ビクターの犬

 

 

 

 

 

 

 

ビクター犬の、矢が刺さったのだ。

 

 

 

「あ、どうも」

「おつかれさまです」

「もう終わりスか」

白くて細くて、頭が小さくて、休憩時間になるとアヒルのような唇でタバコを挟み、

ほんの少しその小さな頭をかたむけ、ぼう、と道行く人々を眺める横顔だけを、知っていた。

「終わりたかったんで、むりやり客追い出しました」

「なんスかそれ」

ある日、そのアヒルのような男と駅まで一緒に歩くはめになり、

どうにも間が持たなくて、ちょっと飯とか食って行きませんか、とつい口を滑らせてしまった。

飯屋で働く彼に飯食って行こうというのも間抜けかと思ったけれど、

彼は、ああ、そういえば腹減ったかも、と素直に着いて来た。

「どこ住んでるんスか」

「柏」

「自宅?」

「いや、そっちは?」

「戸塚」

「自宅?」

「そう」

「こっちまで出てくるの大変じゃないスか」

遊歩道の途中を脇へ入るとその屋台風の店はある。

夜の暗い中に屋台の光だけが明るくて、店員の大きな声が響き、

テーブルの間は距離などなく、箸を使うだけで肘が隣の誰かとぶつかってしまう。

そんな場所で、彼は楽しそうにきょろきょろ頭を動かして、

うちの実家に似てて、好きなんだ、ここ、と笑ったのだった。

笑う顔が幼いのを、そのときはじめて知った。

「俺ねえ、サンジっつーんですけど、山を治めるって書くんですよ、だっさいでしょ、もうねー、

俺のどこが山なんだって、ジジイにドロップキックですよ、海のほうが似合うのに、ほんとは」

自己紹介を終えたそのサンジがところで何才ですか、と聞くのでじゅーきゅーと言うと、

ヤキソバをズゾゾゾゾゾ、と気前良くすすりながら、突然タメ口で、

おまえ19?うっそ、詐欺だー。同い年かよ!ちくしょう、ちくしょう、

となにが悔しいのかわからないが、ちくしょうと繰り返した。

拍子に黄ニラが飛んで来た。

ちくしょう、と繰り返すサンジの肩のところから、そのとき天使が顔を覗かせた。

ビクター犬の顔をして、背中にふわふわの羽根をつけた、天使が。

お迎えですか、と天使に向かって聞いた。

ビクター犬は、ふるふると頭を振って、違いますよ、と電波を飛ばしてよこす。

「俺も、23くらいかと思ってたんだけど」

「俺はおまえ26くらいかと思ってた」

アヒルの口が、笑う形を作る。

幼い顔が、蛍光灯の下に現れる。

厨房からは湯気と、ヤキソバを食うその肩はなだらかで、

ふいにかしげられた顔に、ビクター犬の羽根が揺れ、

夏の夜のその最中に、すべてを唐突に思い出したのだ。

「おい、てめえ、目がイってんぞ」

そう言う彼の口から、ひき肉の欠片が飛んで来た。

そして肉の欠片と一緒にサンジの肩のところにいた、天使が矢を放ったのだきっと。

ビクターの犬が矢を放つ前の永遠の一瞬に、サンジはひたすら黄ニラやもやしを

飛ばしながら、砂糖水につけるとぱりっとするセロリについて熱く語っていた。

「てめえ!」

アヒルが今度はカニシューマイのカニを飛ばしながらがあがあと喚く。

「聞いてんのか!マリモ!」

「誰がマリモだおい」

「言われたくなかったらなあ、頭に田植えしてんじゃねよ」

屋台の外には満月が浮かんでいた。

 

 

そうだ。

実家の近所のレコード屋には昔ビクター犬がいた。

学校帰りには、いつも頭を撫でてやったのを覚えている。

そして俺は、その、照れてるような困っているような表情のままに、

誰かを待つように、首をかしげた犬が好きだったのだ。

 

 

 

雑踏を抜けて、路地へと入る。

ビルの谷間に青空が見えた。

サンジのとこの飯屋からはなにかを炒める匂い。

厨房の窓から白い服のサンジが見えて、それをぼんやりと眺めていたら俺に気付いて驚いた顔をした。

「おっす」

「うぃっす」

「今日はなあ、焼きナスとカモのサラダがお薦め」

「別に食いに来たんじゃねえんだ」

「じゃあなに?」

「暇つぶし」

「気になって手元集中出来ないからやめてくれ」

蒸気が上がり、サンジの姿が一瞬消える。

汗で前髪がおでこにくっついていて、その目は嫌に真剣で、

ああそういえばこいつはコックなんだった、と思いながら厨房を背に、煙草をふかした。

空は高く、午後の太陽は、終わりかけの夏の暑さを四季の移り変わりのない街へと伝えるために、輝き続ける。

 

 

