    サンジは、おまえ、ばかか、といまだ生意気な口を聞く。
    「後ろ向いてケツこっち向けろよ。」
    「んー、そんでな、んあッッ、やだ、ゾロ、ぞ・・。」
    「そんでどうしたんだよ。」
    「ひっ、は、・・ぁ、っぁ、」
    枕をぎゅっと握る手にくっきりと浮かび上がる、静脈の青。
    丸い頭が、揺れる。
    「続けろよ。」
    「んっ・・、」
    「だ、・・め、む、りぃ・・」
    「教会行って、どうしたんだよ、サンジ。」
    「ッぞ、ろ・・ぁ・・、ゆび、増やして、」
    赤い顔が振り向いて言う。
    「きょうか、いの、ひかりが、言った、んだ、
    だいじょ、うぶ、こ、ううんがぁ、あっ、や、って、く・・。」
    「すっげえ幻聴だな。あー、だからあいつ、おまえになんか言ったのか。」
    「んぅぅ、こううんが、やってきたねぇってぇ・・いった・・・ん・」
    「挿れるぞ。」
    「あ、まっ、って・・・ぁ、・・・はぁっ」
    「わりぃな、もう入っちまった。」
    「ばかいんこ・・きょ・・し・・おま・・し、ね、
    く、そ・・ぼ・・け、まり、も」
    「教師はやめだって言っただ、ろ。」
    何度か突き上げると、ふたたび、あっけなくサンジは達した。
    「後ろだけでイくんじゃねえよ、淫乱。」
    身体をこちらに向けさせ、キスをすると、白いその腕が首に回された。

     

    ベッドの上でトマトとチーズのパスタを食べた。
    こっちの野菜はちゃんと野菜の味がして、
    だからそういうシンプルなのでも美味いんだ、と言う言葉に
    そうかもしれないが、でも作ったのが他のやつならここまでじゃねえ、
    と思い、それを口にするとサンジは、うへへへへ、と、
    とてもうれしそうに奇妙な笑い声をたて、足をばたばたとさせた。
    サンジはパスタを食べる俺を見ながらワインをお湯で割って飲んでいる。
    カップを見つめる俺に気付くと、
    ふつうに飲んだら眠くなっちゃうから、と言い、少しだけ照れた。
    その顔に、ソファーやベッドで丸くなる姿を思い出し、
    懐かしい、会いたかった人が目の前にいる実感が、唐突にやって来て、
    情けないことに涙が出そうになってしまい慌てて残りのパスタを口の中に突っ込んだ。
    静かな午後の、胸のつまるような時間。
    トマトとチーズとワインの交じり合った味のキスの後に、
    3ヶ月ぶんの責任を取れ、とその鼻をつまむと、
    借金取りみたいなこというな、鼻声の、少し酔っ払った顔が睨み、
    そして、それから、色の薄い瞳がゆっくりと笑顔の形に変化した。



