ありったけの愛

 

 

 

 

 

 

 

ラブホテルニューヨークには、屋根に自由の女神が立っている。

そんな場所にあってさえ女神の横顔は凛々しく美しい。

だからきっと、すべては自由なのだ。愛も、きっとエロさえも。

夕暮れに、誇らしげに松明を掲げる彼女の姿に、いつもゾロはそんなことを思う。

 

 

 

 

 

よくぼうにぬれるにくぼう。

郵便受けに突っ込まれた宅配ビデオのチラシの文字を黙読し、ため息をついて、くしゃりと丸める。

有害チラシお断り!大きく書かれた張り紙の脇を抜けて、エレベーターへ向かった。

よくぼうにぬれたにくぼう。

呟いて、鍵を回す。

家の中はがらんどうで、キッチンのテーブルに、おかずだけが並んでいる。

それをただ一瞥し、隣の部屋の気配を探ってから、ため息を吐き、自室のドアを開けると、

明かりのつけない部屋の外に、夜景が美しく広がっているのが見えた。

遠くの、遠くのほうに小さく、東京タワーと、揺れる赤い光がある。

ヘリコプターが、夜に飛んでいるのだ。

 

 

 

セイタカアワダチソウを、ゾロは昔、セイタカアダチソウだと思っていた。

川原にしげるその草の名前を、間違って覚えていたのは兄で、

その間違った知識を、そのままゾロは教えられた。

足立区に生えてるからアダチソウなんだぜー、と兄は言った。

足立区にしか生えないんだぜー。

幼いその頃、ゾロが夢中になって通っていた道場に、

迎えに来るのはいつも兄の役目で、帰り道にはよく、川原で弁当を食べた。

そこには一面、セイタカアワダチソウが生えていて、その向こうには川が流れ、

兄の作る弁当は薄味で、おにぎりばかりがやけに大きかった。

一度だけ、兄が迎えの時間を忘れていた事がある。

8時になっても9時になっても、迎えに来ない兄に焦れて、

ゾロは家を目指し、はじめてひとりで夜道を歩いた。

ゾロ、先生が送って行ってあげよう、という声も無視して、夜道を家まで走った。

あんな馬鹿が来なくたって、家くらい、ひとりで帰れる。

酔っ払いの大きな声に驚いたり、いつもはっきりと見通せる通りが暗くて、

どこまで続く道なのか、不安になって路地を曲がるとそこは薄暗く、

締めっぽいもっと恐ろしい場所になり、闇雲に駆けて着いたのは川原だった。

うっそうと生えるセイタカアワダチソウに、ようやくこれで、家に帰れると思った

とたんゾロの足からは、力が、かくかくひゅーう、と抜けて思わずその場に倒れこんだ。

良かった、大丈夫、川原を歩いて行けば家に着く。

だってこれは足立区にしか生えない、セイタカアダチソウなのだから。

そして、まっすぐまっすぐに、川原を歩いた。

アダチソウ、アダチソウ、と唱えながら、夜道を歩いた。

いつもは見かけない、イトーヨーカドーの看板や、

ナショナル電気の看板に、気付きもしないでまっすぐまっすぐに歩いた。

けれどどこまで行っても団地は見えず、アダチソウアダチソウ、と唱える呪文も、細く弱くなって行った。

いつも繋ぐ、兄の白い手が、懐かしくて恋しくて、兄の名前を呼んだ。

呼んだらもっとかなしくさみしくなって、川原でゾロは大声で泣いた。

ばかやろう、早く迎えに来い。

手を繋いで、家まで連れて行け。

ひとりじゃ無理だ。

家にも帰れない。

おまえがいないと、なんもできねー、ちくしょー、ばかやろー。

頭が痛くなるまで泣いた。

闇はどんどん深くなるようで、川の音もますます大きくなるようだった。

おにぎりを頬張って、文句を言って、殴って蹴られて、

そんなときには、闇も音も、もっとおとなしい様子をしているのに、

いまはゾロを丸呑みしてしまいそうに、唸りを上げて襲い来る、まるで魔物のようだった。

サンジー、サンジー、サンジー、サンジィー、ってねえ、おにいちゃんの名前?

すごい必死に呼んでてねえ、ゾロを保護した警官が言った。

すみませんすみません、と母親は頭を下げて、青い顔をした兄は、その場で母親にぶたれた。

なにやってるの、あんたおにいちゃんでしょ!