順子、とサンジは歌う。

そして、夏の夜って長いよなあ、と言って笑う。

サンジのそういう笑顔はビクターの犬に似ている。

困ったかんじに照れたカンジに目を細める。

そのうえほんの少しだけ、さみしそうなのだ。

思わず肩のところを撫でてしまいたくなる。

「なあ、おまえジュンコって女と付き合ってたことでもあんのかよ」

「なんで?」

「感情こもりすぎなんだよ」

「そっかな」

いつの間にかサンジは家へとこうして通ってくるようになった。

コンビニの袋を下げ、B級ホラー映画のビデオテープを抱え、月を背負いサンジはやってくる。

順子、君の名を呼べば僕はせつないよ、ビデオを眺め、サンジは歌い、

早送りのビデオを気になったところでむっつりとした顔で止める。

ちっとも楽しんでいるようには見えない。

めずらしく恋愛モノを見ていたので、いらつきながら言った。

「そんなんじゃあの女がどうして主人公を好きになったかわかんねえだろ」

「そんなの知ってどうすんだよ」

そんなことを繰り返し、やがてサンジは眠ってしまう。

眠るサンジの肩のところにはビクター犬が寄りそう。

見守るように、見下ろして、小首をかしげてじっとする。

こんばんは、とビクター犬に言う。

こんばんは、とビクター犬が返事をする。

素晴らしいでしょう。

ええ、素晴らしい、とビクターの犬が頷く。

骨格が、もう、素晴らしいのですよ。

ええ、わかりますよ、素晴らしい。

あなたに少し、似ていますね、語りかけると、

そうですね、このようなのが、あなたの気を引く風情なのでしょうね、と困ったように照れたように首をかしげた。

電波を飛ばしあいながら、俺達はふたり黙ったまま、サンジの寝顔を見る。

サンジの寝息は規則正しい。

規則正しい寝息は夜にそっとこだまする。

ビクター犬と同じように首をかしげ、俺は、寝息を立てるサンジの顔を覗き込む。

わおん、とビクター犬が鳴き、夜にそれはせつなく響く。

 

 

 

ビクターの犬が、現れたのは2度目だ。

一度目は、幼馴染の葬式だった。

大丈夫ですよ、とビクターの犬は言い、泣きじゃくるそのそばで、じっと首をかしげていたのだ。

そのときにビクター犬の言ったのは、亡くすことについて、それについての物語だ。

 

 

 

 

森永のチョコパイの袋を開け、口のまわりを汚くしてサンジはそれを食う。

「エンゼルってなんだろ、エンジェルってことかな」

「知らねえ」

それをくれる気は少しもないらしい。

別に食べたいわけじゃないけれど、サンジの食う様子を見ているとうまそうに思えるから不思議だ。

汚い口元が幸せそうに緩む。

「うまいか?」

「うん、食べる?」

突然思いきり押しつけられたせいで、パイは口元で、ぐちゃん、と潰れてしまった。

「ん、」

「口開けろよ」

口のまわりはクリームでべとべとだ。

べとべとをサンジが指ですくって、口元に運ぶ。

かっと顔が赤くなったような気がして慌ててパイを飲み込んだ。

ちゅぱ、と音を立てて唇の間から指が出てくる。

白い指はそのままもう1度俺の口元へとやって来た。

固まって動けないまま、顔を赤くして、目だけで動きを追った。

ビクターの犬が現れる。

こんばんは、ビクターの犬は首をかしげる。

サンジはビクターの犬のように首をかしげて俺の顔を覗き込む。

彼の肩のところから、ビクターの犬もこちらを見る。

 

 

ゾロって、見かけに寄らず、ふれあい好きだよな、とサンジが言うので、

おまえの骨が好きなんだ、と返すと、ああ、だからなの?

なんかいっつも骨触ってるもんなあ、と素晴らしい骨格の、

なでらかですこしさみしげな肩を揺らして笑った。

「そんないっつもはしてねえって」

言いながら後頭部を叩いてマッサージしてやった。

タンタンタンタタタ。

「してるしてる」

サンジはビールの缶を握りつぶしてごみ箱へ放り投げる。

早送りされるビデオの中で登場人物はものすごい勢いで街を走りぬけ、

車はまるで光速のように通り過ぎて行く。

「そんなに俺の骨が好きか」

「とくに頭の後ろの丸みが」

「フェチだな」

「だな」

「なんか、おまえが頭触ってると、ここにも骨あったなとか思う」

「あ?」

「骨の中に意識があるかんじが、わかるっつーか、きゅーってするから形がわかるっつーか」

「さっぱわかんねえ」

「俺も言っててわかんねえ」

おかえしー、と言ってリモコンを投げ出したサンジは俺の頭のツボを押す。

「いって、おまえ、力入れすぎ」

「加減わかんねえもん」

サンジの意外にでかい手に包まれた頭は、孫悟空の輪のように、きゅうっと絞めつけられるかんじがした。

ビクターの犬がやってきて、俺の変わりにせつない顔でサンジにまとわりついた。

こんばんは、話しかけると、ビクターの犬は、目を細めて、

夜がせつないのは、頭が絞めつけられるようなのは、彼のせいですか、と訊ねる。

いいえ、違います、いつも夜はせつないんです、電波を飛ばし、犬を睨んだ。

テレビの中で、雑踏の群れは、恐ろしいスピードで流れて行く。

 

 

 