    「もー無理。あーあーだりーだりーちょーだりーよー。
    な、ギネスに載ってる長時間勃起し続けた男が、
    勃起してる間にみた映画知ってるか?」
    気付くと午後の日差しはどこかへ行ってしまい、
    窓の外には暗い、夜の気配と霧がたち込めていた。
    「なんだよそれ、世界一くだんねえ豆知識だな。」
    「名犬ラッシー。」
    「ラッシー・・ある意味すげえな。」
    「そうだ、ラッシー飲む?」
    「犬?」
    「じゃねえよ、ヨーグルトと牛乳と、蜂蜜のやつー。」
    毛布にうずくまり、サンジは俺の髪を撫でる。
    何度も、何度も、何度も、繰り返し、何度も。
    「エスプレッソ飲む。」
    「おまえ妙にエスプレッソにこだわるな。」
    「特別に美味いんだとよ。」
    「え?」
    サンジの驚いた顔は今日で2度目だ。
    ひどく幼い、素の表情。
    「おまえの淹れたやつ。」
    「誰から聞いたの?」
    「パティ。」
    言うと、サンジは、そっか、だからここがわかったんだ、
    と納得したように、なんども頷いた。
    それから、やきもちなのか、拗ねてるのか、
    どっちにしろ今日のゾロかわいいなー、と
    からかう笑顔で笑い、髪を撫でた。
    「淹れろよ。」
    「んー、悪いけど立てない。膝がくがく言ってる。」
    「なっさけねえな。」
    「おまえのせいだろ淫行教師。
    キッチン連ーれーてーけー、ばーか。」
    耳を抓り上げた上に耳元で大声で
    サンジは言い、その顔を押しのけて、頭を叩くと、
    ひゃひゃひゃひゃひゃ、と変な笑い声を立てる。
    「黙れ。しかも面倒臭え。」
    「なー、セーヌ川行こうぜ、セーヌ川。」
    「なんだよ、おまえ、歩けねえんだろ?」
    「おんぶして連れて行けー。」
    毛布ごと俺の上に乗っかって、連れて行けー、などと
    しつこいサンジの小さな頭は腹の上をごろごろと転がる。
    「やだね。」
    「だー、おっまえ、なんもわかってねえな。」
    「なにをだよ。」
    「恋人同士はなー、セーヌ川のほとりで愛を語り合うんだぞー。」
    「悪いが語るほどのもんはねえ。」
    「それとなー、ゾロ、なぜ人は登るのか、
    そこに山があるからだーって言葉知ってるか?」
    毛布から出た腕がひらひらと舞い、指が宙に山の形を描く。
    「なんだよ、少ねえ豆知識大披露大会かよ。」
    「ぜんっぜんそうじゃねえ。山があったらな、登るんだよ。」
    「もっとわかりやすく言えよ。」
    「日本語学校になあ、空きがあるってよ。」
    「は?」
    「教師として、来てみませんか、って。」
    「てめえな・・」
    「人生の山場だな、ゾロ。」
    「勝手に人の人生、設計してんじゃねえぞ、ハゲ。」
    「セーヌ川行こうなー。」
    「人の話聞けよ。」
    「寒いからコート羽織れよー。」
    「そのまえにてめえはまずケツを仕舞え。」
    「明日の朝はエスプレッソとクロワッサンと、オムレツだぞー。」
    「耳悪りいのか、薄らハゲ。」
    「うっせえな、ホモ。」
    「その言葉そっくりそのまま返してやるよ。」
    そう言うと、にま、と笑う、変な顔と目が合った。
    にま、と笑い、サンジは毛布の中にもぞもぞと入り込んだかと思うと、
    そのまま、モモンガ、とアホなことを言って飛び上がり、腹の上に落ちてくる。
    そして、頭からかぶった毛布ごと抱きつくサンジのこもった声が、中から、した。
    「ゾロ、おまえ、」
    「なんだよ?」
    「俺のことほんと好きな。」


    夜中、ふと目を覚ますと街灯の明かりが部屋の中へと入り込み、
    サンジの、頼りのない肩を、広がる髪を、薄く照らしていた。
    静かな呼吸だけが流れ、あたりにはあいかわらず車の流れる音さえしない。
    ふいに、涙が頬をよぎり、街灯の明かりに照らされた髪をやわく、撫でた。
    目の淵からから零れるままのそれは、シーツへと染み込んで行く。
    ここは、教室でも、俺の部屋でもなく、誰も知らない、静かで、遠い場所だ。
    出会えて良かったとか、この夜にも彼を生かし、動かしている、
    その皮膚の下のけなげな器官だとか、11年前の夏の子供だとか、
    生意気な笑顔だとか、静脈の浮く、白い手だとか、
    そのすべてが腹の底へとやって来て、そこをぎゅう、と握り込むように、
    締め上げるので、シーツの染みは乾くことなく、なおさらに広がって行った。
    「サンジ。」
    空気をほんのりと揺らすほどの
    かすかな音で、起きない彼の名前を呼んだ。
    引き千切られるような痛みにも似た
    その想いとおなじくらいに、繰り返し、繰り返し、
    足音さえも車の音も聞こえてこない、静かな部屋に
    呼ぶ声は響き、彼の寝息が、穏やかに安らかに続いていった。



    終わり

     

     

     

    トワ・エ・モア
    (教師びんびん物語シリーズ最終回<裏>)



    生まれてはじめて目にした
    実物のセーヌ川は灰色く澱んでいた。
    「愛の言葉を喋れー。」
    サンジは足をぶらぶらさせてベンチに座っている。
    この寒さでこんなところに来ようと思う酔狂は
    俺達くらいなものらしく、まわりのベンチには誰もいない。
    朝早くにサンジの部屋にじいさんが尋ねてきて、
    おもむろに、ロロノア、夕飯はなにがいい、と訊くので、
    毛布に包まったまましどろもどろで、お任せします、と返事をした。
    じいさんが帰って行くと、いま寿命縮んだだろ、とサンジは笑って、
    チンコも縮んだな、と、俺のにオハヨウ、と声をかけ、咥え込んだ。