なにかあってからじゃおそいのよ!

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と火が付いたように兄が泣いた。

まあまあお母さん、お子さんもこうして無事だったんですし。

おなじ顔をしておなじように取り乱した家族がふたり、駆け寄ってきて抱き付いた。

ふたりはおなじように、警官の匂いとも交番の匂いとも違う匂いがして臭かった。

家臭い、とゾロは思い、交番の、狭く薄汚い天井を見上げた。

このふたりがいればもう大丈夫だ、家にも帰れるし、暗闇も川の流れも恐くない。

不安はどこかへ行ってしまった。

そして兄の、小さく白い、手を握った。

 

 

 

 

 

ここのところ、毎日のように、上の階の窓からは夫婦生活に励む声が、

窓を開けるたびに、夜の空気に乗って流れて来る。

ああーーーー、あー、あっ、あー、あっ、あっ、あっ、あっ、あー、あ。

開けっぱなしの窓からの声に、ゾロは、よくぼうにぬれたにくぼうのことを考えるのだ。

隣の部屋で眠る兄の、白い尻の奥の穴のことだとか、自分の剥けかけの性器だとか、

彼の細く長い指だとか、まばらに生えた睫毛や、湯上りに赤く染まる首筋や、

下半身に集まる熱だとか、固くなって反りかえる性器から飛びだしティッシュに拭われる液体のことだとか、

解放してもまだ熱いそこに手を這わせ、罪悪感と共に呼んでみる名前のことだとか、

あの寝顔だとか、声や匂いや冷たい手のひらの温度や、彼の持つすべてが、

ゾロのそういうものすべてを、否定して拒絶することを、思う。

こういうのはたぶん秘密にしておいたほうがいいと思う、と彼は言った。

でも、ほんとうは、ゾロがこういうことで辛くなるのが一番やだ。

見なかったことにしようとか知らなかったことにしようとかなかったことにしようとか

ぜんぶ消してしまったら楽なのかもしれないけど、そしたら、まるで、

俺達のこれまでもぜんぶ、人生ぜんぶ否定されるみたいで、かなしい。

おまえ、いつの間にお兄ちゃんによくじょうしちゃうような、そんな変態になっちゃったの。

彼の髪からは、母親が近所の薬局で買ってくる安物のシャンプーの匂いがした。

それは同じように自分の髪からもするのだろうと思ったとたん、

ゾロは思わず、ごめん、と口にしてしまった。

彼への、あるいは生んで育ててくれた両親に対しての、もしかしたら、

(それはもちろん自らの手によって)すぐに殺されてしまうのだろう、

自分の想いへの言葉だったかもしれない。

かなしくなり、ゾロは彼の名前を呼ぶ。

とたんに腰が疼く。

もそもそと、手を這わせ、もう一度彼の名前を呼んだ。

呼ぶたびに罪悪感はつのり、けれど小さい声で、また呼んでみる。

だんだんと熱は成長し始める。

あー、あっ、あー、あー、ああー、あっあっ。

聞こえる嬌声は激しくなり、夜風が部屋へ入り込む。

赤ん坊の夜泣きの声がし、嬌声は途切れて再び再開する。

目を瞑り、ありったけの記憶を手探り寄せる。

泣き顔、笑顔、怒る顔、拗ねた顔、驚いた顔、かなしい顔、

泣いた顔、泣いた顔、泣いてしまった彼の顔、涙で汚れた彼の顔、

温度を持たない、ただの記憶、たくさんの顔、熱は解放を求め、ゾロは手の動きを強める。

声を想像した。

ゾロ、というときの彼の声、唇の動き、響き。

やがてそれが駆け上がって来る。

サンジ、と呟いた。

一呼吸ののち、ティッシュで性器を、空しさを拭う。

拭いながらゾロは、泣いても、いいんじゃないか、といつも思う。

これほどかなしく空しくて、なのにどうして彼なのだろうかと、思いながら、ズボンをずり上げる。

これもいつものことだ。

繰り返し、繰り返し、変わる事はない。

扉が開いて、隣から、彼がやってくればいいのに、と思うこともある。

郵便受けに突っ込まれるチラシの中の、派手な下着を着けた欲求不満の叔母や義母のように、

夜中に部屋へとやって来て、よくぼうにぬれたにくぼうを、こんなにしてしまって、かわいそうに、

などと陳腐なセリフでも囁いて、指を這わせ、咥え、そしてそのまま堕ちてしまえばいいのに。

けれどもう2度と、ドアが開かれることはないだろう。

 