狭くて急な階段を降りると、こもった煙の匂いとでかい音が暗いところに充満し、

思わず頭痛をひき起こしそうな勢いで人が密集していた。

「まあ、ゾロめずらしい。来たの?」

バイト先の女が寄ってきて笑いかける。

ずいぶんと機嫌がいいらしい。

「おまえの顔を見に来たんじゃねえ」

「あたしだってそうよ」

音がでかすぎて、顔を寄せ合って喋らないと聞こえない。

「サンジくんなら向こうで女の子といちゃいちゃしてました、それでしょ、知りたかったのは」

「世話焼かれる覚えもねえ」

「まあいいから行きましょ」

手を引かれて奥のテーブルまで歩く。

店に置いてあったフライヤーを見て、あ、これ俺行きたい、と言うサンジに、

うっかり、じゃあ俺も顔出そうかな、なんて呟いてしまったのがいけなかった。

うるさくて、煙くて、でかい声でなれなれしい奴らとかがうざくてやっていられない。

早く家に帰って眠りたい。

「ナッミさーん」

酔っ払いが女の名前を呼んで手を振る。

その隙にサンジの隣にいた女はその腕をすり抜け、どこかへ行ってしまう。

「はーい」

「お、ゾロ」

申し訳程度の明かりに照らされて陰影を濃くしたサンジの顔がこちらを向いた。

「スカだって知ってたら来なかったよ」

「だっせ、おまえ、モロ日本人だからな、裏でリズムがとれねえんだろ」

その言葉にナミが笑って、サンジの頭を掴む。

思わず、あ、と声が出そうになった。

「ま、曲なんてなんだっていいじゃん。うるさくてノリがよけりゃ、みんなそれで満足なんだって」

サンジくんひさしぶり、なんて言う女が次々とあわられては去って行く。

その度ごとに必要以上の親しさとなれなれしさでサンジは女の名前を呼び、会話を交わす。

耐えられなくて、飲み物を取りに行くことにした。

ナミが追ってきて、Tシャツの背中を掴む。

「ゾロ、あんた顔怖い。なに拗ねてるの、せっかく楽しい夜なのに」

「楽しいのはおまえらだけだろ」

「ふうん、そういうこと言うの。いいわよ、見てなさい。もう少ししたらもっとおもしろいことになるから」

「るせえ、だいたいスカは嫌いなんだよ」

「それでもサンジくんが好きだから来ちゃうのよね?

だいったい、あんたがサンジくん見てるときの表情、知ってる?