    「なんかねえのかよー。」
    「さみぃ。」
    「あたりまえのこと言ってんじゃねえぞー。」
    エッフェル塔が遠くに見えて、パリだ、と思った。
    「トワの愛でも誓ってみろってんだぼけー。」
    「うっせえぞ、あほう。」
    「toi et moi。」
    「日本語喋れ似非ガイジン。」
    「トワエモア。あなたと、わたし。」
    「あー?」
    「っていう意味でーす。」
    「ガイジン調で喋るの止めろ。」
    「トワって音は一緒なのになー、意味は違うのなー。」
    鼻水をずずーと啜り上げ、鼻の頭を赤くしてサンジは笑う。
    握った手は冬の冷気でひんやりとして、指先が赤い。
    船の一隻も通らないのは、水嵩が増していて、
    橋の下を通れないからだ、とさきほどサンジが言っていた。
    誰もいなくて、朝市で買ってきた中華料理みたいな
    おかずのパックだけが手に温かさを伝える。
    サンジと顔見知りらしいベトナム人の女が、なにかを言って、
    サンジは不満そうにそれになにかを返していた。
    フランス語のそのやりとりが俺にはわからなかったが、その場を離れるとすぐに、
    おまえの緑かっこいいって、世界は広いな、人の趣味も幅広いぜ、
    とサンジはおもしろくなさそうな変な顔をして、おかずのパックの入った袋を押しつけた。
    「帰りてえ。」
    「だらしねえぞー。」
    「・・・るせえな。」
    「おまえずいぶんと短気だな。」
    灰色の雲の重なる青空はサンジの目の色によく似ている。
    握った手に、ほんの少しだけの力を加えた。
    「残念だが。」
    「んー?」
    「てめえにもう逃げ道はねえ。」
    「はいー?」
    「どこ逃げようと見つけ出して
    一滴残らず搾りとったあげく掘りまくってやるから覚悟しとけ。」
    「お、愛の誓い?」
    「さみぃから行くぞ。」
    「なーいまの、トワの誓いってやつー?」
    「いいからさっさと立ち上がれ、ハゲ。」
    「はーい。」
    「アホか。」
    「やーん、センセー、怒っちゃいやーん。」
    「センセイって言うな。」
    「だってセンセイだもーん。」
    「川に蹴り落とすぞ。」
    「なー、スキップして帰ろうか。」
    俺の顔を覗きこんで、誰もみてないし、
    ウキウキしてるから、手をつないでスキップしよう、とサンジが言う。
    「置いてくぞ。」
    「待てよ、ナキムシ。」
    人生は、はじまりの連続であり、
    終わりがどこにあるのかなんて、誰も知らない。
    それに、この愛はきっとまだ、はじまってもいないのだ。
    なにもかも、すべてはこれからなのだ。
    そう思いながら、となりでスキップをするアホな子供の
    すっかり冷え込んでしまった小さな頭を掴み、強引に引き寄せた。


    終わり

     

     

     

    日本人なら米を喰え!その1
    (教師びんびん物語シリーズ外伝)


    「おまえ、いまどこだ?」
    「バーバー・タカダノ。」
    「どこの床屋だよ。」
    「床屋じゃねえよ、馬場。」
    「なんでそんなとこいるんだよ。」
    「俺がどこいたっていいだろ。」
    「今回ばかりはそうもいかねえんだよ。
    いいから30分以内に東京駅に来い、
    いいか、ぜってえだぞ、銀の鈴な、遅れるなよ。」
    というやりとりが約90分前、
    しぶしぶ東京駅へとやって来ると、
    銀の鈴にでかい荷物を抱えてゾロがいた。
    「夜逃げでもすんの?」
    「違う。おまえ、遅えよ。」
    「これでもなー、いっぱいいっぱいで急いで来たんだよ。」
    「あと10分だ。行くぞ。」
    「どこに?」
    「福島だよ。」
    「えー?」
    「えー、じゃなくて、ほら、行くぞ。」
    そして無理やり腕を引かれ、階段を引きずられた。