 

 

こんなふうにしていられるのもあとちょっとなのねえ、と

いつかの夕飯の席で母親が、ふたりを前に言った。

あと少しってなに、と小学生の兄は言って、彼女は

大人になったらあんたもゾロもこのお家から出て行ってしまうってことよ、

と笑い、なんで、と兄は口を尖らせた。

「俺ずっとここにいるよ、お母さんとゾロのそばにいるもん」

「なによ、かわいいこと言っちゃって。あんたもねー、すぐそんなこと忘れて

ヨソの女の子のことばっか大事にしちゃったりするのよ。

あーやだ。なんか想像するだけで腹立つわねえ」

そのやりとりを黙って聞いていたゾロがめそめそと泣き出したのに、

母親と兄がひどく驚いていたのを思い出す。

ゾロは泣かない子だから、と小さい頃から母親は良く言ったし、

実際自分が泣いた場面などを思い出そうとしても、思い付かない。

あの川原の記憶以外になかった。

それくらいにゾロは泣かない子供だった。

その泣かない子供が泣いたのは、世界の終わりを告げる母親の言葉のせいだった。

「ずっと一緒じゃないってこと?」

涙に濡れた自分の声がいまだどこからか聞こえてくるような錯覚さえする。

「そりゃあずっと一緒にはいれないわよ。あんたそんなに家が良かったの?

だって、狭いわよ。それにねー、ずっと親元で暮らしてますなんて子、

モテないわよ。なによ、なんで泣くの、死ぬわけじゃないのよ、

ただ一緒のお家には住めないかなあ、ってほら、お兄ちゃんもなんとか言いなさいよ」

母親の声に困り切ったような顔のサンジは、ゾロの髪を引っ張って上を向かせて言った。

「じゃあさ、俺が家建てるから一緒に住もう。

お母さんとも離れなくてすむように、となりの空き地に建てるから」

引っ張られた髪が痛くて、泣き過ぎて頭も目の奥も痛かった。

「良かったわねー、ゾロ、お兄ちゃんが一緒にいてくれるって」

「っ、やくそ、く、する?」

しゃくりあげながら言った。

幼いゾロの必死さをいたわるように、あのとき兄も母親も、不思議なほど優しかった。

「ほら、お兄ちゃん、約束してあげなさいよ、指きりげんまんしてあげなさい」

あのときの指きりの感触だって覚えている。

この間、隣りの空き地には大きくあたらしいマンションが建った。

真新しいマンションを見上げるゾロの胸はきりきりと音を立て、

指きりげんまんうそついたら針千本飲ます、という彼の声がどこかで聞こえた。

隣の部屋で、物音がする。

体を起こすと、ドアが開いた。

「ただいま、飯、食ってねえの」

ドアは開いた。

なのに、遠い。

「あ、・・学食で、夕方も食った」

「そう」

答えながらゾロはいつもどおりだと思う。

いつもどおりで、けれどこの妙な空気は、ちっともいつもどおりでない。

時間の経つごとに少しづつずれてしまったものが、ゾロのひとことによって、崩れて落ちたのだ。

「なに、やってた?」

「・・・・べんきょう、予備校」

「・・・そう」

「・・・おやすみ」

「おや、すみ」

閉じるドアの隙間の丸い後ろ頭に、いつもとおなじようで違う声に、言葉に、泣けばいいのかと思う。

泣いて叫べば、兄はゆびきりげんまんなどと言いながら、いつかのように小指を絡ませそれを揺らすだろうか。

なにより大事、誰より大事、君がすき。

泣けないのは、彼が困るのを見たくなくて、家族が悲しむのが見たくないからで、

けれどそれが欺瞞でしかないことを自分は知っていて、ほんとうは、彼が困惑しようと悲しもうと、

自分の想いだけをぶちまけてしまえたらいいと思う。誰の意思も関係なかった。

思い返すあの日々が、ずっと続けば良かったのに。

小さく音楽が、隣の部屋から漏れ聞こえる。

開けたままの窓からは、再開された夫婦の営みのその声。

瞑った瞼の裏側の、松明を掲げる女の横顔にゾロは、

ふたりのために建てられるはずだった、小さな家のことを、思った。

 

 

おわり