ハムスターかわいがってるときみたいの。すっごいふつうにキモイ顔。

あー、もー、ほんと、笑えるわ。あんたもかわいいとこあったんじゃないの」

「好きじゃねえ」

「素直じゃないわ。やっぱりあんたかわいくない」

「おまえに好かれたいと思ってないんで」

「ねえねえ、サンジくん酔っ払うとどうなるか知ってる?」

「知らねえ」

「楽しいわよ。あ、でもあんたは楽しくないのかも。どっちにしろたのしみだわ。じゃあ、またあとで」

瓶ごと口をつけてビールを飲みながらまわりを見渡した。

俺の大嫌いなリズムに合わせて体を揺らすやつらと、意味のない会話を続けるやつら、

退屈の隙間を埋めるように煙は次々に吐き出される。

夜は眠れよ、馬鹿馬鹿しい。

ポケットをさぐって煙草を取り出す。

マルボロの箱のなかにはあと一本しか残っていない。

思わず舌打ちをした。

サンジもたしか赤マルだったな、と思い出し、あいつの座っていたテーブルのほうを見ると、

馬鹿はちょうどいま、女とベロチュウの真っ最中で、嫌なリズムが体に刻まれるように、

嫌な気分が腹のそこからやって来て内蔵を力任せに握り込んでそのまま捻り潰そうとした。

もう少しで本気で内蔵潰れるかもと思ったところでしらじらしい声と共に笑顔のナミがやって来て

はーい、ゾロ、と上機嫌に俺の肩を掴んで、おもしろいでしょう、と耳元で言う。

不自然なボリュームとカールの睫毛が頬をくすぐった。

「酔っ払うとサンジくんキス魔なの」

まわりにいるやつ手当たりしだいにキスをするサンジは小さな頭を揺らして笑う。

むかつく笑顔だ。よくない兆しだ。

人が邪魔をするそのせいでその姿はときどき見えなくなってはあらわれる。

カウンターに座り込むビクターの犬が、せつない夜には、

誰かに頭をなでてもらいような気分になるでしょう、と語りかける。

背中から、すう、とせつなさを溶かすように、撫でて欲しいでしょう、と言う。

子供じゃありません、ビクターの犬を見ずに言った。

ライトがチカチカ落ち付かない。

アホのようなボリュームで音が流れる。

あなたはいつも、頭を撫でてくれた、あなたを待ってました、

誰も気付かないのに、あなたは気付いてくれた、

誰かを待ちつづけるせつない心に。お礼をしたかったんですよ、いつか。

あの子を亡くして、あなたはずっと、ひとりぼっちだったんですからね。

ビクター犬は思い出に浸る。

あなたのための手を、見つけて来ました、どれくらいも歩いたことでしょう、

でもあなたのための手は、ここにあった、すぐそばに、まるで青い鳥みたいだ、

あなたのための手は、他にない、見てきたから知っています、

ほんとうですよ、どこにもない、ビクターの犬は語る。

いつ終わるかもわからない曲は人をいらつかせるリズムをえんえんと刻みつづけ、

女の胸に顔をうずめるようにして、サンジがぼやけた目をしてフロアを眺めている。

空調がきっと馬鹿になっているのだ。

煙草と香料と汗とアルコールと、すべてを含んで澱んだ空気は出口のないままあたりを漂う。

薄い空気を犬のように必死に取りこんで、皆は踊ったり喚いたりと忙しい。

作り物のまつげで微笑むナミは、なぜか瓶ごと手にしたラムを煽る。

「男前だな」

「でっしょう。ちまちま飲んでなんかられないわよ」

「よし」

「なにが」

「俺はいまから酔っ払いだ。そういうことで、よろしく。じゃ」

「あんたが酒に酔わないのは誰よりあたしが知ってるわよ」

ナミの小さな呟きが音の合間を縫って聞こえてきたけれど、聞こえないふりをして人をかき分けて、歩く。

体がぶつかる度に舌打ちや、笑い声がした。

女の胸に顔をうずめたアホが気付いて顔を上げる。

状況把握がワンテンポ遅れているとろんとした目で俺を見て、3テンポずれた笑顔で、ゾロォ、と言う。

夜中にリズムは裏打ちで刻まれる。

女をむりやり脇にどけ、丸い後頭部に手をやった。

なにすんのよ、と女が不機嫌な声を上げる。

チカチカ遠くで光るライトに目が眩む。

なにしてんだよおまえ、酔っ払いの口調でサンジが言う。

きっといま地震が来たらここにいるやつらはみんな瓦礫の下敷きだ。

酔っ払って気分のいいまま、ゆらゆらと地底のリズムに揺らされて、下敷きだ。

酔っ払い、顔を近づけて言うと、おまえもそうだろ、とサンジは笑い目を細める。

内蔵がぎゅう、と素手で掴まれている感じが消えない。

ビクター犬のその角度でサンジは首をかしげる。

薄い舌が入り込んでくる。

チカチカ、チカチカ。

どこかで何かを叫ぶ声。

誰かが大声で笑う。

声は続いて行く。

カウンターのところからビクターの犬が視線を投げる。

丸い頭を撫でながら、酔いどれのキスをした。

 

 

 

 

道端にしゃがみ込むサンジは丸い頭を下に向け、あと一本の煙草を吸う。

細く煙はその頭の上で渦を巻き、上へと向かう。

白い指に挟まれたそれが俺の口元へとやって来て、サンジの寝不足で赤い目もこちらを向く。

「やる」

半袖では少し寒い、夏の終わりの午前5時、車の少ない道路を眺めながら一本の煙草を分け合った。

体中が煙草くさい。

サンジの丸い頭からもやはり、煙草の匂いがする。

後ろ頭に鼻を突っ込んで、形を確かめたり、撫で回したり、髪の毛を乱してみたり、しながら電車を待った。

「あーもう帰るのしんどい」

「ここに布団敷きてえな」

「あっ」

「なに」

「いい、寝る。ゾロ、おまえ、枕な」

いまだ酔いの冷めないサンジは俺の膝の上に頭を乗せて体を丸めた。

「つうかてめえ、電車来るぞ」

膝を上下させて揺すると、途端にサンジは嫌な顔をして俺を下から睨みつける。

「揺らすな、気持ち悪い」

「飲み過ぎなんだよ」

青く曇ったかんじの空が頭上に続いている。

道端で寝転ぶ浮浪者のような酔っ払いは真っ赤な目をして俺を見る。

「顔寒い」

Tシャツを捲くって、俺の腹に顔を当てて、あったかい、とサンジが言う。

腹のところに生暖かい息がかかり、白いTシャツは完璧な後頭部の丸い形を浮き上がらせる。

Tシャツの上からその頭を撫でた。

「骨フェチ」

シャツの中から声がする。

「しかも、おまえ、軽く朝勃ちしてない?」

カラスが我が物顔で鳴きゴミを漁り、羽根を大きく広げて飛ぶ。

でかいトラックが大きな音を立て、地面を揺らして過ぎていく。

「なんとか言えよ、てめえ」

サンジが喋るたびに腹に息がかかり、ときおり唇が肌に触れる。

ビクター犬の羽根が、朝の光に透ける。

 

 

 

女のケツに、男が無理やり挿入し、ああああ、と、テレビの中から声が響く。

流れてくるのはフレンチポップス。

合間に喘ぎ声。

ぁ

アッ

は、ァ

愛してる、俺も、愛してない。

腕の中でウサギのように体をちぢこませるサンジは固く目を瞑る。

耳の輪郭を、確かめるように撫ぜた。

軽く、骨の感触。

それは、とても冷たい。

ぴく、とその体が怯えて震える。

閉じられる瞼は不揃いの睫毛に囲まれ、

寝顔とは違う、その顔は、らしくなく弱弱しい。

「1個な、1個、おまえみたいにバカバカ開けんなよ」

手にした針は肉を押し開ける感触とともに、サンジの耳たぶへと吸い込まれていく。

白玉粉は耳たぶくらいの固さにしてください、ガキの頃調理実習でそう習った。

けれどきっと、柔らかなサンジの耳たぶで、あの法則は通じない。

「痛いか?」

「麻痺してるからわかんない・・それよりなんか気落ち悪い、変」

ぎゅっと瞑ったままの目でサンジは言う。

ウォッカを口に含んで、耳を食んだ。

かすかな血の味と酒の味。

それは俺の下腹部に熱を生み、じんわりと痺れるようになる。

ビクターの犬が、夜は長いのでしょうね、と語りかけた。

長いですよ、と返す。

とてもとても、長いのでしょうね、ビクターの犬の声は、夜の静けさに似る。

ええ、とてもとても、とっても、長いのですよ、変な言葉遣いで言った。

「なんかジンジンする」

「俺の1個やるよ」

「えー、ばっちいからヤダ」

サンジの耳にさっきまで俺の体の一部を構成していたそれが、ゆっくりと入っていく。

「アレルギーおこしそう」

熱を持つ小さな耳にはめ込まれるのは銀の色をしたピアス。

「腐って落ちたらどうしよう」

もう1度、ピアスごと耳を食んだ。

「庭出て花火すんぞ」

 