    そんなわけで俺はいま新幹線の中にいる。
    ゾロはいつも突然で、行動力がないかと思えばあるし、
    アホかと思えばそうでもないし、いまいちわかりにくい。
    「パンツどうすんだよ。」
    「コンビニで買ってやる。」
    「・・・俺、手土産もなにもない・・・。」
    「子供のくせになに言ってんだよ。」
    「だって。」
    だって、福島だぞ、盆地だぞ、夏は暑いんだぞ、
    ゾロの実家だぞ、手土産もなしで行けるか、
    一般常識としてどうよそれ、ゾロはいいさ、実家だもんな、
    それに俺、昔から人んちの親に受け悪いんだよな、
    顔がだめなのかな、髪か、それともなんだ、わかんねえ・・
    いっそ黒に染めちゃいたい・・東京生まれHIPHOP育ちだと思われたらヤだ。
    ゾロママになんなのこの子とか思われたら明日から生きていけない。
    ぐるぐる考えて、なぐさめの言葉のひとつでも期待して
    隣の席に視線を向けると、ゾロはすでに夢の中だった。
    むかついたので、肘かけを上に押し上げて、
    当たって砕けろ、と思いながらゾロの膝の上で目をつぶった。
    さっき食べたばっかりの野菜つけ麺が胃の中でぎゅるっ、となった。


    福島駅はなんてことないふつうの駅だった。
    ロータリーに人の気配なんかなくて、
    高倉健みたいな駅員さんひとりで、っていうのを
    想像してたのにふつうに都会でがっくりした。
    「タクシーな。」
    「ゾロ・・・。」
    「あ?」
    「この格好変じゃない?」
    「ただのTシャツでジーパンだろ。」
    「ただのじゃねえ。マーサンだよ。」
    「誰だよ。」
    「知らねえのかよ、ロドニーだ。」
    「だからなんだよ。」
    「な、ゾロママって怖い?」
    「あー、普通じゃねえ?」
    「・・普通ってなに?」
    「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あー・・・・」
    「・・・・帰る。」
    「金もねえのに?」
    意地悪くゾロが言う。ムカツク。
    太陽がじりじりいってて暑くて、背中に汗を掻いてきた。
    でも、これは脂汗とか冷や汗とか、たぶんそういうものな気がする。
    クソバカゾロ。どうせなら飛行機で北海道に連れてけっつーの。
    ウニとかイクラとかラーメンとかジンギスカンだろ。
    コシヒカリでどうすんだよ。
    「そこらへんで親切なおじさんに借りる。」
    「いいから、おら、乗れ。」
    タクシーに、蹴り込まれ、
    あっと言う間もなく、ドアがしまり車は走り出す。
    流れる風景に、ドナドナが頭を流れた。
    なあ、かわいそうな子牛、
    俺、いまおまえの気持ちが世界一わかる。
    「ここ圏外だったらどうしよう。」
    「んなわけあるかよ。」
    都会の風景が過ぎるとあたりに高い建物はなくなって、
    田園地帯が広がる、田舎道に入った。
    本格的にドナドナみたいだ。
    「緑だな。」
    「あー、米な。」
    「おまえの頭はこれにインスピレーションうけたのか。」
    「おまえのその思考回路どうにかしろよ。」
    「瀬戸は日暮れて夕波小波・・・だな。」
    「嫁にでもくる気かよ。」
    「役割的には婿入りのためにお義父さんに
    挨拶しに行く気の弱いサラリーマンだな。」
    俺達の話を聞いていたのか、運転手が、ははっ、と小さく笑った。