お徳用パックの花火には値引きのシールが貼ってある。

暗い庭にこっそりと、花火に火をつけ、黙ったままスイカを食った。

持ち出したソファーに寝そべり、秋の匂いの夜の気配をまとったサンジは、花火の火をぼんやり眺める。

足元の伸び過ぎた草が足をくすぐって、バケツで花火はじゅうっと音を立てた。

「夏の星座知ってるか?」

「まったく」

「来年はきっとここにスイカがなる」

種を飛ばしてサンジが言った。

暗闇に黒い種。

どこへ飛んで行ったのかもうわからない。

手元の線香花火はもう終わってしまった。

丸い頭は天を仰ぐ。

草の上にはビクターの犬。

長い夜を見守る為に首をかしげる。

べとべとになった手のまま、頭を撫でると、嫌な顔をされた。

草の中から虫の鳴く声がする。

夏がもう去ってしまおうとしていた。

 

 

 

ふたりだけの家の中はシンと静かで、存在を主張しないサンジの気配はそこへ溶けるようにして、ある。

肌は白くその目は赤い。

まるでウサギだ。

さっきまで床に転がってご機嫌な歌を歌っていた酔っ払ったウサギは、

ベッドに上がり込み、馬鹿のようにその2文字を繰り返す。

ゾロ、ゾロ、ゾロ、ゾロォ、無意味に声が繰り返される。

頬を抓った。

サンジの頬はつるつるとして白い。

不機嫌な目はウサギのように赤く血走っている。

「いてえいてえいてえからやめろよばあかばあかばあかばあか」

なんだかもう、たまらないのですよ、と彼の肩越しにビクターの犬に言う。

どうしてこんなにもうまく、出来てしまっているのでしょうね。

そう言うと、ビクター犬は困って笑う。

だってあなたのためのものですからねえ。

その髪に、鼻を突っ込んで、ぐしゃぐしゃにして、ついでに耳を食んだ。

小さな耳には俺が開けたピアスホール。

それは少しだけの熱を持ち、腫れている。

ウォッカと血の交じり合った味を舌に感じ、内蔵が痛んだ。

雑巾を絞るように絞めつけられる内蔵は声もなく悲鳴を上げる。

小さい頭は俺の手のなかで完璧な丸さを誇る。

つむじにキスをした。

なんでこんなに、丸いんでしょうね、部屋の隅のビクター犬に言った。

丸いですねえ、たしかにすごく丸いのですねえ、ビクター犬は部屋の隅で首をかしげる。

でも、どうしてでしょう、丸くて、困るんですよ。

どうしてでしょうかねえ。

どうしてなんでしょう。

丸いですからねえ。

そう、丸いんですよ、ほら、こんなに。

あなたのためのもの、みたいですものねえ。

俺のためのもの、なんでしょう。

そうですねえ、完璧に丸いんですものねえ。

ちょうど胸のところにいて俺のシャツをいじって遊んでいるサンジは

そんなやりとりに気付きもせずに、しまいにはシャツのなかに手を入れて寄越す。

「冷てえからやめろ、いいから寝ろ」

「眠くない」

ふくれっつらで言うのでゲームボーイを与えることにした。

テトリスの曲が鳴りはじめる。

チャンチャラチャンチャラッチャンチャラチャッチャチャンチャンチャン

しばらくして、スペースシャトルの飛んだ音。

「10万点行った」

その髪はラックススーパーリッチの匂い。

腕の中のウサギは、ゲームに夢中だ。

 

 

 

「ね、どうして男って、ヤりたいばっかなんだろうね」

固くて噛み切れないコーラ味のグミを噛みながら、ナミが、天井に向かって言う。

無視をしていたら、あんたに言ってんのよ、シカトしてんじゃないわよ、

答えなさいよ、そこの緑のあんた、と耳を抓られた。

「俺に聞くなよそんなこと」

「ヤりたいばっかりで、じゃああたしじゃなくてもいいのかなー、とか思ったり、しない?」

レジの陰にしゃがみ込んで、グミを噛んだ。

ジャ、ジャ、ジャ、ッジャッジャ、とギターの音がスピーカーからする。

「しねえ」

「そりゃあんたは男だからね」

「じゃあさいしょっから同意とか求めんなよ」

固えな、これ、と言うと、イライラしてるときには柔らかいものはだめなのよ、

歯、くいしばれないじゃない、と、ナミはグミを噛み締める。

「でも最近のあんたはいいかんじだったから、

そういうこと、わかってくれんじゃないかって、

思っちゃったのー、あーあ、なんかもーやだなあ。

なーんか、夕日が赤いのと一緒みたいなの、すごい、うらやましかったんだけどなあ」

「なんだそれ」

新品の服の匂いと、ナミの体からする香水の匂いと、

グミの感触と、尻のしたの固い床の、たるく時間の進みの遅い午後に、

だれえっとしたまま、Tシャツのスパンコールが光を跳ね返し

水玉模様を描く、天井に向かい、あの骨格を思った。

きっと今頃は、長い前髪を額にはりつかせてフライパンを握る男の、

なでらかな肩と完璧に丸い、あの頭を、うなじの曲線を、思う。

「酔っ払ったなんて、いい訳にもならないこと言って、

それでもキスとかしちゃうでしょ?ふつうならしないもの、

だってサンジくん男だし、あんただって男だし、別にそういうこと

偏見なんてないけど、躊躇とかないもの、

したいからします、この人しかいないんです、みたいな顔で、しちゃうんだもの。

だからもう、空は青くて夕日は赤いのよ」

 

 

 

サンジの体から、スイカの匂いがする。

「スイカ食った?」

「へ?スイカ?こないだ食っただろ?」

「違う。おまえだよ。スイカ臭え」

「んー?・・・あ、そうか、香水」

自分のシャツを匂って、サンジは思いついた顔をした。

スイカの匂い、ラックススーパーリッチの匂い、夏の終わりの匂い。

テレビから流れてくるのは昭和のノスタルジーが色濃いようなジャズ。

小さな顔を半分Tシャツで覆い、目だけ出して、サンジは、ほんとだスイカっぽいと呟いた。

「ジュンコか」

「誰だよ、ジュンコって」

「知らねえよ」

「こっちこそ知らねえよ」

その耳に埋まっているのは、3年ほど俺と心身を共にした我が子のようなピアス。

骨格が、素晴らしいでしょう、ビクターの犬に電波を飛ばした。

ええ、とても、ビクター犬は笑う。

骨格が、素晴らしいんですよ、また言った。

そりゃあ、あなたのためのものですからねえ、ビクター犬が首をかしげる。

俺もそう思うんですよ。

「おまえもしかしてジュンコに嫉妬してんじゃねえの?」

笑う顔は、夜の闇をとろかした。

 

 

コンビニへ数メートルの距離を、夜中に並んで歩く。

腹減った、と言うと、なんか買いにいこうかあ、と夜中独特の間延びをさせた声で腕の中からサンジが言った。

街灯のほとんどない、暗い住宅街の細い道を大通りへと行く。

月と犬が、夜空に浮かぶ。

夜はいつになっても、暗いものですねえ。

月の隣から犬が語りかけた。

暗くて、不安になるのです、そう言えば、笑って、大丈夫ですよ、そこに手がありますから、と言う。

街灯の変わりに、先を行く丸い頭が地上の月のように揺れていた。

風が吹いて、ラックススーパーリッチの、洗いたての髪の匂いがした。

「おかあーをこおーえーゆこーうよー」

シャンプーの匂いに乗って、ヘタクソな歌が夜のその中に響く。

「くちーぶえーふきつうーつうー」

そこに手があった。

暗い夜の中に、丸い頭と、手があった。

シャツの裾を握ると、どうしたあ、と丸い頭が笑う。

「あんまり暗くて、迷子になりそうだ」

夜が暗くて、長いから、だから、こんなにも放り出された気分になってしまうのですか。

訊ねる俺に、ビクター犬は、大丈夫ですよ、と言う。

彼の手が、あると言ったでしょう。

「しょーがねえなあ、さびしんぼー」

シャツの裾を握った手が、温度の低い、白い、その手に包み込まれた。

「そらあーはすーみーあおぞらー」

夜空の下で、サンジは青空の歌を歌う。

その手だと、思うでしょう、あなたも、やはりそう思うでしょう。

犬が言う。

そうですね、疑いようもないような、そんな手をしています。

どんなに暗くとも、あなたは平気ですよ、その手があれば、どんな道も、嵐も突風も。

やさしい仕草で羽根を羽ばたかせ、月と並ぶビクターの犬は遠吠えをした。

「ランララアヒルさんー」

「があがあ」

右の手に感じる温度に酔いながら、アヒルの真似をした。

ひゃっはっはっは、とアヒルのような口が笑い、歌う。

「ララランララヤーギさーんもー」

「めー」

うっはっはっはっは、さみしげな肩が、楽しげに上下して、

月と犬は、夜空を、ぽわりぽわりとたゆたっていた。

 

 

 

小さな頭がこちらへ近づいてくる。

あの風情でしょう、とビクターの犬が笑った。

そうなんですよ、あの風情なんですよ、あなたに似た、あの風情なんですよ。

夜道をひょこひょこ猫背気味で歩く頭を上から見下ろし、サンジ、と呼んでみた。

「え」

驚いた顔でサンジがこちらを見る。

その手にはきっと自分のぶんだけの、菓子や飲み物が入っているだろう、コンビニの袋をさげている。

「え、ってなんだよ」

「そんなとこから見てると思わなかったし」

照れたようにサンジはうつむいて頭を掻く。

ビクターの犬のように、うつむいて、照れる。

その後ろをママチャリのばばあが通って行った。

月はまだ低いところにある。

 