    トトロみたいな家を想像していたのに
    ゾロの実家は普通の建売り住宅だった。
    黄色っぽい外壁で、
    玄関まで足元には煉瓦が敷いてあったりして、
    植木とか、名前のわかんない鉢植えの花とか、
    これで犬なんかがいたらビバ中流階級ってかんじの家だ。
    ドアを開けると、だーれー、という声がして、奥から女の人が出てきた。
    鼻がゾロによく似てた。玄関にはひとんちの匂いがした。
    「あらやだ、ゾロ。帰ってきたの。」
    その人にゾロは、ただいま、と軽く挨拶して靴を脱ぎ出し、
    おら、てめえも脱げ、と俺を促す。
    「もー、電話の一本くらい寄越したらいいのに。
    そしたらあんた、駅まで迎えにいったわよ。」
    「いいんだよ。」
    「・・・こんにちは。」
    そう言うと女の人はこちらを見て、少し驚いた顔をしたので、
    いままでの人生で1番うまく出来るように注意しながら、
    NHKのアナウンサー並の発音で、はじめまして、と言って
    一生懸命笑顔を作ってみた。ひきつってたかもしれない。
    「あら、こんにちは。」
    「生徒だよ。」
    「まあ、めずらしい。はじめてじゃないの。」
    母親だ、ゾロが俺のほうを向いて言って、
    こいつも泊まるから、と今度はその人のほうを向いて言った。
    「あんたそういうことも言ってくれないと
    なんにもないじゃない、恥ずかしいわよ、まったく。」
    「なんにもなくていいって。じゃ、部屋行くから。」
    「あーちょっと待ちなさい。あんたたちは客間。
    あんたの部屋いま物置にしちゃってるのよね・・。」
    「・・・わかったよ、ほら、突っ立ってねえで来い。」
    「うん。」
    無理やり腕を引かれて廊下を歩くと、玄関のところから声がした。
    「えーと、・・なに君っていうのかしら。」
    「サンジ、です。」
    必死に後ろを振り向いて答えた。
    ゾロが腕をぎゅーぎゅー引っ張るので
    廊下を滑っているみたいな格好で情けない。
    「サンジ君、気なんか使わないでゆっくりしていってね。」
    なにもないけど、とその人は笑った。
    笑うとゾロに目元がそっくりで
    やっぱりこの人はゾロママなんだな、と思った。



    日本人なら米を喰え!その2


    ゾロの実家に来て3日目。
    ゾロママが朝食のときに、せっかく帰ってきたんだから、
    くいなちゃんの墓参りに行きなさいよね、と言った。
    ゾロはみそ汁をすすりながらそれに、あー、とか、
    うん、とか適当な返事をして、コシヒカリを
    奥歯でじっくり噛みしめて、くいな、と俺は
    頭の中で呪文のように繰り返した。

    しゅわしゅわしゅわしゅわ、セミが鳴く。

    「サンジ君、おかわりは?」
    「いえ、もうおなかいっぱいです。」
    「だめよー、もやしっ子っみたいな肌の色しちゃって、
    もっと食べて大きくならないと。」
    「もともとなんだよこいつのは。」
    「あんたに言ってるんじゃないわよ。」
    ゾロママが言って、
    あんたは、おかわりは、とゾロ今度はゾロに訊く。
    ゾロパパはちょび髭の恐そうなおっさんだった。
    近寄りがたいみたいな雰囲気がゾロに似ている。
    でも恐そうなのは雰囲気だけだ。
    昨日の夜なんか暇つぶしだと言って
    風呂上がりに黒髭危機一発で遊んでいた。ひとりで。
    一気にゾロパパが好きになってしまったので、
    俺も一緒に樽にナイフを刺した。
    毎晩のようにやっているという
    話だったのにゾロパパはあっさり俺に負けて、
    くやしそうに、なかなかやるな、と言った。
    その人は昼間はいない。
    だから昼食のテーブルは3人で囲む。
    ゾロパパのあの風体でなにをしてるのか気になって
    尋ねてみれば、役場に勤めているのよ、とゾロママは笑って、
    似合わないでしょう、あんなのに給料払うなんて税金の無駄よねー、
    と続けて言ったので、なんと答えればいいかわからずに、
    素敵な髭ですよね、とでたらめなことを言ったら、
    サンジ君も素敵な眉毛よ、と人にあえて突っ込まれたことのないことを突っ込まれてしまった。
    「サンジ君、ほら、炊き込みご飯、おかわりは?」
    「おかわりばばあ、てめえ何度も何度もうっせえんだよ。」
    「あら、まあ。あんたお母さんに口答えするの。
    べつに若い子にちょっかい出してるわけじゃないものいいでしょ。」
    「ちょっかいとか言うなばばあ。」
    「ばばあってあんた誰に言ってんの。」
    「てめえ以外いねえだろ。」
    「親にむかっててめえとか言うの止めなさい。24にもなってあんたはほんとに。
    ご飯食べたらお墓参り行くのよ、先生にもご挨拶してきなさい。」
    「・・・わかったよ。」
    くいなだ、と思いながら、いまだおかわり攻撃をしてくる
    ゾロママに笑顔でごちそうさまでした、と返した。
    くいな。・・・変な名前。