部屋の中に入り込み、いそいそとサンジはアイスを食べながら、

レコードをかけ、サンジと書かれたテープをセットして、

この間から夢中になっている俺テープというものの制作に没頭する。

亡くすということは、届かないってことなんですよ、温もりにね、届かないということ、なんですよ。

ガキの俺にビクター犬はそう言った。

それでもね、あなたは明日も給食を食べるし、夜は眠って、そういうことをね、

繰り返して行くんですよ、いっぱい泣いてください、繰り返す為に、負けないように、泣いてください。

いつか、大きくなったときに、本当に負けないように、泣いてください、いまはいくらくらいでも。

そして、あなたはいつかの明け方に、誰かの寝息を聞くでしょう。

その寝息は、亡くす予感に満ちては、あなたの胸を打つでしょう。

それでも大丈夫ですよ、誰かが、あなたの傍で眠る誰かが、

あなたのためだけのその手で、背を撫ぜてくれるでしょうから。

その手に出会うために、いまは泣きなさい。

せつなげにギターが鳴って、男が歌い出す。

やがてそこには子供のコーラスが入り、せつなげな雰囲気をより一層盛り上げる。

夏の海で夕暮れどきに聞けば、サンジ曰く、泣き入る曲、だ。

「おまえ暇なの?」

「なんで?」

「いっつも俺んとこ来るし」

スプーンに乗ったアイスが口元へ運ばれてきた。

「それはあ、おまえが、暇そうだから」

「暇じゃねえぞ」

アイスが舌のうえで甘苦く溶ける。

んんん、とスプーンを咥えてサンジが眉を顰める。

「んんん、じゃあ、なんでいま俺といんの?」

「たまたま」

言いながらサンジの丸い頭を撫でた。

憮然とした表情をしてサンジが俺を見る。

口を開きかけ、そして止めた。

「なんだよ」

「なんでもないよ」

俺のためのものなんですよ、ビクターの犬に言う。

あなたのためのものですからねえ、ビクターの犬が答えた。

ラーラーラーララランランラー

子供のコーラスがギターの奏でるメロディーにのって流れてくる。

「なあ」

髪に鼻を突っ込んでたら、声がした。

頭の中から声がするみたいでおもしろい。

突然後ろを向いたサンジに頭を掴んでいる手を外され、

抗議する間もなく、その手を胸に当てられた。

平らなそこからは心臓の音がする。

「え?」

「おまえ、俺のことなんだと思ってんだか知らないけど」

テープがカシャッという音を立てて止まり、レコードの針がキュウキュウ苦しそうにしている。

そのキュウキュウってのが自分の口から出ているような気がしてしまい、口をつぐんだ。

「俺は、充分、しっかり、男なんだけど」

「そりゃ周知の事実ってやつだ」

「知ってたの?」

「知らないほうがどうかしてるだろ」

「だっておまえの行動はどうかしてるだろ」

「してねえよ」

「してる」

苛立った顔をしてサンジは言う。

内蔵をまた誰かが素手で捻り潰そうしている。

キュウキュウとまだ音がする。

サンジの舌は、抹茶の味がする。

「どうかしてる」

どっかべつのところからサンジの声がした。

ほんとどうかしてますね、ビクター犬に電波を飛ばした。

わかりません、でもそれはあなたのものですからねえ、とぼけてビクターの犬が言う。

こんななんもない胸みて興奮するなんて、俺ほんとどうかしてますね、

自嘲すると、ビクターの犬は、わかりません、というように鳴いた。

でもねえ、やっぱり、俺のものだと、思うんですよ。

だって、おさまりが良過ぎる。

おかしいでしょう、どうかしてるでしょう、こんなものどこ探したってないって、

言ったのはあんたでしょう、だからこれは俺のものなんですよ。

俺の言葉にビクター犬が鳴く。

所有の印に、サンジのケツに齧り付いた。

 

 

 

 

休憩中のサンジが、他のコックに髪の毛をぐしゃぐしゃにされて遊ばれているのが見えた。

「わー、やだ。顔こわーい」

ナミが横でうざい。

その間もサンジは頭を撫でられたり叩かれたりと知らないやつとじゃれている。

「うるせえ」

「やさぐれちゃってえ」

「うるせえな」

「怒鳴らないでよ。お客さん入ってこれないじゃない」

「俺が出てけばいいんだろ」

「なんなの、そこまで言ってないわよ」

外へ出ると、サンジが気付いて、ぐしゃぐしゃの髪で、あー、ゾロ、と笑った。

「休憩か?」

「いや、暇で」

「大丈夫かよ、おまえんとこいっつも暇じゃん」

サンジとじゃれていたコックを睨むと、戻るから、と声をかけてそそくさとそいつは退散してしまった。

「俺もそろそろ戻らないと」

そのまま立ち去ろうとする頭を掴んでぐりぐりと撫でまわし、怒鳴られながらも髪の毛をめちゃくちゃにして、

なにすんだよ、というのも聞こえないふりをして、相変わらず完璧な形をした後頭部に鼻を突っ込むと

安物のシャンプーくさい髪がもはもはと、鼻の先をくすぐった。

いいかげんにしろ、と道行くやつらが振りかえるほどの大声で言われて、

そこではじめて手を離すと、死ね、骨格マニア、俺はおまえの

お気に入りのオモチャじゃねえんだぞ、とみぞおちを思いきり蹴られ、

その場にうずくまりながら、怒鳴り続ける丸い頭に、俺のもんだ、と思った。

俺のもんだ、簡単に触らせてんじゃねえ。

ビクターの犬がいますぐここへ現れて、あなたのものですよ、そう

囁いてくれればいいのに、と思いながら、俺のもんだ、と吐き捨てた。

 

 