    あぜ道をまっすぐに歩いた。
    右側の木がうっそうと繁っている場所からセミの声がして、
    左のほうでは緑の田んぼが青々と育っている。
    隣を歩くゾロは、ときおり暑そうに額の汗を拭う。
    緑の匂いがぷんぷんする。土っぽい匂いも。
    俺は黙ったまま少しの距離をとってゾロの隣を歩く。
    くいな、くいな、と頭の中でその言葉がぐるぐる回る。
    俺の知らないゾロの過去とか思い出とか、
    見てきたものとか、そういうものがむかつく。
    「おまえなに黙ってんだよ。食いすぎたか?」
    「なんでもない。お腹は大丈夫。」
    「なんでもないわけあるかよ。
    てめえがそんなに無言だと速攻で夕立来るだろうが。」
    「・・・どこ行くの。」
    「墓だよ。」
    「くいなの?」
    「・・ははん。」
    「なに?」
    「生意気にもヤキモチか。」
    「違うよ。」
    「違わねえ。おまえが知らないんだったら親切に
    その感情に名前をつけてやろうじゃねえか。
    おまえのそれはヤキモチってんだ。」
    「偉そうに言うな、変態マリモ。」
    「少なくともおまえよりは偉いな。」
    「どこがだよ。」
    「年食ってるぶん偉いんだよ。・・・・くいなも偉いぞ、てめえより年上だ。
    しかも俺よりも、だ。追い越しちまってるけどな。」
    「くいなって、誰。」
    「幼馴染だよ。将来も誓いあった。」
    「なっ。」
    「ははーん、思いっきり勘違いしたな、バカめ。」
    「してねえ。」
    「都会っ子は素直じゃねえなー。」
    「どうせそうだよ朝はパンで昼はパスタだよ。
    米なんかろくに食わねえ都会っ子だよ。」
    「なに言ってんだてめえ。」
    「ここはゾロの故郷だもんな、そりゃいろいろあんだろ。
    俺の知らねえことがもう、山ほど。むかつくほど。」
    「そりゃな。当たり前だな。」
    「思い出になんかかないっこねえだろばーかばーかばーか。
    おまえなんか嫌いだ。死ね。緑同士で仲良くしてろばーか。」
    ゾロの肩を思いきり押して、田んぼに落としてやった。
    あーもうむかつく。
    「てめえっ。」
    知らんぷりして歩き続けた。
    どこに行くのかわかんなかったけど歩いた。
    「サンジ!」
    誰だよサンジって。知らねえ。知らねえ。知らねえったら知らねえ。
    どしどし歩き続けていたら急に腕を引かれた。
    「触んなグリーン野郎。」
    「かわいくねえ拗ねかたすんな。・・・ったくどろどろじゃねえかよ。」
    「知るかよ。死ね。死ね。ばあか。」
    「そりゃ、忘れられねえ女のひとりやふたり俺にだっているだろ。」
    「・・・・・ふたりもいんのかよ。」
    「おまえ、言葉のあやっての知ってるか。」
    「うっせえエロ教師。いますぐ死ね。
    夜空で輝いてけなげに地上を照らしやがれ。」
    今度は背中から田んぼに落ちたゾロが、
    泥の中に緑を鮮やかに浮かび上がらせた。



    着いた先はお寺だった。
    やさしそうなメガネの住職さんが掃き掃除をしていて、
    ゾロを見ると、懐かしそうに目を細めて、笑った。
    「ゾロ、・・どうしたんですか、その泥・・・。」
    「ご無沙汰しております、先生。
    すみませんみっともない格好で。その、くいなの墓参りに・・」
    「それはいいからお風呂入りなさい。
    あー、玄関からではなく裏口からだよ、ゾロ。・・・君は玄関からどうぞ。」
    ゾロがお風呂に入っている間に、縁側に通されてお茶を飲んだ。
    「君はゾロの教え子なのかい?」
    住職さんはとてもやさしそうに笑う。
    知らない人なのに、昔どっかで会ったことがある、
    と人に思わせるような笑顔で、懐かしい。
    「はい。」
    「生徒に慕われるっていうのはいいことです。
    きっとあちらでも頑張っているのでしょうね。」
    「センセイは、いい先生だと思います。」
    「生徒さんにそう言ってもらえるとゾロもありがたいだろうね。」
    「でも。」
    「なんだね?」
    空には名前のわからない鳥が高く高く、飛んでいる。
    お茶の湯のみを抱え直して、言った。
    「センセイには24年間っていう時間があって、
    そのなかで俺が関わってるのは1年もないくらいで、
    でもその知らない部分がでっかいような気がして、
    わかんないんだけど、どうしようもないけど、そういうのが嫌だ。」
    なんでこんなことを見知らずの人に喋っているのかわかんなかったので
    たぶん住職さんのアルカイックスマイルのせいだろう、と思うことにした。
    「まあ、人との出会いなんて多かれ少なかれそういうことがあるものです。
    家族とは違うんだからね。・・・ゾロはね、方向音痴でどうしようもないバカですよ。」
    「知ってます。」
    「でもね、とても、とても、心のやさしいいい子なんですよ。」
    「・・・知っています。」
    「そういうことを、君が知っていれば、充分でしょう。
    相手のすべてが知りたいというのは傲慢です。
    相手のすべてになりたいと思うのも、おなじですよ。」
    「悟り?」
    「違いますよ。人生の真理です。」
    「住職さんは物知りだね。」
    「君はおもしろい子だね。」
    「そうかな。」
    「こういう場所がちっとも似合っていない。おもしろいですよ。」
    「・・・やだなー、それ。」
    「向き不向きっていうのもありますからね。
    自分以外の誰かにはなれません。
    それを認めたうえで、なにをするかですよ。人生の真理その2、です。」
    「・・・このお茶、とても美味しいです。」
    「お口に合いましたか?静岡から取り寄せているんですよ。」
    「ふーん。」
    「くいなはね、私の娘なんです。」
    「娘、さん。」
    「小さい頃に階段で足を滑らせて亡くなりました。
    そんな馬鹿みたいな理由が彼女の人生のあっけない幕切れでした。」
    こくり、とお茶を喉に流し込んだ。
    セミの声がとても近いところでする。しゅわしゅわ、しゅわ、しゅわ。
    「剣道で日本一になってやろう、とあの子たちは誓っていました。
    でも、くいなはそれを果たすことが出来なかった。
    俺が、絶対に、なる、そうゾロはくいなのお墓に誓ったんですよ。
    高校3年生のとき、ゾロはほんとうにそれを成し遂げました。
    あの試合はいい試合だった。シン、として、竹刀の音だけがして、
    息を詰めて見守った・・いまでも思い出すと目頭がじわりと熱くなります。
    優勝のトロフィーはくいなの部屋・・まだそのまま残ってるのですがね、
    そこに大事に飾らせて貰ってます。ねえ、ゾロはいい子でしょう。
    ゾロは意志の強い、心のとても強い、やさしい、
    そんな子です。だから君もきっといい子なんでしょう。」
    「だからってなに?」
    「だって私は君のことをなにも知らない。」
    「判断基準があいつなのがやだな。」
    「モノサシのひとつですよ。」
    「ふうーん。」
    「なにくつろいでんだよ、アホ。」
    後ろから、頭にタオルを乗せたゾロの声がした。
    じんベえみたいなのを着てて、それが似合ってるのが、おかしい。
    「ゾロ、そういう言葉使いはいけませんよ。」
    「・・・はい。」
    「はいだってー、だっせえ。」
    「うっせえな。」
    「ねー、住職さん、あの鳥なんていうの?」
    空を指差した。
    青く高い、8月の空。
    心に留めておこうと、じっと見た。
    じっと、染み込んでくるまで、じっと見ていたかった。
    「ツバメですよ。」
    「俺の知ってるのと違う。」
    「高く飛んでいるので雨は、大丈夫、降らないでしょう。」
    「住職さん、歩く知恵袋だね。」
    「このくらいの年になりますとね、大概のことはわかるようになるんですよ。」
    「すげえー。」
    「失礼な言葉を使うな、ハゲ。」
    「君達は、とてもお似合いです。」
    住職さんは言って笑った。
    濃い緑が風にわさわさ揺れる匂いを嗅ぎながら、
    俺は老人みたいに縁側で足を伸ばし、
    ツバメが青い空に高く高く飛んで、くいなも、鳥の名前だ、
    ゾロが言って、頭のタオルをガシガシやった。



    終わり