「どうしちゃったのよ」

「べつに」

「ふうん、元気ないからおっぱいでも見せてあげよっかなーと思ったのに。やめた」

「・・・いくらだ」

「特別サービス500円」

手をパーの形にしてナミは俺の顔の前にそれを突きつける。

安いのか高いのか徳なのか損なのかよくわからないが、とりあえず500円で手を打ってみることにした。

「見せろ」

それなのにTシャツの首のところをひっぱって、ナミの無駄にでかい乳を見てもだめだった。

「もうだめだ」

やはり俺のための体はあれでしかなく、

他に変わりも代用品も、用意されていないのだ。

「なにが。はい、500円」

「給料から引いとけ」

ジャズだかファンクだかヒップホップだかソウルだかわからない曲が店に流れ、

ナミがそれに合わせて腰を振った。

客が、ビートに乗れ、と英語でかかれたTシャツを胸にあてて、鏡を覗く。

乗れるビートがねえんだよ、うなだれながら、あの骨格を思った。

俺のためのもの、ビクターの犬が、探し出してきた、たったひとつの、美しい曲線。

 

 

 

 

歩くサンジの真上にある月は、ぽっかりとして、あいつの小さな頭を照らしていた。

窓からの俺の視線に気付くと、しらじらしい笑顔で上を向いた。

「よう」

車の通らない静かな道路に、サンジの大声はすっきりと響き渡る。

「なんかさー、なんか、知んないんだけど、なんか、なんか最近、夢枕に犬が立つんだ」

月の明かりと街灯の光で、しらじらしい笑顔で、俺を見据える、遠目にもその表情がわかる。

「その犬が言うんだ、あなたの夜は長いのですか、って。

とてもとても、長いのですかって言うんだ」

窓の下でサンジがそう言ってうなだれた。

「ああ、ごめん、なに言ってんだろ、

でも、なんか、腰痛えし、ケツ痛えし、しまいには胸まで痛いし、

あーごめん、ほんとなに言ってんだろうな」

ゆるくため息を夜の闇の中に吐く。

頬を撫でるのは涼しい風。

秋の気配だ。

夜は、きっと、まだまだ長く続きますよ、ビクターの犬が囁いた。

まだまだ長いのですか、同じように俺も囁く。

せつなく長いのですよ、ビクターの犬は言う。

これからもっと、せつなく長くなるのです、ふたりでいれば、そのぶんだけ、ずっと長く。

半分になるのではないのですか、あいつが、半分、持っていってくれるんじゃ、ないのですか。

いいえ、せつなさも、夜の長さも、きっと倍増するのですよ、

けれど悪くはなりません、泣いてしまうほどせつなくて長い、そんな夜を、

胸を引き千切るような夜に、あなたのためのあの手が、背中を撫ぜてくれるのです、

せつなさは深くなり、あなたは夜の底に沈むでしょう。

「そいつが言うとおりなんだ、夜が長いんだ、

夜が長いのは、きっと、おまえのせいなんだ、知ってんだ俺。

ほんとうは、どうかしてるのは俺のほうなんだ。でもだめなんだ、夜が長くて」

わおおーぅん、ビクターの犬が鳴いている。

秋の涼しい夜風に、駐車場の雑草の中から虫の鳴き声もする。

「ゾロォ」

「なんだよ、ハーゲ」

「なあ、ゾロ、おまえの夜も長いかよ」

「長えよ、ばーか」

「長えよな、夜」

「ほんとにな」

「でも、俺の夜は、完璧におまえのせいなんだからさ」

気が遠くなるような、深い夜に、あなたはきっと、涙するでしょう。

ビクターの犬が言った。

それに、とビクター犬は月を仰ぐ。

それに、せつなさはさみしさとおなじではありませんよ。

間違えてはいけません、せつなさはさみしさを含んでいますけれど、けしておなじではないのです。

深い夜の中であなたはあなたのための手に触れられる。

そして、あなたはその手の、やさしくて、やさしくて、静かで、暖かい、

胸をやさしく絞るほど静かで、暖かく、亡くす予感に満ちた、そんな寝息を聞くのでしょうね。

ねえ、あなたの胃を絞め付けるそれは、世界の夜にどれくらいだって存在するのですよ。

どうしたって哀しいのですよ。せつないのですよ。夜は、長く長く、永遠に続くのですよ。

それでもあなたはきっと幸福なはずです。

ビクター犬の羽根がぱたぱたと揺れた。

俺のための手を持った、丸い丸い頭が上を向く。

「だから、骨以外も好きんなってよ、ゾロ」

「アホサンジ」

「なんだよ」

「ばーか」

「なんだてめえ」

「ぶあーっか」

「てめえ!」

「気付けっつーの、ばーか」

アホが、拗ねたような困ったような、そんな顔で首をかしげる。

「ばあーか、はーげ」

まるでビクターの犬ような風情で、月の下、首をかしげる。

「知っとけ、ばーか」

いつかこのせつない夜を越えれば、きっと、そうビクターの犬が囁いた。

彼が夜空に、描くでしょう、それを。

見せてくれるでしょう。

ビクターの犬の真っ白な羽根が、闇に浮かび、最後のセリフを投げかけて去っていく。

夜空に浮かぶ虹をあなたに。

「知っとけよ、俺が、おまえの、骨まで愛してんだってことくらい」

そうして愛について物語ったビクターの犬は、夜空の遠くに星になって消えた。

 

 

おわり